世界追憶遺産
ネオ・東京ドームを埋め尽くす10万人の観衆を、私はVIP席から眺めていた。このドームの収容人数の限界まで動員できたのだから、今日のイベントは大成功だ。西暦2135年12月24日、今日この日に永遠にわが娘、本物川小百合の名が歴史に刻まれることになる――世界追憶遺産の記念すべき第一号として。
私の率いるアタラクシア製薬は、5年前についに副作用のない完全な幸福状態をもたらす錠剤の開発に成功した。私がニルヴァーナと名付けたその薬は産業界からの絶大な支持を受け、多くの業界に導入された。ニルヴァーナのおかげで労働条件の悪い企業でも鬱病になる社員は激減し、芸能界ではストレスから麻薬に溺れる芸能人もいなくなった。完全な幸福感を手に入れた労働者は待遇改善を訴えることもなくなり、政府への不満も薬で押さえ込めるためテロ活動も激減した。全人類の満ち足りた笑顔と引き換えに私には巨万の富が転がり込み、今日この第1回世界追憶遺産コンテストを主催することが可能となったのだ。
もはやこの世界の政治も経済もニルヴァーナなしでは動かない。ニルヴァーナに依存性はないが、わざわざ幸福感を手放したい者などいない。この錠剤さえあれば、あらゆる悩みが解決できるのだ。私はニルヴァーナを通じて全人類に君臨している。物質的にも精神的にも満たされた私が次に目指したのは、私自身の記憶を永遠にこの歴史に刻み付けることだった。
この世界追憶遺産コンテストで優勝すれば、優勝作品は永久に新国際連合の常任理事国にて上映され続けることを義務付けられる。もちろんその一角であるこの日本においてもだ。今日私の作品が優勝すれば――それはすでに決まっていることなのだが――小百合は永遠の命を得ることになるのだ。
「エントリーナンバー7番、『テルプシコラ』でした。皆様大きな拍手をお送り下さい」
ギリシャ神話をモチーフとしたその立体映像は、ディズニー社の技術の粋を尽くした見事なもので、空中で光の尾を引きながら舞い踊る女神の姿は10万の観衆を釘付けにしていた。私は神々の饗宴の場に居合わせたかのような気分になっていたが、この驚嘆すべき映像すら、所詮は私の作品の前座に過ぎない。誰がこの場の支配者であるのか、それが次の舞台で明らかになるのだ。私は万雷の拍手の中で、アタラクシア社の作品が披露されるのを待ちわびていた。
「それではいよいよエントリーナンバー8番、『SAYURI』です」
アナウンスが会場に響き渡ると、ドームは静まり返った。作品のタイトルには何度も頭をひねったが、結局小百合の名を全人類に刻み込むにはこのタイトルが一番だと考えた。わが娘の名を作品にするなど、世界遺産の私物化だろうか?いや、断じて否、だ。ニルヴァーナ無しでは存在できない世界を作ったのはこの私だ。全人類の幸福を私が握っているのだから、私の家族が全世界に讃えられることくらい、むしろ当然のことであるはずだ。
小百合の立体映像がドームの空中に浮かび上がった。赤と黒のコントラストの鮮やかなドレスは、大崩壊以前の世界でゴシックロリータと呼ばれていた衣装を復元したものだ。眩く輝く金髪は赤いリボンでまとめられて両肩に流れ、その端正な容姿をさらに際立たせている。
小百合は宙高く浮かび上がると、哀愁を帯びたワルツに合わせ、静かに滑るように踊り始めた。その音楽はザナルカンドという架空の土地をテーマに作られたもので、これも音響考古学の成果を最大限に生かし大崩壊以前の音楽を再現したものだ。小百合が旋律に合わせて回転し、ドレスが宙に翻るたびに、観衆から感嘆の声が漏れた。感情の波を極力まで押さえ込むニルヴァーナを摂取していてすら、『SAYURI』は多くの者に感動を引き起こさずにはいられないようだ。私自身も思わず時を忘れ、小百合の舞踏に見入っていた。
「エントリーナンバー8番、『SAYURI』でした」
司会のアナウンスに、私はようやく我に帰った。永遠にも近い時が流れたような気がしたが、気が付くと熱いものが私の頬をつたっていた。――涙?
