婚姻?2
「リアを妻に娶る覚悟はあるのだろうな。」
寝台の傍らに仁王立ちになり、静かにだが威圧的に見下ろすザガートをイシャルは恐怖と驚きで見上げる。
「あ……兄上っ。いったい……」
「覚悟はあるのかと問うている。」
覚悟も何もここで肯定しなければ首を撥ねられる勢いに、イシャルは全身をガタガタとふるわせながら我が身を守るため必死になって頭を働かせた。
リアとは昨日初めて出会った。彼女はザガートからイシャルの身を守ってくれた光り輝く天使だ。
物腰柔らかく慈愛に満ち、その微笑み一つでザガートの怒りを鎮めてしまう奇跡の人。イシャルの本能は、彼女さえいればザガートから身を守り続ける事が出来ると告げていたし、イシャル自身、あのような女性の傍らにいられるならどれ程安心した時間を過ごせるだろう。
しかし同時に本能が告げる。
彼女を手に入れる事だけは決してしてはならないと。それは死を覚悟するのに等しいと、イシャルの脳裏でけたたましい程の警笛が鳴り響いていた。
覚悟はあるのか―――その問いに答える術の無いイシャルは、ここで首を切り落とされる瞬間を待つのが恐ろしいあまり、直ぐ様意識を失ってしまいたい衝動に駆られたが、あまりの恐怖で本日二度目の気絶は叶わない。
「ああああっ、兄上、ですが彼女はっ!」
「何? はっきり言え、聞こえぬぞ?」
「いえっ、あのっ、彼女は兄上のっ……たっ、たたたたっ、大切な御方なのではっ?!」
イシャルの言葉にザガートの眉がピクリと反応し、イシャルは『ひッ…』と肩を窄めた。
してはならぬ質問だったのか、ザガートの眼光が鋭く輝き、獲物を狩る戦士……いや、獰猛な魔獣のそれへと変貌を遂げた。
「それ故覚悟があるのかと問うておるのだ。」
「ひぇぇっ、ありますありますっ。どのような覚悟であろうと兄上のお望み通りにいたしますっ!!」
イシャルの返事に苦々しく顔を歪め、奥歯を噛み締めぎりぎりと苦痛に耐えるかに唸るザガート。己の満足行く答えを導き出した筈なのに心が晴れる所か、何故か胸の奥が苦しく締め付けられる。
これでいい。この世でたった一人ザガートの心に温もりを、平穏を与えてくれたリアが幸せになれるのなら何も不満はない……筈であるのに何故だろう? やり切れないという思いとイシャルに対して湧き上がる嫉妬心で、今まで経験した事のない怒りと身震いが起こってしまうのだ。
万民に愛されたいなどと幼稚な考えは微塵も浮かばない。誰一人にすら受け入れてもらえずとも剣を握り、腕を磨き己の世界を極めて行くだけで満足だった。ザガート自身がそれ以外の全てを拒んでいると言っても過言ではなく、剣を握れる事実こそが神に感謝すべき出来事で、本当に他には何も望んだ事はなかったのだ。これまでも、そしてこれからもそうであると当然のように感じていた筈なのに―――。
リアが己の手を離れ、大事に思う弟とは言え自分ではない男だけの物になる。
それを目の前で実感した瞬間、自分で導いた結果であるにもかかわらずザガートは、あまりの嫉妬と怒りに支配され身を震わせ、その怒りは周囲の空気を振動させるほど強烈な物へと化した。
腰の剣に今にも手をかけ、抜きそうになる自我を精一杯の想いで押し留める。
それもこれも全てはリアの為。
一人の娘に懸想し、自分勝手な感情で彼女の幸せを摘み取る事など許されない。ここで己に負けイシャルを傷つけてしまえば誰よりも悲しむのはリアだ。愛した女性の幸せを願い、潔く身を引く事こそ自分にできる唯一の道。
ザガートは血がにじむ程に強く拳を握りしめ、血走った眼で鋭くイシャルを見下ろす。
リアと並べばお似合いの弟。羨ましくて仕方がないその美しい弟は、ザガートの怒りを感じ取り恐れながらも気丈にリアに対する愛を紡いだ……と、ザガートは勝手に思い込んでいる。
そんなイシャルを恐れさせたことに反省したザガートは怒りを払い除けようと、更に握る拳に力を込めた。
「案ずるな、命の保証はしてやる。」
この先、将来に何があろうとイシャルがリアを幸せにするのなら、ザガートは二人の為に己の命をかけて守り通すと誓う。
しかしザガートの言葉足らず、しかも一方的勘違いの言葉はイシャルに伝わる事はない。イシャルにとっては命の保証=命までは奪わないと、脅迫以外の何物でもない言葉なのだ。
心に苦しい思いを抱え、ザガートはイシャルの部屋を後にした。
ザガートが目の前から消えた途端、イシャルは寝台の上に両手を付き項垂れると全身から大量の汗を放出させ、汗はイシャルの衣服を濡らし、肌を伝い白いシーツにまでも染みを作る。
いったい―――なんだったんだ?!
