七
七
人を分け、猫を跨ぎ、橋を渡り、 翔ぶが如き疾さで刀治は伊予松山藩邸に辿り着いた。
「……ハッ! すみませぬ……。ここに……武田新三郎殿は……居られるか……ッ!」
息を乱しながら、刀治は藩邸入り口の見張りに尋ねた。しかし、見張りは顔をしかめて刀治を追い払おうとする。
「なんじゃ貴様は! ここは貴様のような浪人風情には関係ない場所じゃ!」
「……五月蠅ぇ! こちとら澪さんの命が係っとるんじゃ!」
怒り気味に、見張りに詰め寄る。しかし頭の芯はまだ冷静であった。刀治の目論み通り、「澪」の名を出した途端、見張りどもが動揺した。
「早ぅ言え……新三郎殿は何処に!」
「ぬぅ……」
怯む見張りに、刀治は更に詰め寄る。
「……そこの。今、澪と言ったか……?」
その時、刀治の背後から声が響く。何事かと振り返ると、なにやら立派な着物に、三つ葉葵の紋付を着た武士が訝しげな表情で立っていた。更にその武士の後ろには、お付きと思われる若い武士が二人ほど控えている。
「……あんたは?」
「貴様! なんだその口の聞き方は!」
怯まず、淡々と、刀治は口を開いた。その様を見た見張りの男が顔を青くしながら怒鳴った。
「そのお方は松平家当主、松平定助様であるぞ!」
「……松平」
思わぬ人との遭遇に、刀治は今一度、定助と真っ直ぐに向き合った。
年の瀬は二十五ほどであろうか。角ばった輪郭に、思慮深さが滲み出る細い目、そして愛嬌を感じる丸みのある鼻と、実に人の良さそうな顔つきである。しかし、その佇まいは威厳に満ちていた。
「よい。今は礼法についてとやかく言うつもりはない」
落ち着き払った重々しい声で、定助は見張りを制した。
「そこの者の言うとおり、儂こそ松平家当主、松平定助じゃ。そなたの名は?」
「……浪人の細川刀治と申します」
「ふむ……。それで、そなたは何故、澪のことを知っておるのじゃ? わざわざここでその名を喚いておるのじゃ。儂の思う人と、同名の他人と言う訳ではあるまい」
じっと、射抜くような鋭い目で、定助は刀治を見据える。しかし刀治は一切怯まず、堂々と今までの経緯を話した。澪との出会い、新三郎との出会い、澪の真の素性、そして新三郎と共に消えたこと――。
「……ほんで、澪さんが新三郎殿に殺されぬように、彼の居場所を知りたいのです」
刀治はそう締め括り、定助の反応を見守った。
「……ふふ」
一通りの話を聞き終えた後、定助の口から笑みが漏れた。そして我慢できないと言わんばかりに、見張りやお付と共に大笑いし始めた。
「……いや、失敬。なんとも、刀治殿よ、考えすぎじゃ」
目じりに涙を浮かべるほど大笑いしながら、きょとんとする刀治に定助はそう言った。
「まず、新三郎が澪を斬るなどあり得ぬ。あれは私の腹心ぞ」
「いや、しかし……」
「それに、奈津が手にかけると言うことも最早あり得ぬ。――確かに、奈津が鈴の側室入りに大反対したのは確かじゃが、七日前の話し合いでなんとか納得してくれたわ」
「……なんと」
まさか、己の早とちりなのかと、刀治は唖然とした。
「まぁ、側室入りの許しが出たことを澪に伝えようとしたら、忽然と消えておったのは確かじゃ。ただそれも、儂と奈津の仲が悪くなると気を病む節があったからきっとそのせいじゃろう。新三郎が澪を探していたのも、澪を探すのを頼んでいたからじゃ」
「ではまさか、本当に某の早とちりで……」
「まぁ、そうじゃな。……しかし、一度は澪を救ってくれた事、そして今も澪の身を案じて動いてくれたこと、誠に大儀である。何か褒美を取らせるゆえ、入ってくれ」
そう言って、定助は刀治の右横を通り過ぎ、藩邸内に入ろうとする。
(……俺の、思い過ごしやったんか……)
突きつけられた結論に愕然とし、全身から力が抜ける。
(……ほなけど)
しかし刀治は、未だに消し去れぬ疑惑を感じていた。
「……新三郎殿が澪さんをここに連れ帰る手筈やとしたら、遅うないですか?」
「……何?」
定助の足が止まり、振り返る。刀治は背を向けたまま、淡々と己の推論を述べ続ける。
「某の住処からここまで、そう遠くはございません。なのに何故、未だに澪さんと新三郎殿は現れんのですか?」
刀治の疑問に、定助は息を飲んだ。
「それは恐らく、別の道を使っておるか、どこかで寄り道を――」「ほれに、何故――」
定助の言葉を遮り、刀治は更に続ける。
「何故昨日、新三郎殿は……人斬りの目をしていたのですか?」
あの大侍に脇差を突き立てた時の新三郎の目を思い出しながら、搾り出すように、刀治は言葉を吐いた。また「考えすぎだ」と一蹴されそうな、しかしそれでは収まりのつかぬ疑惑を。
直助は何も言わず、ただ神妙な面持ちで刀治を見つめている。
「……教えてくだされ。本当は何かあるんと違いますか……? 新三郎殿が、澪さんに手をかける理由が」
朗らかな晴天の下、冷たく張り詰めた空気が、伊予松山藩邸前に漂った。
「……お主らは下がっておれ」
静かに、有無を言わせぬ重い言葉で、定助は見張りやお付を藩邸内に押し込めた。大名と浪人。全く異なる二人だけが、その場に残った。
「……何から話せば良いものか」
むぅ、と腕を組んで、定助が口火を切った。
「……ほないなことが……」
定助から明かされた真実に、刀治は息を飲んだ。
「うむ。……しかし、それでも考えすぎじゃと儂は思う。なんだかんだと、澪を側室に入れる際、新三郎は奈津を説得するのに協力してくれた。奴が澪を襲うなど……」
未だに刀治の推論を否定する定助であったが、当初の威厳は消えうせ、その声に自信は微塵も無かった。最早刀治は「考えすぎ」などとは思わなかった。
「ほれで、新三郎殿がいるとしたら、何処で?」
「……西の外れにある小山、『兼能山』にある朽ちた神社じゃろう」
「承知しました。ありがとうございます」
聞き終えるや否や、刀治身を翻した。
「待て。……お主は何故、赤の他人の澪のことをそこまで案ずるのだ」
定助の疑問に、刀治は足を止め、しかして振り返らずに答えた。
「澪殿が死ぬると、悲しむ者がおります故……。ただ、ほんだけです」
ただ淡々とそう言い残し、刀治は再び疾風の如く駆け出した。