私自身ニルヴァーナを日々摂取しているので、感情の起伏はほとんどない。その私ですら涙を流すほどに、『SAYURI』の出来栄えは見事なものであったというのか。それならば審査員どもを買収せずとも、実力で優勝を勝ち取れたのかもしれない――
だが、そのあと聞こえてきた拍手は、『テルプシコラ』に比べてややトーンが低かったように思われた。会場は私の作品よりもディズニー社を評価しているというのか。たとえそうだとしても、私の優勝はすでに決まっていることだ。観衆が私の優勝に納得が行かなくとも、ニルヴァーナの効果でその不満はかき消されてしまう。全ては私の思惑通りに運ぶのだ。何も問題はない。
「それではエントリーナンバー9番、『クリスマス・キャロル』です」
私は予期していなかったアナウンスの声に驚いた。世界追憶遺産コンテストは私の作品が最後だったはずではないか。
(しかもよりにもよってクリスマス、だと?)
そんな忌まわしい言葉を冠した作品の発表など、私が許した記憶はない。私は急いで大会の実行委員長を勤めている秘書のイライザに遠隔思念通話で連絡を取った。
「イライザ、これはどういうことだ。9番目の作品など存在しないはずだぞ」
私が心の中でそうつぶやくと、ゴーグルにイライザからの返答が文字列となって映し出された。
「ですが、確かに本大会ではこの作品を受け付けております。厳正な二次審査を通過した作品ですので、発表しても問題はないはずです」
このコンテストの全てを統括しているイライザの発言に間違いがあるはずがなかった。しかし、最終的に作品をチェックしたのはこの私なのに、なぜ私が知りもしない作品が発表されるというのか。
「今日のプログラムは私の作品が最後だったはずだ。このあとに他の作品が発表されるようでは、私の作品が前座扱いになってしまうではないか」
「そう言われましても、すでに受け付けておりますので。どうぞそのまま鑑賞なさってください」
イライザは私の抗議を受け付けなかった。気が付くと、すでに年老いた男の立体映像がドームの上空に浮かび上がっている。どうやらこの男が主人公らしい。『クリスマス・キャロル』は大崩壊以前の文学作品としては最も有名な部類で、私も大体の内容は知っている。
「我らが主人公スクルージは、青春の全てをつぎ込んで開発した幻覚魔法により、人々の願望をあたかも現実のように思い込ませることに成功しました。貧しい人は豪邸に暮らす幻覚の、孤独な者は多くの仲間に囲まれる夢の、醜い者は美しい姿に生まれ変わる夢の中で生きることができるようになったのです」
そのナレーションの声に私は微妙な違和感を感じた。こんな話だっただろうか?どうも私の記憶している『クリスマス・キャロル』とは違うようだ。作者が独自のアレンジを加えているのだろうか。
「スクルージの作り出す幻覚は見事なもので、見ている間は例えようもない幸福感を生み出します。しかしこの魔法にはひとつだけ問題がありました。それは、見る者が天に召される直前に幻覚が消え、全てが嘘であったことを後悔しながら逝ってしまうということです。彼はまやかしの幸福に浸っているだけで、己が何を為すこともなくその生を終わってしまったことに最後の最後に気付いてしまうのです」
ドームの上空にいまわの際に嘆き悲しむ男女の姿が映し出された。もともと道徳色の強い作品ではあるが、どうやらこの作品は少し趣向を変えてきているようだ。
「そして、そのことをスクルージ自身もよく知っていました。しかし彼は幻覚魔法の見返りとして多額の報酬を受け取り、巨万の富を得ていたので、今さら生き方を変えることもできません。そしてある夜、彼の枕元に立つ一人の影がありました――」
その影とはおそらく「第一の幽霊」だろう。だがこの作品のことだ、原作と同じ展開にはなるまい。私は知らず知らずのうちに、この作品に引き込まれていた。
「これからお前の未来を見せてやろう。馬鹿弟子が力の使い方を誤ったせいで、こんな事になってしまうとはな」
漆黒のフードを目深にかぶった第一の幽霊は、どうやらスクルージの魔術の師匠らしかった。男がくぐもった声で呪文を唱えると、病に伏せっているスクルージの姿が映し出された。
