告白1
泣く子も黙るロウディーン帝国黒騎士団団長ザガート。
その名は近隣諸国にまで轟き、大きな体といかつい顔つきは誰もが恐れ慄き恐怖の代名詞ともなっている。
そんなザガートが目を血走らせ、こめかみに青筋を立てて黒騎士団の鍛錬場で仁王立ちになっているものだから、そのあまりの恐ろしさに集まる黒騎士団の精鋭たちですら声をかける事が憚られていた。
迂闊に声をかけ、本気で剣を振るわれでもしたら命がないのは目に見えている。
触らぬ神になんとやら―――怒りの矛先を向けられる事に恐怖しながら、ロウディーン帝国の精鋭たちは怯えつつ鍛錬に打ち込んでいた。
そんな気を使いつつ訓練する彼らの前に立ちながら、訓練の様子など全く見えていない黒騎士団団長ザガート。彼の頭にあるのは、先日兄である王太子がリアに働いた暴挙だけだ。
俺ですら触れた事がない場所に―――!!
ザガートがアトラスの森でリアと出会ってから今日に至るまでの間、触れた場所と言えば最初に手を取り助け起こした時と、リアを連れ帰る為に自分の馬に同乗させた時に体を支えるため細い腰にそっと遠慮がちにさわっただけ。あまりに細い腰だったので力を入れてしまうと壊してしまいそうだったので、過去に他人に気を使った時の更に何百何千倍もの気を使いながら、まるで雛鳥の羽毛で出来た人形に触れるように、潰さないよう壊さないよう精神集中しながら馬から落ちぬよう支えてやった。
同じ屋敷に住まっているというのにたった一度、ザガートの部屋の前で眠るリアに指先でほんの僅かに触れてたのが最後だったというのに……そんな数に入らない様な事もカウントするザガートとは対照的に、フェルティオはリアに詰め寄り全身を密着させていたのだ。
あの場にリアがいなければ、ザガートは怒りに任せ間違いなく兄でありロウディーンの皇太子であるフェルティオの首を一刀両断にしていただろう。
しかも悪夢は再びやって来た。
再び姿を現したフェルティオはあろう事かリアの唇に……あの、ほんのりと色付き艶を帯びた唇を、何の迷いもなく無理矢理に強奪したのだ!!
自分の屋敷内でありながら、リアをあんな女たらしの毒牙にかけさせてしまった自分のふがいなさに怒りを覚える。鍛錬が足りなかったとアトラスの森に入り、魔物を駆除して回って血まみれでこの鍛練場に顔を出した時には部下らに剣を抜かれ、全員を地に沈めたのは怒りのあまり覚えていなかった。
怒りに狂うザガートからは黒い煙の様な物が立ち上っている。それを目にした黒騎士達は恐れのあまり視線を反らす事が出来なくなっていた。反らせば殺られる。怒りを漂わせるザガートの姿を見ただけなのに、それだけで精神に異常をきたしそうな程に威圧的な覇気を持つザガートは人外の何物でもない。これが人の腹から生み出されたなどいったい誰が信じるだろうか。
そんなとき、ザガートの怒りのオーラに釘付けになってしまっていた黒騎士達の耳に年若い娘の声が届いた。
ザガートの後方から魔法師団副師団長であるアルフォンスと、一人の娘が楽しげに談笑しながら歩み寄って来る姿を目撃した黒騎士達は驚き、真夏の暑さにもかかわらず冷たい汗が背筋を伝った。
黒騎士の鍛錬場に女が近付く事は厳禁とされている。
見学と称して黒騎士に群がって来る若い娘達を煙たく思ったザガートがそれを禁じたのだ。まぁ禁じずとも、ザガートに睨まれた娘達は二度とこの鍛錬場に姿を見せる事はなくなっていたのだが。
ザガートが声のする方に振り返ると、黒騎士達は条件反射で一斉にザガートの周りに詰め寄った。
かつてない程の怒りを湛えたザガートの前に、立ち入りを禁じられた女が姿を露わしたのだ。無事で済まされる訳がない。
それを知っている筈の魔法師団副師団長ともあろう人が何を血迷っているのか?!
黒騎士達は若い娘の命を守るため、果敢にもザガートの暴挙を止めようと前に出た。そう、己の命さえ捧げか弱い乙女を守る騎士道精神まっしぐらに挑んだのだったが―――
「ザガート様!」
満面の笑みを湛えた娘―――リアは、ザガートの姿を認めると一目散に走り寄って来た。
その光景に居合わせた黒騎士達は誰もが唖然とし、幻でも見ているのだろうかと驚き目を見張る。
ザガートは走り寄って来た娘に対して無言の威圧で威嚇する訳でも、怒鳴りつけるでも剣を抜いて追い払うでもなく、それ所か、こめかみに浮かべていた青筋も怒りに血走った鋭い眼光も、絶対的負のオーラも全てを静めて娘を迎え入れたのだ。
相変わらず厳つく恐ろしい表情は浮かべているものの、何処からどう見ても何時もの黒騎士団団長の姿。たった今まで辺りを凍りつかせていた怒りは何だったのかと逆に寒気が走る程だった。
*****
有り得ない人の姿にザガートは驚きに目を見開いた。
何処をどう見てもザガートの元に笑顔を浮かべ走り寄って来たのは、ザガートが恋して止まないたったひとりの娘だ。
漆黒の瞳はザガートを恐れる事なく、純粋無垢な輝きで大男を見上げている。
何故娘がここにいるのだ?!
