五
五
刀治が己の住処に帰った頃には、もうとっくに日が落ちて、江戸は宵闇に包まれていた。
「ただいま」
刀治が戸を開くと、家の中は蝋燭の微かな明かりすらなく真っ暗であった。
(……澪さんはもう寝とんやろか?)
そんな事をぼんやり思いながら、刀治は手元の提灯でゆっくりと家の中を照らしながら、玄関を上がってすぐの障子戸も開ける。
「……澪さん?」
その先の狭い一室の真ん中で、澪は体を丸め、右半身を上にして横になっていた。提灯の淡い茜色の光に照らされた彼女の顔は苦悶でゆがみ、浅く苦しそうに息をしていた。
「!」
流石の刀治もこれには動揺し、大きく目を見開く。しかし直ぐに気を取り直し、手早く土産のどぶろくを部屋の隅に置いて、提灯の火を蝋燭台に移してから片づける。そして澪の枕元に座し、彼女の額に右手を当てて具合を確かめる。
(……熱は無い。何かの病気か?)
「……ああ、刀治さん。お帰りなさい」
今目を覚ましたのか。弱々しい声で澪が喋る。
「……今、医者を呼んできます。どこが悪いんか教えて――」
「いえ……医者は結構です。横になっていれば、そのうち治まるので……」
「けど……」
医者を呼ぼうとそわそわする刀治の袴を、澪の右手が力なく掴んだ。ひやりと冷えた手の温度が、袴越しに伝わる。
「お願いします……。一人にしないで……」
澪の縋るような物言いに、刀治はただ、「分かりました」と答える事しか出来なかった。
「……某に出来ることは何かありますか?」
「そうですね……背中をさすって頂ければ……」
澪に頼まれ、恐る恐る、背中をさする。……自ら女人に触れるなど、刀治には草鞋を編むよりも不慣れなことであった。
「……ああ。楽になってきました」
「……このまま続けましょか?」
「……はい」
互いに無言のまま、刀治はたどたどしくも優しくさすり続ける。四半刻(約三十分)ほどそうしていると、次第に澪の呼吸が落ち着き、顔色も良くなった。
「……もう大丈夫です。ありがとうございます」
調子が戻った安穏と、夜が更けた故にだろう。澪はとろんとした半目になっている。
「もう少し、横になっとった方がええです」
「はい……」
それから間もなくして、静かな寝息が聞こえてきた。刀治は無言で布団を敷き、眠った澪を両手で抱き上げ、布団に移した。
そしてようやく、刀治は大きく息を吐いて人心地付いた。
(……今日は色々ありすぎたわ)
心身共に疲れ果て、思わず座り込む。しかしこのままではいかぬと、腰の一本差しを部屋の隅に置き、自分の分の布団を敷こうと立ち上がろうと右の片膝を立てる。
――と、その時。澪が微かに呻いた。すわまた症状がぶり返したかと、刀治がぴくりと身構え、澪の顔を見やる。……しかし、澪の表情は落ち着いたままであった。
気を取り直し、再び刀治が立ち上がろうとしたところ、澪の口から言葉が漏れた。
「さだすけさま……おあいしとうございます……」
その意味深な言葉を、刀治は聞き逃さなかった。
(『さだすけ』? 誰のことや)
刀治は片膝立ちで静止したまま、あれこれ考えよう、思い出そうとする。だが疲れ切った頭では思考に靄がかかって考えがまとまらなかった。結局、諦めて立ち上がり、自分の布団を敷いて、着替えもせずにさっさと眠りこけた。