「私の人生とは一体何だったのか。まやかしの幸せと引き換えに富を得ても、この心は一向に安らかにはならない。実のあることを何一つしてこなかった私の生そのものがまやかしだったのではないか。できることなら私の財産をすべて売り払ってでも、過ぎ去った時を買い戻したい。しかしそれは叶わぬことだ――」
スクルージは息も絶え絶えに後悔を吐き出すと、そのまま事切れてしまった。
「激しい衝撃に打たれたスクルージは頭を抱えて煩悶しました。第一の幽霊はすでに消えていましたが、スクルージはやがて訪れる残酷な運命に怯える日々を過ごすことになったのです」
続くナレーションの声に、私の胸には抑えきれない不安が湧き上がってきた。この話には私の心をざわつかせる何かがある。ニルヴァーナを服用しているのに、私は心の片隅に巣食う不快な感情を振り払うことができなかった。食い入るようにスクルージの映像を見つめていると、やがて彼の枕元に第二の幽霊が現れた。
「未来を知っていてなお、お前は自分の生き方を変える気がないようだな。ならばいま一度、お前の人生をさかのぼってみようではないか」
第二の幽霊の声は、第一の幽霊の声よりも若々しかった。スクルージの師匠の若返った姿だろうか。男が再び何やら呪文を唱えると、今度は魔術の研究室らしい光景がそこに現れた。錬金術の材料らしきものがあちこちに積み上げられた部屋の中で、青年の姿となったスクルージが助手らしき女に忙しく指示を飛ばしている。
「そっちの大蒜をもうひとつ持ってきてくれ。それとゾウアザラシの牙とマダラグモの卵を二つづつ、そして双面茸もだ」
女は手際よく材料を集めると、スクルージに手渡した。
「あまり根を詰めると体に毒ですよ。少しは休んだほうがいいんじゃありませんか」
「そういうわけにはいかん。今でも私の魔術の完成を待っている人々がいるのだ。一日でも早く、彼らの望む世界を見せてやりたいじゃないか」
「でも、幻覚魔法がなくても生きていけないわけじゃないでしょう?」
「それは違う。人は食さえ足りていれば生きていけるわけではない。人には夢を見る時間が必要だ。腹を満たす食事と、心を満たす幻覚とが二つそろって、人は初めて充実した生を生きることができるのだ」
若き日のスクルージは、どうやら幻覚魔法を芸術と同じようなものと位置づけているようだった。私はホログラムクリエイターを目指していたこともあるため、スクルージと自分がどこか重なるような気がしていた。
「……ですが、あまり都合のいい幻覚を見てしまうと、余計に生きていくのが辛くなりませんか?現実との落差はかえって不幸を産んでしまうのではありませんか」
「人が理想に近づくためには、まずその理想を体験しなくてはならない。現実との間に落差があるからこそ、そこを少しでも埋めるために人は努力するのだ」
それは綺麗事だ、と私は思った。スクルージの生み出す幻覚とは、いわば麻薬のようなものだろう。助手が言う通り、夢から覚めた後が辛いだけだ。この辛さをなくすには、間断なく幻覚を見せ続けるしかない。
「私は、全ての人の苦しみをなくしたいのだよ、イライザ」
スクルージのその声に、私は動揺した。なぜこの助手が私の秘書と同じ名前なのか?かつて私がニルヴァーナの開発チームを率いていた頃、イライザがサブリーダーを勤めていたが、スクルージとイライザの関係性は我々の関係性と同じだ。
「辛く苦しい現実の鎮痛剤として、幻覚が必要なこともあるかもしれません。ですが、人々が幻覚に頼って生きていくようにならなければいいのですが」
「だからこそ、依存性のない幻覚が必要とされているのだよ。人々が必要な時にだけ、私はこの幻覚を用いるようにすればいい」
私の胸の鼓動はさらに早くなっていた。幻覚を薬剤に置き換えると、この二人のやりとりはかつて私とイライザの交わした会話と全く同じだ。
「本当に、そのようなことが可能なのでしょうか」
「私は人の可能性を信じている。私は正しき目的のために幻覚を用いるのだ。正しく用いられた幻覚は人を堕落させたりはしないさ」