命の危険が去り、イシャルは必死になって心を落ち着けようとするが、鳴り響く鼓動は収まらない。
突然部屋に押し掛けて来たザガートは、イシャルに対して昨日初めて出会った少女を妻に娶れと脅迫して来た。その少女はザガートを恐れる事なく立ち塞がりイシャルを守ってくれた人で、穏やかな微笑みを湛える天使の様な少女だ。恐怖の象徴とも言えるザガートを前にしても少しの恐れも示さない。そんな少女を羨望しはするが……自分ごときが妻に娶る事が許されるのだろうか?
あの少女を妻に―――前向きに考えだした思考にイシャルは頭を振る。
彼女はあのザガートがご執心の娘だともっぱらの噂だ。そんな女性を妻に迎えた暁には幾ら命があっても確実に殺されてしまうだろう。それが例えザガートの命令であったとしても、いつ何時心変わりするとも限らないではないか。
だが―――あの少女が傍らにいる限り、ザガートの魔の手が及ばないとイシャルの本能は語る。
いったい自分はどうするべきなのか?!
ザガートを恐れ命を惜しむイシャルは寝台の上で一人もんどり打ち続けた。
*****
リアの喜ぶ顔が脳裏に浮かぶ―――
イシャルとリアを結びつけるお膳立てを整えたザガートは、いつもと異なり足取り重く帰路についた。
いつもなら跨り馬上で操る筈の手綱を徒歩で引く。少しでも帰宅を遅らせたいという無意識の行動だ。
初めて出会った時、自分を恐れる事無くにっこりと微笑みかけてくれた少女。表面上だけで取り繕うのではなく、恐怖を抱くどころか、心の底から無条件にザガートに対して信頼を寄せてくれていた。そんなリアに出会った瞬間恋に落ちはしたが、自分の様な人間が彼女を手に入れるなど夢の中でのみの出来事でしかなかったのだ。
奪う様に屋敷に連れ帰って来たが、もうそろそろ彼女を解放してやらなければならないだろう。純真無垢な若い乙女が仕えるべきは、恐れ忌み嫌われる自分ではない。それに相応しい伴侶と共に幸せで穏やかな人生を歩むべきだ。
表面上そうは見えないが、項垂れ気落ちしたザガートの視界にアルフォンスの姿が映り、アルフォンスの方もザガートの姿を認める。が、次の瞬間、驚いたように紫の瞳を見開いたアルフォンスは踵を返し元来た道を一目散で走りだした。
アルフォンスの奇怪な行動に反応したザガートは馬に飛び乗ると、瞬時に馬を走らせアルフォンスの首根っこを掴みとる。
片腕で軽々と宙吊りにされたアルフォンスは苦しいと、己の衣服によって締め付けられる首を保護し、足をばたつかせた。
「こんな所で何をしている。」
「なっ、何もっ!」
「―――リアに何かあったな?」
「?!!!!!!!!」
恋愛に疎くとも野獣と呼ばれるだけあり野生の感は人一倍働く。それが百戦錬磨で剣を交えれば敵なしと言われ事実でもあるザガートの恐ろしさだ。
「何があった。」
「いや……その、ね。屋敷から消えたんだ。でも大丈夫。僕がすぐに連れ戻すからっ。」
拘束を解かれ地に足をつけたアルフォンスが咳き込みながら答えると、ザガートの眉間に皺が寄り黒い気配が辺り一面に立ち込め、遠巻きに様子を伺っていた民も一斉に建物に籠ると扉を硬く閉ざす。
「フェルティオだな……」
何処までも低音で地響きを起こすほどの低い声に、それに慣れている筈のアルフォンスですら竦み上がった。
ザガートは手綱を引き馬の鼻先を変えると同時に腹を蹴りあげた。そうして足取り重く来た道を今度は馬の蹄を轟かせながら、これでもかという速さで突っ走って行く。
一瞬で見えなくなってしまったザガートの姿を呆然と見送っていたアルフォンスであったが、はっとすると慌ててその後を追った。
*****
怒りに任せ舞い戻って来た王宮のとある一室。
