三
三
「はぁ……」
祭りか何かと見紛うほど人がごった返しに溢れる昼時の向両国。その傍らにある一軒の茶屋で、刀治は深くため息を吐いた。人ごみに揉まれながら歩いた疲れと、期待が大いに外れてのため息だった。
――澪が鈴と刀治の家に住み着いてから五日が経った。澪は自ら口にしたとおり一生懸命家事をこなし、鈴に紹介されて始めた蕎麦屋の仕事も真面目に取り組んでいた。刀治が懸念していたような危機は起こらず、平穏無事に日々は流れて行った。
だがそれでも、刀治の不安は拭えなかった。女の勘ならぬ、浪人の勘だろうか。根拠もないのに、どうしても胸がざわつくのを抑えられなかった。
……かと言って、澪に対する疑惑を晴らすには、何もかもが不確かで、不明瞭で、手の施しようが皆目見当付かなかった。
いるのかいないのか分からぬ敵から澪と鈴を守るため、彼女らが出歩く時は必ず同伴することしか刀治には出来なかった。
(……刺客、なぁ)
安い団子と茶をちびちびと味わいながら、刀治はぼんやりと、馳せる思いを「今までのこと」から「これからのこと」に切り替える。
彼が向両国を訪れた理由は、新しい脇差を買うためであった。もし本当に何者かに襲われた時、一本差しのままは心許ないと思い至ったからだ。
だが、哀れなことに刀治は元々その日着る物も満足に行かない貧乏浪人である。日々の勤労でこつこつ貯めた金を全て以てして、十数件ほど店を回っても、これと言った一品は買えなかった。
(どこか良い店はないんかいな……)
すっかり冷め切った茶を一口啜り、次なる店を求めて何処へ向かおうかと、刀治は頭の中で地図を広げて思案し始めた。
「貴様ぁ! 何たる無礼か!」
――だが、その思考はすぐさま、誰かの怒鳴り声と「ばしぃ」と大きな肉を打つ音で引き裂かれた。何事かと声がした方を向くと、隣の椅子に座っていた大柄な侍が顔を真っ赤にして、頬を抑えて倒れている給仕の娘を見下ろしている。
「某の着物に茶を溢すとは、無礼討ちを覚悟しての事かぁ!」
よく見ると、大きな侍の着物の胸元が少しばかり濡れていた。
「も、申し訳ございません!」
娘は涙目になりながら、必死に手と頭を地につけて謝罪した。しかしそれでも大侍の怒りは治まらなかった。
「そこに直れぇ! そっ首叩っ斬ってくれるわ!」
とうとう大侍は刀を抜いた。周囲が俄かに騒然とし、周りから人が引いた。
(……阿保侍めが)
心の中で悪態を吐きつつ、なんとかせねばと、刀治は刀に手を伸ばした――が、すぐさま躊躇した。どれほどの屑でも、相手がきちんとした身分の侍である以上、下手に手を出せば己も不敬罪として罪人扱いされてしまうからだ。
(やるなら、一撃で、殺さず、顔も見られず……)
どうしたものかと戸惑っているうちに、大侍は今にも娘に手をかけそうであった。
「――まぁまぁ。そこまでなさらずとも、よろしいではないですか」
しかしその時、さっそうと何者かが現れ、娘と大侍の間に割って入った。
――それはそれは、男ですら目を見張るほど、美形の男であった。
ほっそりとした体躯に白い肌を貼り付け、細い顔には薄い目と薄い鼻、それに薄い唇と、一見すると女を見紛いそうなほど嫋やかな侍であった。大侍と隣り合ってみると、まるで子供と大人ほど大き
さが違っていた。
「この娘も重々反省しておるようですし、流石に斬るのはやりすぎかと……」
細身の侍は、落ち着いた様子で大侍を宥める。
「なんじゃ貴様は。名を名乗れぃ!」
しかし、その程度で怒りが収まりはしなかった。むしろそれは、突如割り込んできた細身の侍に矛先が変わってしまった。
「某、伊予藩藩士の武田新三郎と申します」
伊予藩藩士と聞いて、大侍は鼻でふんと笑った。
「田舎侍風情が、この儂に口応えをするのか!」
「いえ、滅相も無い。某はただ、これ以上怒鳴り散らすのは得策ではないと忠告しております」
「なぁにぃ~!」
細身の男――新三郎の言葉に、大侍の怒りが頂点に達した。
「まずは貴様から叩き斬ってくれるわ!」
とうとう、大侍は刀を振りかぶった。――と、その瞬間、新三郎の雰囲気が変わった。
落ち着きのある大人びた態度から一転、冷徹な気を纏ったのだ。
「――むぅ!」
それと同時に、いつの間にか抜いていた脇差の切っ先を、大男の腹に押し当てていた。
「……某の事を田舎侍と罵ったことで、無礼討ちに処しても良いんですよ?」
小さな、しかし良く通る声で、新三郎は囁いた。余りにも唐突に突き付けられた刃と、目の前の嫋やかな男の急変ぶりに、大侍は目を白黒させるばかりであった。
これには、大侍も手を引かざるを得ない。その場に居た誰もがそう確信した。
「……むがぁ~!」
だがしかし大侍はあろうことか、構えた刀を新三郎目がけて振り下ろした。厄介なことに、己の意地と命を天秤にかけると、意地の方が下に行ってしまう性質の男であった。
これには新三郎も仰天し、思わず脇差を引いて白刃を躱した。それを好機と見た大侍は、更に新三郎に畳みかけた。