蹴り飛ばしてやりたいような青臭い言葉だった。確かにニルヴァーナには依存性はないし、禁断症状が出ることもない。しかしニルヴァーナのもたらす幸福感が、それがない時との落差を生んでしまうことまではどうにもならなかった。テロとストライキの蔓延する22世紀の社会は、素面で生きるには辛すぎる。私は人々に請われるままにニルヴァーナを生産し続けた。その結果として反社会的活動は影を潜め、皆が安心して暮らせる社会が到来したのだ。それの何が悪いと言うのか。
「まだお前は生き方を改める気がないようだな。ならば仕方があるまい。お前が幻覚魔法を生み出した原点に戻ってみるとしよう」
研究室が消え、懊悩するスクルージの前に現れたフードの男は、まるで私の内心を読み取ったかのように言った。私はもはやスクルージと自分の区別をつけることができなくなっていた。この作品の造り主は、今度は一体私に何を見せる気なのか。
「お父様、今日は何をプレゼントしてくれるの?昔は特別な日だったんでしょ」
スクルージと連れ立って歩いている少女の声に、私は目を丸くした。私の作品とは比べようもないほど地味な格好をしているが、あの聴く者の耳に染み入る朗らかな声は間違いなく小百合のものだった。
「大崩壊以前はね。今日は知人の記憶考古学者の仮説を元に、私なりにクリスマスという祭典の様子を復元したホログラムを見せてあげようと思うんだ。サユリが気に入ってくれるといいんだけれどね」
スクルージの台詞は10年前私が小百合と交わした会話と若干異なっているが、それでもあの日の様子をかなり細部まで再現できている。
「お父様は凝り性だから期待してるわよ。――あ、お母様」
待ち合わせ場所のサイゴー像の下に立っていた妻に目を留めると、小百合は一目散に駆け出した。これはいけない。この物語をこれ以上進めては駄目だ――
「イライザ、何をしている!もうこのコンテストは中止だ。今すぐに映像を止めろ!」
私は遠隔思念通話を使うことも忘れて怒鳴っていた。こんな暴挙を許してはならない。もはやニルヴァーナでも私の感情は制御できなくなっていた。
「その判断はサユリが下します」
イライザからの返答がゴーグルの画面に映し出された。サユリが判断する?この女は一体何を言っているのだ?
「いいからすぐに映像を止めろ!この作品は失格だ!反論は認めん」
「お父様、何を怯えているの?」
沈黙するイライザに変わって返答したのは、映像の中の小百合だった。
「小百合……本当にお前なのか?」
「正確には本物川小百合の思考と感情を再現したAIだけれどね」
「AI、か……」
母の元へと駆け出した小百合は、その直後に突っ込んできた酒気帯び運転のエアロモービルに命を奪われた。最大の生きがいを失った私は残された小百合の日記と映像記録を元に、小百合の人工知能を作り出したのだ。この映像は何者かがそのAIと連動させているらしい。
「ねえお父様、お父様は人の作品を妨害してまで自分が優勝したいと願うほど、器の小さい人だったかしら?」
小百合は大きな黒い瞳で私を見据えた。その純真な瞳には大人をたじろがせるある種の圧力がある。
「お前は何を言っている?10万の観衆の前で、お前は若い命を散らすところだったのだぞ」
「そんなに他人が信じられないの?この作品を作った人のセンスがまともなら、私が事故死するシーンを直接描写するわけがないでしょ」
私はぐっと詰まった。確かに小百合の最期はまだ描写されてはいない。
「しかしだからといって、このような形で私に恥をかかせようとするなど明らかな侮辱ではないか。私の過去をほじくり返して、一体何をするつもりだ」
「あれはスクルージよ。お父様ではないわ」
「言い訳をするな。どう見ても私を揶揄する話ではないか」
「ということは、やはりお父様もニルヴァーナを普及させたことを後悔しているのね?」
小百合に図星を突かれ、私は言葉を失った。病の床で人々にかりそめの幸福を与え続けたことを悔いるスクルージの姿が、いずれ私自身に降りかかる運命のように思えいていたのだ。
「お前は何も分かってはいない。お前を失った私がどんなに辛かったか。あんな苦しみを世の中から消し去りたいと思ったからこそ、私はニルヴァーナを作ったのだ」
「それはとても尊いことよ。ニルヴァーナのおかげでアルコール中毒者も激減したし、私が巻き込まれたような悲劇ももう過去のものになりつつある。――でもお父様は今、みんなの不満を押さえ込む手段としてニルヴァーナを使ってしまっているじゃない」
