一
HDDの整理をしていたら、学生時代に課題で書いた短編小説を見つけたので投稿します。
時代考証など色々荒い部分もありますが、楽しんでいただければ幸いです。
一
時は寛政元年(一七八九年)五月。場所は江戸。老中・田沼意次が失脚し、市中の活気に陰りが見え始めたころ。
宵闇に包まれた両国広小路は日中の喧騒はどこへやら、人も店もすべて何処かへ消え失せていた。三日月が雲に隠された今は、微かな星明りに照らされたがらんと広い道だけが残されていた。
「おい、早くやっちまわねぇか」
両国橋の下。静寂の中、不穏な影が蠢いていた。
影は、一人の女とそれを取り囲む三人の野武士であった。野武士はそれぞれ抜き身の刀を手にし、手ぬぐいで顔を覆っている。
「た、助けて下さい……」
震えた声で女が命乞いをする。だが、男たちは全く意に介さない。
「ほれ、早く。新しい刀の切れ味を試したいと喚いていただろうが」
野武士の一人が、ひときわ図体のでかい野武士をせっつかせる。
「いやぁよう。このまま斬っちまうのもちょいともったいねぇ気がしてなぁ」
下卑た笑い声を、でかぶつがあげる。
「追ってる間にじぃと眺めているとよう、この女子、胸も尻も肉付きが良いみたいでよう。どうせなら楽しんだほうが得かなぁと――」
「なにふざけたことを言っておるか! 下手を打つ前に、早く殺せ!」
「ちぇ、分かったよ」
つまらなさそうに、でかぶつが得物を両手で上げた。追い詰められた女は小さな悲鳴をあげて、身を縮こませるしかなかった。
「あばよ」
冷たい目で女を見据え、一刀で仕留めようと狙いを定める。
――ヒュン――
風切り音が、闇夜に鳴く。
斬ッ!
肉と、骨が、斬り分かれる音が響く。
「……ごぉ!」
ゴボッと口から血の塊を吐いて――でかぶつが、右横に倒れた。
「――なにぃ!」「ひぃ!」
突然の出来事に、三人が狼狽える。倒れたでかぶつの左脇に、何者かの刀が深々と突き刺さっている。
豪ッ!
闇夜から新たな影が飛び出してきた。倒れたでかぶつの足元の方からだ。
影は疾風の如き速さと己の体重を存分に乗せて、隙だらけの野武士の片割れ目がけて、鉄ごしらえの鞘を振りぬいた。
愚者ッ!
影が通り過ぎると同時に、皮が、骨が、そして脳髄が潰れた。哀れ、己の刀を振るう間もなく骸が空を飛んだ。
「――このッ!」
最後の野武士が、女から目を放し影を捉えた。――しかし、遅かった。影は既に彼目がけて天高く飛び上がっていた。
(――おのれ!)
迎撃も回避も間に合わぬと判断し、野武士は影の一撃を刀で受け止めようとした。
怨!
鈍い音を立てて、影が鞘を振り下ろす。落下の勢いを存分に乗せた黒き鉄槌は、野武士が掲げた刀の刃を砕き、頭蓋を凹ませた。
「――ぁが!」
最後の野武士が仰向けに倒れる。そして数回、体を跳ね上げた後、気を失った。
これで終い――と思いきや、影は更に胸に鞘を激しく打ち付けた。一層大きな骨身が潰れる音と、気味の悪い断末魔。それらを発しながら躰はもう一度大きく跳ね上がり、ぴくりとも動かなくなった。
ほんの十も数えぬうちに、三人の男は骸と化した。
「……示現流にゃ未だ及ばず、か」
影は一息吐いて、事もなさげに呟いた。悔しさも喜びも微塵にない、淡々とした口調であった。そして影は女の方を向き、不愛想に言葉をかけた。
「……大丈夫か?」
暗がりのせいで、近くでも互いに顔は分からなかった。
「え……ええ」
女が困惑気味に返事をする。
「ほうか」
女が無事だと分かると、影の興味は失せた。おもむろに鞘にこびり付いた血を手拭いで拭い、腰に差し直す。続いて、己が放り投げた刀を骸から引き抜き、これの血も拭った。
「では、これで」
刀を鞘に納め、手ぬぐいを川に捨て、影はその場を立ち去る。どこまでも淡々とした所作であった。
「――あの!」
橋の下から出でた影を、女が呼び止める。
「……このご恩をお返ししとうございます。せめて、お名前を……」
影が足を止め振り向く。其の時、雲に隠れた三日月が顔を出し、男の姿を照らしだす。
まず目につくのはその頭。生臭坊主か、あるいは小童かのような髷を結えぬほど短い髪。
次にその傷痕。左の口元から一寸半(約五センチ)ほど趨った裂傷痕。
更にはその目。鮫のそれの如く虚ろな昏い瞳の三白眼。
そしてその風体は実に哀れであった。継ぎ接ぎだらけで色も褪せきった藍染めの着物と、左腰の一本差し。見るからに、ろくでなしの浪人であった。
柳の木の下で出会っていたならば、幽霊と見紛えるような――死人同然の男であった。
「名乗る名は無い。礼もよい。夢と思うて忘れなされ」
浪人は淡々と答え、再び歩を進めた。闇の中へ溶け行く影を、女はじっと見つめていた。