第一皇子フェルティオの私室へと通じる重厚な扉を守る二人の衛兵は、怒りを湛え鬼の形相で迫り来るザガートに躊躇する事無く道を開く。
これでは扉を守る意味が全くないが相手はザガート。怒りを湛え何処からどう見ても殺気に満ち溢れており危険な状態でるのは一目瞭然だが、フェルティオにとっては実の弟であり、態度はどうあれフェルティオはザガートを信頼している。だがら大丈夫だろうと、衛兵はザガートが傍らを通り過ぎると同時に生唾を飲み込み、無意識にとはいえ身を守る行動故か、腰の剣へと手をかけた。
リア救出に再び城へと舞い戻って来たザガートは、扉を開けるなり飛び込んで来た目の前の光景に石化した。
豪華な一人掛けの椅子に優雅に腰かけ、背もたれに背を預けつつ肘かけに両腕を預けるフェルティオ。そのフェルティオに向かって腰を屈め、両手を差し出したリアはその両掌でフェルティオの頬を優しく包み込んでいたのだ。
けたたましく音を上げ開け広げられた扉に、二人は意識と視線をそちらに向けた。
自信に満ち溢れ、嫌味な程に余裕綽々なフェルティオの碧色の瞳と、リアの潤んだ漆黒の瞳が同時にザガートを捕える。
世界が事なる美しい景色にザガートは息を飲み、一瞬で動きを封じられた。
そんなザガートの様子にフェルティオは僅かに口角をあげると、己の頬から離れようとしているリアの手を取り引き寄せる。フェルティオに向かって屈んだ姿勢を取っていたリアはいとも容易くその腕の中へと抱え込まれた。
不意の事にリアの手から濡れた白い布が取り落とされ、それによってザガートはフェルティオの両の頬に残る赤い腫れを確認する。
「貴様っ―――!!」
流石のザガートにもフェルティオの頬に残された腫れがリアによって殴られた跡である事。それがどのような状況によってつけられたのもであるか瞬時に理解され―――ザガートは迷う事無く腰の剣に手をかける。
「違います、ザガート様っ!」
「違いなどあるものか!」
リアの制止も聞かず剣を抜いたザガート。その光景を冷静な目で見ていたのは当事者でもあるフェルティオだけであった。
「話を聞けザガート、リアの言う通りだ。」
「貴様に向ける耳など生憎持ち合わせてはいない。」
リアを腕から解放しろと唸るザガートに対し、フェルティオはリアを抱き寄せる力を強めた。
「この世で彼女を最も強く傷付ける輩には、何を言っても無駄という事か?」
「―――何?」
全く呆れると、フェルティオはわざとらしい程に深い溜息を落とす。
「気に入ったという理由一つでいたいけな娘を強引に己が屋敷に連れ込んだ挙句、今度は用無しとばかりにイシャルへ下げ渡そうとしているではないか。」
「何を馬鹿な―――」
用無しではなく、全てはリアの為とザガートが口を開くよりも早くフェルティオの追及が及ぶ。
「では何か。お前は娘が自らそれを望んでいるとでも?」
「それ以外の理由が何処にある。」
ぎりりと奥歯を噛み締めるザガートを鼻であしらうと、フェルティオは慣れた手つきでリアの顎を捕えた。
「ザガートはお前とイシャルの婚姻を整えようとしているが、お前自身はそれを望むのか?」
「えっ―――」
リアは驚きと共に目を見開き、ゆっくりとザガートへ視線を向けた。
疑問と不安に満ちた瞳がザガートを見上げる。
「どういう、事ですか?」
孤児院育ちの娘と、ロウディーン帝国第三皇子のイシャル。
本来なら永久に何の接点すら生まれる事のなかった筈の二人には、雲泥の差以上の身分の違いあがる。黒騎士団団長であるザガートの姿を認める事はあったとしても、病弱で城の外に出る事すらままならないイシャルとの出会いは奇跡以外の何物でもないし、昨日出会ったとはいえ、それでもリアにとてイシャルは雲の上の存在だ。
そんな自分と第三皇子の婚姻をザガートが整えようとしている?