「おおぉぉぉぉぉ!」
――こつん。
だが大侍は途端に姿勢を崩し、すってんころりんとその場で転んでしまった。更に悪いことに、その際に椅子の角で頭を強く打ち、すぽんと意識が飛んでしまった。
そのあまりに間抜けな様子に、新三郎も周囲の人間も一瞬唖然とした。しかしすぐさま状況を飲み込むと、あれよあれよと気絶した大侍を縛り上げ始めた。
向両国の一角が、更なる賑わいを見せた瞬間であった。
大侍と細身の侍の一幕の後、刀治は別の茶屋で静かに茶を啜っていた。
「……隣、良いですか?」
ふと、透き通るような声で呼ばれ、刀治は顔を上げた。そこには先ほどの主役、新三郎が人の良さそうな微笑みを浮かべながら立っていた。
「……どうぞ」
特に断る理由も無かった刀治は、渋々と言った感じで了承した。新三郎は、余計な音を立てず、静かに刀治の隣に腰かけた。
「……先ほどはありがとうございました」
新三郎が礼を言った。
「……何のことですか?」
「とぼけないで下さいよ。あの大男がこけたのは、あなたがこっそり足をかけたからでしょう? ああ啖呵を切ったものの、本当に斬るわけにはいかなくて困っていましたよ」
「さぁ。見間違いとちゃいます」
面倒なことに関わりたくないと、刀治は知らんぷりをした。
「……ふふ。強情なお人だ」
愉快そうに、新三郎は笑った。
「……某、武田新三郎と申します。あなたのお名前は?」
「……細川刀治。見ての通り、しがない浪人です」
「刀治殿は何の御用でこちら向両国へ?」
「……脇差を買いに」
「ほう。脇差を、それならば、良い店を紹介しましょうか?」
「いえ、結構です。十何軒と回って、今の手持ちじゃ満足のいくもんは買えんと思い知らされましたから」
「そうですか。それはお気の毒に」
……ふと、会話が途切れる。何故か居たたまれなさを感じ、刀治は茶も団子も残して立ち去ろうかと思案した。
「――何か、人を斬る用事でもおありですか?」
突然、物騒なことを新三郎が言いだして、刀治は湯呑みを口に付けようとしたすんでで固まってしまった。
「……なにを言うとんのや……」
強張った表情で、刀治は新三郎をギロリと睨みつける。
「いえ。刀治殿の眼を見ていると、こう、ただならぬと言うか……人斬りに慣れていそうな、そんな雰囲気を感じましてね」
朗らかとした様子で、物騒かつ失礼なこと新三郎はさらりと言ってのけた。そして、興味津々と言った様子で、刀治の眼を見つめる。その所作は、妙に艶めかしい。
「……それで、本当のところ、どうなんです」
囁くように、どこか色っぽく、新三郎は問い詰める。少しの間、刀治は黙ったまま新三郎を睨みつけ、そしてとうとう口を開いた。
「……ほれなら、俺も言わせてもらいますけど」
「はい?」
「……あんたの方こそ、人斬りでしょ」
刀治の言葉に、新三郎の顔がみるみる凍り付いた。
「……どうして、そう思います?」
「大侍に脇差を向けた時の眼。あれは人斬りにしか出来まへん。あるいは、人を斬る覚悟のある者にしか……」
淡々と、刀治はそう述べた。新三郎は少しの間黙った後、またも愉快そうに微笑んだ。
「――どうやら、あなた方が一枚上手でしたね」
そして新三郎は立ち上がり、「某、用事の最中でして、もう行かねばなりませぬ」と言い残し、去ろうとした。
「――ああ、そうだ。せっかくだから、刀治さんに是非お聞きしたい事が」
しかし、新三郎はふと踵を返して、一拍置いてから再び口を開いた。
「実は某、人を探しておりましてな。『澪』という名の女性でして――」
「!」
重いがけぬ名前が新次郎の口から出でて、刀治の背筋に悪寒が走った。
「? 刀治さん、いかがなされました?」
「いえ、何も……」
表情が崩れるのを懸命に堪え、平静を装う。新三郎は刀治の態度について特に深追いせず、話を再開する。
「……まぁ、わけ理由はちょっと言えませんが、その女を探しているのですよ。年の瀬は十八。色っぽい狐目の物凄い美人で、あと、こういうのもなんですが非常にそそる体の女です」
新三郎が話す澪の特徴と、己が知る澪の特徴がほとんど一致していることに、刀治の心は激しくざわめく。
(もしやこいつ、刺客の一人……?)
疑惑に駆られ、刀治は改めて新三郎の容姿を眺める。――相変わらず、にこやかな微笑みを浮かべている。
「どうでしょう刀治さん。ご存知ですか?」
「……いえ、申し訳ないが、存じませぬ」
刀治は新三郎を信用し切れず嘘を吐いた。
「そうですか、それは残念です。……もしそのような方を見つけたら、伊予藩の藩邸にてお知らせください。精一杯、お礼のおもてなしをさせていただきます。ああ、あと、くれぐれもこのことはご内密に。では」
そう言い残して、新三郎は足早に去っていった。
(伊予藩……松田新三郎……澪……)
脇差のことは何処へやら。新たに咲いた疑惑の花に、刀治は心を奪われてしまった。