二
二
日も高く上った朝四つ(午前十時)過ぎ。薄暗く狭い貧乏長屋の一室で、上がり框に腰かけた男が黙々と藁を編んでいる。その手つきは鈍く、指さばきもおぼつかない。
端的に言えば、この貧乏長屋にぴったりの男だ。藍染が褪せきった襤褸の着物に、死人のような虚ろな目に、月代にまで髪が生えた短髪。如何にも貧乏人と言った風体の男だ。
彼の傍らには、藁の小山と、何足かの不格好な草鞋が積まれている。
「ただいま~」
不意に、玄関の外から凛と澄んだ声が響いたかと思うと、戸ががらりと開いた。
――戸の先に居たのは、このような貧乏長屋には不釣り合いな、そして男とは正反対な美人だった。
ぱっちりと開いた愛嬌のある流し目。つんと尖った小ぶりな鼻。薄く紅を乗せた唇。
白粉抜きでも雪の如く白く澄んだ肌。繊細な硝子細工を思わせる華奢な体。
――吉原の太夫にも引けを取らぬほどの美しさであった。更にその美しさに拍車をかけるように、上等な紅の布地に華やかな装飾が施された着物に、これまた上等な紅の張り紙をあつらえて作られた日除け傘と、身に着けるものも美しかった。
しかし何よりも特徴的なのは、長い黒髪であった。流行などどこ吹く風と言わんばかりに、飾りの類は一切つけずに髪を真っ直ぐに下ろし、前髪は細い眉の少し上で、後ろ髪は腰より少し上で綺麗に切り揃えている。それがまた、妙にこの美人に似合って艶めかしい。
「鈴か。遅かったなぁ」
男が手を止めて、場違いな美人――鈴に目を向ける。
「なかなかこれっちゅう生地の布が見つからんでなぁ。ちょっと二、三軒回っとったわ」
そう言いながら、鈴は小脇に抱えた風呂敷を取り出して見せつけた。
「別に、俺の服なぞ気にせんでええのに……」
「何言うとんの。ほんな襤褸着て一緒に並んで歩かれる方の身にもなりぃな。買うんは高ぅ付くからあかんけど、一から作るんやったらまだ安いわ」
鈴の言葉を受けて、男はばつが悪そうに黙り込んだ。
「ああ、せや」
ふと、鈴が何かを思い出したように、手を叩いた。
「刀治はんとしょうもないこと言いあっとる場合やなかった。おまはんにお客さんや」
「客? 俺に?」
男――刀治が不思議そうな顔を浮かべる。それを尻目に、鈴は「刀治はんも偶には人の役に立つんなぁ」とにんまりと笑った。
「ほな、ちょっと待ってな。澪は~ん。入ってもええよ~」
鈴が開けっ放しの戸に声をかけると、静々と一人の女性が入ってきた。
鈴とはまた異なった魅力を持った女性であった。整った卵型の輪郭に、涼し気な狐目、スッと筋の通った鼻、瑞々しい唇。そして余裕のある微笑みが、成熟した美しさを感じさせる。
更に目を惹きつけるのが、その体である。華奢な鈴とは対照的に、彼女の質素な着物では隠しきれないほど豊満な肉付きである。
例えるなら、鈴の美しさは淡麗な桜の花、その女の美しさは艶やかな梅の花と言ったところか。
また、女の髪は違った意味で――刀治や鈴と同じく尋常とは異なっていると言う点で――目を引いた。おかっぱ頭を肩口の辺りまで伸ばして切り揃えた、女児の様な髪型であった。
「こちら、澪はん。二日前におまはんが助けた女や」
「――こんにちは」
静かに、女――澪が頭を下げた。刀治は、その仏頂面の眉を少しだけ顰めた。
「先日は誠にありがとうございました」
狭い四畳半の一室。上座に刀治と鈴が、その対面の下座には澪が、それぞれ正座している。なお、澪は刀治に深々と頭を下げた状態でだ。
――二日前の夜、両国橋の袂で刀治に助けられた女だと、澪は自らをそう語った。しかし刀治は申し訳無さげに頭を振った。
「……頭を上げてください。人違いや。助けたんは、某ではございません」
刀治が投げかけた否定の言葉に、鈴が噛み付いた。
「ほんなわけあるかい! 死に腐った眼! だらしない髪! 極めつけは顔の傷! 江戸に阿保ほど人がおっても、おまはんみたいな男が二人とおるかい」
「……」
鈴の時代錯誤な髪を一瞥し、何か言いたそうな顔をして、しかし刀治は黙り込んだ。