聞き間違いと己が耳を疑うリアに、フェルティオは同じ言葉をもう一度繰り返した。
「既にザガートはお前とイシャルの婚姻許可を陛下から受けている。このままだと近いうちにお前がイシャルの妻になるのは決定してしまうが、それでもよいのか?」
フェルティオの言葉にリアは蒼白となり、両手で口を覆いガタガタと身を震わせた。その様子を目にしたザガートは大きな不安を覚える。
目の前で身震いし怯える娘の姿は歓喜の震えではない。それは常にザガートが自分を恐れる輩から向けられ続けるものと同じ物だ。決定的な違いはリアに襲いかかる恐れが、ザガートに向けられているのではいないという事。
「何も恐れる事はない―――」
愛する者と添い遂げるのだから―――言いかけた言葉は胸を襲う痛みが邪魔をして紡ぐ事が出来なかった。
震えるリアに言葉を失ったザガート。
フェルティオは万民を引き付ける微笑みを浮かべリアを覗き込むと、耳元でそっと囁く。
「私の問いに真実だけで応えて。そうすれば君の犯した罪を許し、主であるザガートにその責を問うのは止めてあげてもいいよ?」
フェルティオの囁きにリアははっとし一瞬で現実に引き戻される。
リアの犯した罪―――
目の前には美しいとしか例えようのないフェルティオの顔が迫っている。その顔、両の頬にはくきりと、リアによって付けられた手のひらの赤い痕が。
リアはザガートの屋敷に仕える使用人。その使用人が皇太子であるフェルティオに手をあげたのだ。しかも二度目。たとえ弟とは言え、リアの主としてザガートが叱咤され責任を問われるのは当然の事。
フェルティオは今にも床に平伏し、土下座で謝罪を試みようとするリアの腰をがっしりと掴んでリアの意識を捕えた。
「お前はイシャルの妻になる事を望むのか?」
「いっ、いいえ―――!」
「お前はイシャルを男として愛しているのか?」
「そんなっ……ロウディーンの皇子殿下として敬いは致しておりますが恐れ多い事でございます!」
「では、そなたが心より愛おしむ男は誰だ?」
「―――そのような殿方などっ!」
おりませんと言いかけたリアをフェルティオの瞳が鋭く射抜く。それはフェルティオが滅多に見せない支配者の嘘を許さぬ視線。
「真実以外の言葉など不要だ。」
美しい顔に浮かぶ辛辣なまでの冷たい瞳。その視線の先にある絶対的な権力を感じ取り、リアの背に冷たい汗が伝った。
「そなたが愛おしいと思う男の名を申してみよ。」
笑顔の下に潜む恐怖にリアはカタカタと震え、静かに答えた。
「ザガート、様、です。」
*****
ザガート様です―――
震えるリアから紡がれた言葉にザガートは大きな衝撃を受け、その脳裏には昨夜の出来事が一気に覚醒する。
『大好き……大好きです、大好き―――』
高揚したリアから漏れた告白が、たった今耳元で囁かれたかに思い出され、ザガートは訳が分からず頭を掻き毟ってリアを凝視した。
フェルティオに囚われたリアはザガートをゆっくりと見上げ、頬を染めたかと思うと漆黒の瞳から大量の涙を溢れさせ―――耐えきれないとばかりにフェルティオから逃れると、顔を覆い隠して一気に走り出す。
その様を唖然と見送ったザガートはその場に立ち尽くし茫然としていたが、やがて怒りの矛先を目の前のフェルティオに向けると剣を握り直した、のだが。
「聞く所によると、彼女は破壊的なまでに極度の方向音痴らしいな。じき日も暮れる。城内とはいえ、この城には飢えた狼が少なくはないと思わないか?」
その言葉にザガートははっとする。
途端に目の前の獲物に興味を失くすと、大きな図体に似合わぬ俊敏な動きで踵を返し、姿を消したリアの後を追って駆け出して行った。
*****
さて、これから面白くなるぞ―――とフェルティオは満足そうに微笑むと椅子に深く身を寄せた。
リアの思い人がザガートである事をザガート自身が知ったのだ。流石のザガートも今度こそはリアを手放すまい。
己の行いを詫び、どれ程の想いをリアに抱いているのかを正直に口にするだろう。二人は両想い、めでたしめでたし……と、本来なら幕引きとなる所だろうが―――相手はあの奇特な娘、そう上手く行く筈がない。
しかも決定的な弱点とも言えるのだろう、リアには女に生まれたなら僅かにも持ち合わせていて可笑しくないしたたかさが微塵もなかった。
極端なまでに身分に拘り己を卑下し、自分はザガートに最も相応しくない人間だと信じられない程強く思いこんでしまっているのだ。
そもそもフェルティオにすら落とせない娘。女に疎いザガートにそう易々と落とせる訳もなく。もしかしたら永遠に二人が添い遂げる日は来ないやも知れない。が、その時はまた手を貸し面倒を見てやるのもいいのではないか。兎にも角にもあっさりくっつかれては楽しみがなくなってしまう。
一人肩を震わせ笑いを漏らすフェルティオの元へ、一人の男が慌ただしく駆けこんで来た。
「少しばかり遅かったな。」
見せ物は終わったぞと告げるフェルティオに、全身汗まみれのアルフォンスは肩で大きく息をしながら大きな疑問をぶつける。
「何で生きてるんです?!」
「―――お前なぁ。」
アルフォンスは驚き、心底驚愕した様子で、何故ザガートに殺されていないのかとフェルティオに向かって叫んだ。