「不満などない方が人は幸せに生きられるではないか。それの何が問題だというのだ」
「人は欠けているものがあるからこそ未来に希望を繋ぐことができるのだ、ってお父様はいつも言っていたじゃない」
小百合は諭すように言った。小百合を失う前なら、私もその言葉を受け入れられたかもしれない。だがもう全ては遅すぎるのだ。
「それは私が甘すぎたのだ。不確かな未来に希望を託すより、今ここで確実な幸福感を得られる方が良いに決まっている」
「その幸福感に浸りながら作った作品が、満足できるものにならなかったとしても?」
私は『SAYURI』に向けられた拍手が、『テルプシコラ』に向けられたものより少なかったことをはっきりと感じ取っていた。ディズニー社には、あえてニルヴァーナの摂取を拒否してホログラム制作に挑むクリエイターが少なくないと聞く。今幸福感に浸っていない者の方が、貪欲にホログラム作りに取り組めるとでも言うのか。
「ニルヴァーナを服用しない状態でお父様が作ったホログラムなら、まだ存在しているわよ。10年前の今日、私に見せてくれるはずだった映像がね」
その映像のことはもちろん私も覚えている。だが今更そんなものを公開する気にはなれない。
「それがどうした。若気の至りで作ったものなど人に見せられるか」
「あら、もう止められないわよ?これも作品の一部になっているから」
「何だと?おい、待つんだ小百合」
小百合は私の制止も聞かずに空高く舞い上がると、その姿をナレーションの声が追いかけた。
「……愛するわが娘を失ったスクルージは、人々の幸せのために幻覚魔法を作り出したことを思い出しました。それから彼は幻覚でまやかしの幸せを見せることをやめ、わが娘のために作ったホログラムを一般公開することにしたのです」
小百合は空中で一旦停止し、両手を組んで祈るような仕草をすると、その体が一瞬眩く光り、赤いワンピースが白く縁どられた衣装をまとった。記憶考古学による「サンタクロース」の衣装の復元だ。小百合が手に持った杖をひと振りすると、大きな角の生えた鹿が橇を引きずって小百合の元へ走り寄ってきた。
(トナカイ、とかいう動物だったか)
自分で作った映像なのに、その動物の名すら私は忘れかけていた。宙を見上げると、小百合は二頭のトナカイを駆って縦横無尽に宙を駆け、10万の観衆を沸き立たせていた。小百合が大きな白い袋からプレゼントボックスを取り出し、観客席に抛るたびにボックスの中から小さな天使や妖精のホログラムが現れ、観客席は無数の光の舞踏に包まれた。最後に橇が長い光の尾を引きながらドームの中を一周するともう一度天高く舞い上がり、そこで一度静止した。
"Merry Christmas!"
橇の上に立ち上がった小百合がそう叫ぶと、小百合の全身から10万本の光の矢がすべての観衆に降り注いだ。眩しさに一瞬目がくらんだ私が静かに目を開けると、小百合を乗せた橇はさらに高く舞い上がり、一瞬小さく輝いたあと満天の星空に吸い込まれた。
わずかな沈黙のあと、ネオ東京ドームは割れんばかりの拍手に包まれていた。それは今までのどの作品の時よりも大きな拍手だった。私はニルヴァーナを服用している時ではあり得ない興奮に包まれていた。なぜ今日に限って、こんなに心が揺れるのだろう?私が訝しんでいると、イライザから遠隔思念通話が入った。
「社長、申し訳ございません。私の手違いで、会場にニルヴァーナの偽薬を配布してしまいました。従って今の観客の反応は我が社のコントロール外に置かれています」
会場を見渡すと、歓喜の涙を流す者や、隣同士で抱き合っている者達が多く見受けられた。大崩壊以前のクリスマスでは、こんな光景が至るところで見られたのだろうか。ニルヴァーナの存在しない世界でも、人々はこんなに幸せそうな顔をしていたというのか。
「イライザ、これは君が仕組んだことなのか?」
私はそう訊いてみた。私以外に小百合のAIを持ち出せる者が、彼女以外にいるとは思えなかったからだ。
"Merry Christmas!"
イライザは私の問いには答えてくれなかった。私はゴーグルに浮かんだ文字列を反芻すると、しばらく本物の幸福感の余韻に浸ることにした。