「……まぁ、そんな刀治様の容姿を色んな人に尋ねまわって、その最中に鈴様とお会いして、ここまで連れてきて下さった次第でございます」
頭を上げて、愉快そうに笑いながら、澪がここまでの経緯を締め括った。
「刀治はん。恩の押し売りはあかへんで。やられた方は貰った恩を返せず、抱えたままで辛いんやぞ」
まるで子を諫める母のように、鈴が叱る。
「いや……けど……」
「ええい! 往生際が悪い! はよ澪さんに謝り!」
べしんと、鈴が刀治の頭を叩いた。そんな二人の様子を見て、澪がまた笑う。
「随分と仲がよろしい夫婦なんですねぇ」
澪の言葉に、刀治が狼狽える。
「いえ、いえ。鈴は某の仕事仲間で……その……」
どことなく歯切れの悪い物言いで、刀治は澪の思い違いを否定する。だが鈴はふざけて、猫なで声で刀治にすり寄った。
「え~。なんで否定するんよ。実質夫婦みたいなもんやん」
刀治は口をへの字に曲げて、鈴を押しのける。
「……とにかく、某と、あなたを助けた人は違います。わざわざご足労頂いた手前、
期待に添えられず、申し訳ありません」
不愛想に、しかし真剣に、刀治はそう言って澪に頭を下げた。
「――分かりました。刀治様がおっしゃるのなら、人違いと言うことにしましょう。
大変、ご迷惑おかけいたしました」
「あ~あ~。謝らんといて下さい。この阿保が変に強情なんがいけんのどす。本当にすんまへん」
「いえ、良いのです。私こそ、出過ぎた真似でした」
微笑みを絶やさず、澪は言葉を紡ぐ。
「――ですが」
と、思いがけない二の句を継げられ、鈴と刀治が何事かと澪に注目する。
「ここでお会いしたのも何かのご縁です。元々、厚かましくも私を救って下さった方に
お頼みするつもりだった用事を、代わりに請けて頂けませんか?」
澪の目線が、刀治に注がれる。何か、得も知れぬものを含むような目であった。
「……用事って、なんですか」
訝し気に、刀治が尋ねる。
「私をここに住まわせて頂けないかと」
「……何?」「何やそれ?」
鈴の目が点になり、刀治は眉をハの字にする。
(……誰かを斬れちゅう訳では無いんか)
己の腕を見込んで何か物騒なことを頼まれるかと身構えていた刀治は、酷い肩透かしを食らった。
そして次は澪の肚を読むために頭を捻らなければならなかった。
「失礼しました。理由を話さねば、お二人が混乱するのも無理はありませんね。
実は私、下野で、とある商家に嫁いでおりました。しかしそこの旦那様が、外面はよろしいのですが家では鬼のような方でして。やれ飯の用意が遅い。やれ茶が熱すぎる。そんな些細なことで何度も殴られて……」
辛い記憶を思い出してか、澪の目に涙が浮かぶ。着物の裾で少し涙を拭って、再び話しだした。
「それで、あまりに酷い生活に耐えきれず、五日前に江戸へ夜逃げいたしました。
江戸ならすぐに仕事や住まいが見つかると期待したのですが、お恥ずかしながら、全く甘い考えでございました。とうとう生きる術を何一つ得られぬまま、金もほとんど使い果たし、宿にも泊まれぬ有様になってしまいました。
それで、橋の下で野宿しようと思い至ったのが、つい二日前でして……。其の時に野武士に襲われて、そして何者かに助けられました」
涙を浮かべながらに語る澪の言葉を、鈴は沈痛な面持ちで、刀治は怪訝な顔で聞く。
「何も、いつまでも居つく訳ではございません。仕事を見つけて余裕が出来れば出て行きますし、勿論、出来うる限り家事も受け持ちます」
静々と、澪が床に頭を付ける。澪の言葉にすっかり同情した様子の鈴が口を開く。
「……分かりました。ほう言うことならどうぞ――」
「申し訳ないですけど、お断りさせていただきます」
――が、鈴の言葉を遮って、刀治が顔色一つ変えずにきっぱりと断った。思いがけぬ同居人の一言に、鈴は少しの間固まった後、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「もう! なに勝手な事言いよるん!」
「いや、ほなけど――」
「ちょっと来ぃ!」
