四
四
「伊予藩の藩士が澪はんを?」
刀治が向両国に出かけたその日の夕暮れ。空の重箱を提げ、鈴の右に並んで武家屋敷を歩く途中、刀治は昼の出来事を鈴に話した。
「……一体、どういうこっちゃねん」
「それは分からん。とりあえずは、嘘吐いて誤魔化しといたけど」
眉間にしわを寄せ、腕を組んで鈴が考え込む。だが、首を傾げて小さな頭を二、三度揺らしたところで、「あっかん。思い付かへん」と諦めた。そして、少し迷った後、ふと「……虎兵衛様に聞いてみよか」と呟いた。
「すまんけどほうしてくれ。このまま手ぇこまねいとったら、不味いことになりそうや」
口下手な己には到底出来ぬことだ。と、心の中で鈴の才に感謝する。
「まぁ、任せとき。あたしに堕とせん男はおまはんだけや」
鈴が悪戯っぽい笑みを刀治に向ける。刀治は「頼んだぞ」と素っ気無い態度と言葉を返した。
「……なんやその反応は。えらい癪に障るなぁ」
鈴の眉が、一転して険しくなる。しかしその目はどこか楽しそうであった。
「……えぇ?」
「『こんなに美人な鈴様に全く靡かんで申し訳ありません』ぐらい言うて謝ったらどうな
ん?」
そんな無茶苦茶なことを言いながら、鈴は右手を伸ばして、刀治の左頬を軽く抓る。
――たまに、無茶な言いがかりをつけて刀治を苛めるのが、鈴のささやかな楽しみの一つであった。
「……す(ふ)まん」
刀治もまたそれには慣れたようで、理不尽に怯まず、仏頂面のまま適当にあしらう。
「ま、ええわ。いつか必ず、あたしを抱かせたるさかい」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、鈴は手を離した。――二人がそうこうやり取りしているうちに、とうとう当初の目的地である大島虎兵衛の屋敷に辿り着いた。
他より少しばかり大きく、内にちょっとした庭が付いた屋敷だ。
「おおう。もう着いたんかい。――よっしゃ、ほな刀治はん、頼んだで」
「……おう」
軽く息を吐いて気を引き締める。そして刀治は戸を軽く叩いた。
「御免ください。商いに参りました」
そして、いつもより声を張って挨拶をする。それから少しの間を置いて、「は~い」と扉越しに女の返事が聞こえてきたかと思うと、静かに戸が開いた。
「こんばんは。お久しぶりです」
開いた戸の先には、一人の下女が居た。まだ幼さは残るが、背筋をしゃんと伸ばし、はきはきと喋る女であった。
最初の呼び出しさえ済ませてしまえば、後はもう用はない。刀治は静かに脇に逸れ、鈴が前に出て受け答えをする。
「いつも贔屓にして貰てありがとうございます。虎兵衛様は奥にいらっしゃりますの?」
「はい。もう湯浴みも済ませて、首を長くして待っておられま――」
「おうおう。もう来よったか!」
下女と鈴が挨拶を交わしていると突如、廊下の奥からどたどたとやかましい足音と張りのある声と共に、一人の男が現れた。
「おう! 鈴殿! よく来てくれた!」
死人のような刀治とは真逆に、非常に溌剌とした男であった。
張り艶のある綺麗な楕円型の輪郭に、吊り上がり気味の細い眉、きりりと力強い目、高く締まった鼻筋、そして薄い唇が乗った、『二枚目』と言う言葉が呆れるほどに相応しい男であった。
「こんばんは。虎兵衛様。本日はよろしゅうお願いします」
「いやいやこちらこそ、今日はよろしゅうな! さ、早く上がってくれ!」
鈴がにこやかに挨拶をすると、二枚目の男――彼こそが、大島虎兵衛である――は、お天道様の如き明るい笑顔を浮かべて、鈴を招く。
「はぁい。それではお言葉に甘えて、お邪魔します」
普段とは違う、甘い声音をあげながら、鈴はゆったりとじらすように屋敷に入る。
「ほな。刀治はん、留守番とお迎え頼むな」
ゆるりと振り返り、刀治に言葉を残して、鈴は玄関を上がった。そして、恋仲同士のような慣れた仕草で虎兵衛の右腕に絡みつき、己の体重を少しばかり預ける。
「……今宵はたっぷり愉しみましょ」
鈴の潤んだ上目遣いと甘い囁きに、虎兵衛の顔が見る見る上気し、鼻の下が伸びる。
「……! で、では、金剛どの! 暫く鈴殿を預からせて貰うぞ!」
しかし、下女と浪人の前でそんな腑抜けた顔を見せまいと意地を張り、なんとか快活な笑顔を再び浮かべてごまかそうとする。
「はい。どうぞ、ごゆるりとお楽しみ下さい」
そんな虎兵衛の痴態を刀治は見てみぬふりをして、さらりと返事をした。
「そうじゃ! 清! 金剛殿に土産を持たせてやれ! この前贈られた剣菱がよい!」
「はぁい」
清と呼ばれた下女は、元気に返事をして屋敷の奥へと向かった。
「そんな、某には勿体無の うございます」
「よい。よい。わしが酒好きじゃからと、皆から飲みきれんほど酒が贈られてくるのじゃ。一本ぐらい、気兼ねなく受け取ってくれ」
「……ありがとうございます」
「うむ。では、また明日」
刀治の礼を聞き終えると、虎兵衛は鈴を連れて屋敷の奥へと引っ込んだ。そして、それと入れ替わるように清が一本のどぶろくを抱えて再び現れた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
清が差し出したそれを受け取り、刀治は一人、己の住処へと帰った。