かんかんに怒った鈴に首根っこを掴まれ、刀治は仏頂面のまま外へ連れて行かれた。
澪を部屋に残し、刀治と鈴は長屋前の井戸で向かい合う。
「刀治はん。なに勝手に断っとんで? この部屋の借主はあたしやで」
まだ怒った様子で、鈴は刀治を責め立てる。
「いや……ほなかて」
刀治は少したじろぎつつ、言葉を紡ぐ。
「澪さんを住まわすんは危険や。あの人、多分誰かに狙われとる」
きな臭い刀治の考えに澪の目が丸くなる。
「なんでや? どう言うこっちゃ?」
「いやまぁ、ちょっと引っかかることがあってなぁ。ほれ、二日前に、俺――やない、誰かが……」
「……あたしの前でくらい、本当のこと言うたら?」
「……俺が澪さんを助けるときに相手した野武士が三人おったんやけど、その内の一人の刀がえらい上等でな。しかも、買ったばっかの新品や。――俺みたいな禄無しはもちろん、一介の侍にもおいそれとは買えんほどには」
刀治の優れた洞察に鈴は舌を巻く。
「はぁ。暗がりの中、よう見とるなぁ」
「慣れれば誰でも、刃の輝きだけで分かるようになるわ。まぁ、銘やらは流石に研鑽を積まな無理やけど」
『たいして自慢にもならん』と言った態度で、淡々と謙遜する。
「……で、ほんな上等な刀を買う金、あの野武士がどこで手に入れたんやら」
刀治の問いに、鈴は少し考え込んだ。しかし直ぐに閃いて顔を明るくする。
「あ、博打で大当たりしたとかちゃう? ほれで、買うた刀の試し斬りをしとうなったとか。他の二人は多分手伝いや」
「妥当な考えやな。なかなか有り得る理由や」
淡々とした口調で、鈴の回答を肯定した。しかし――
「……けどな、もしかしたら、誰かに金を貰ったとも考えられへんか?」
「……えぇ?」
剣呑さを増す刀治の憶測に、鈴が眉をひそめる。
「澪さんを殺したい誰かが、野武士三人に金を払ってそれを頼んだ。澪さんもそれを分かっとる。ほれで、また護って貰おうと思って俺を尋ねに来た。……どや?」
「……」
刀治の言葉をそこまで聞いて、鈴の顔に真剣みが増した。そして、両手を合わせて、人差し指の先を唇に当てて、俯いて考え込む。
「……正直、半信半疑やけど、もしホンマ本当やとしたら余計にウチで匿った方が良ぅない?」
「……この家に住んどるんが俺だけなら、ほうする。……けど、お前も居る。なんかあった時にお前と澪さん、両方いっぺんに守れる自信は無い」
きっぱりと、刀治はそう言い切った。その冷ややかな物言いに、鈴は困惑した。
「いや、ほなけど……」
鈴は何かを言おうとして、言いたくて、言えなかった。
「……すまん。けど、俺はお前が傷付くんは御免や」
刀治の澪への冷たさは、自分への優しさが故だと分かってしまうから。
「……ほれでも、どうにかならへん?」
だがそれでも、鈴は縋った。か弱く潤んだ上目でまっすぐ、刀治の濁った眼を見つめて。
「……」
口を固くへの字に結んで、刀治は怯み黙った。己の危険を顧みない純粋な優しさに、心が掻き毟られる。
(……ああ、せや。ほう言う奴やったな)
「……刀治はん?」
押し黙ったままの刀治に、不安そうに鈴が呼びかける。
「……分かった。お前の言う通りにするわ」
諦めるようなため息と共に、刀治は許諾の言葉を吐いた。鈴は、はっと顔を上げて驚喜の表情を浮かべた。
「……本当に良えの……?」
「……まぁ、お前がほんなに真剣に頼むんなら仕方ないわ。ほれに俺自身、見棄てたいわけちゃうし」
「……ありがと」
安堵の笑みを浮かべる鈴を見て、刀治もまた、不思議と安堵した。確証は無いとは言え、陰惨な争いに巻き込まれるかもしれないというのに。
「……なんやったらお礼に、一切れ(約一時間)あたしを好きにしてもええよ」
悪戯っぽい微笑みを携えて、いつもの調子で、鈴が刀治を誘惑する。
「……ええわ」
刀治もまた、いつも通り素っ気なくそれを断る。「あら、いけず」と、鈴は頬を膨らませた。
(……本当に杞憂やったらええんやけどなぁ……)
微かな不安も胸に感じながら、しかしどこか晴れやかな気持ちで、鈴と共に家に戻った。