疑問はリアの後ろからゆっくりと歩み寄って来るアルフォンスに向けられていた。
黒騎士団の鍛錬場はロウディーン帝国の王城敷地内に設けられている。
城の建物からは離れた場所にあるとはいえ、リアを襲ったフェルティオが住まう城まで遠い訳でもない。こんな危険な場所に何故娘を連れてきたりするのだと、ザガートは無言の威嚇でアルフォンスを射抜いた。
あの日以来、たとえ己の屋敷内であってもリアを一人にするのは危険だと、ザガートは不本意ながら友人であるアルフォンスに自分がいない間のリアの面倒をみるようにと、魔法師団副師団長と言う立場にありけして暇ではないアルフォンスにリアを守る役目を問答無用で押し付けた。
己の屋敷の使用人としてリアを雇い入れたというのに、その意味を全くなしていない過保護振りに呆れながらも、面白がったフェルティオがリアにちょっかいを出し、ザガートに皇太子を殺されてしまっては一大事になるという不安から、アルフォンスはフェルティオの命を守る意味を含めてリアの周囲を監視していた。
面倒なザガートは無視し、アルフォンスは手にしていた大きな籠をリアに差し出す。リアは笑顔でそれを受け取ると、籠に被せていた布を取って中をザガートに見せた。
「訓練の合間に食べて頂きたくて―――」
ザガートが覗き込むと、透明な瓶の中で黄色い物が琥珀色の液体に浸されているのがみえる。檸檬の蜂蜜漬けだ。
猛暑の中での訓練は体力が消耗されるため確かに有り難い差し入れではあったが―――
「多すぎないか?」
籠いっぱいに詰められた瓶は、軽く見積もっても十人分はくだらない。
「そうですか? ちょっと少ないかなって思ったんですけど……」
「さすがの俺でもこれ程には食えぬ。」
するとリアは驚いたように目を見張った後、笑みを浮かべくすくすと笑いだした。
「ザガート様ったら……勿論皆さんの分も含めてです。お配りしても構いませんか?」
そう言ってリアはザガートの周りに集まっていた二十人あまりの黒騎士達に視線を移した。
黒騎士達はザガートと自然に言葉を交わしている不思議な娘に目を奪われる。自分たちですら恐れを抱く団長に対し、何故この娘は恐れるでもなく冷静にいられるのか。そして更に黒騎士達はザガートが次に発した短い言葉にも驚かされた。
「構わん。」
驚きに満ちた多くの視線が一斉にザガートへと注がれる。
休憩時間まではまだ随分と間がある。
黒騎士団に属する騎士達は、今までの訓練において過去に一度たりとも途中で休憩など許された事はなかった。運悪く体調がすぐれず途中で倒れでもしたなら、ザガート自らによる更なるしごきが待っているのだ。精鋭たちが集められた黒騎士団において、訓練が中断される=国家の一大事以外にはない―――と、思われていたというのに。
一人の娘が差し入れた檸檬の蜂蜜漬け一つで過去は覆され訓練が中断されたのだ。
「あの……もしかしてお好きではありませんでしたか?」
驚きのあまり差し出された瓶を受け取れずにいた黒騎士達は、リアの言葉ではっと我に返り、同時にそれに反応したザガートから殺気が発せられた事に気付いた。
喜んで手にしろ、さもなくば――――
「とんでもない、好物すぎて三食すべてこれにしたい程ですよ!」
「あまりの感激に言葉を失っておりました!」
「有り難く頂戴いたします!」
「おお、これは今まで口にした蜂蜜漬けの中でも群を抜く美味さです!」
瓶を手にして蓋を開け、慌てて口にしたそれぞれが異常なまでの賛否を述べるので、リアは思わず眉間に皺を寄せる。
「美味しくなければそうおっしゃって下さって構いませんよ?」
不安気に黒騎士達を覗き込むリアに一同声をそろえ―――
「「「「「「とんでもない、あまりの美味さに感激しております!」」」」」」
実際の所、今の彼らに味の判断はつかなかった。
ザガートから浴びせられる威圧的な視線と、娘が現れたことで怒りを鎮めたザガートの豹変について行けず、味覚にまで神経が及ばなかったのだ。
取り合えず、僅かな表情の変化で満足そうに頷くザガートを感じ取り、彼らは命を繋ぎ止めた事にほっと息を付いた。
*****
「何故娘をこんな場所へ連れてきたりした?!」
リアが黒騎士達に目を向けている隙に、ザガートはアルフォンスを睨みつける。
まったく……少し前までは屋敷を訪れただけでリアから引き離すように追いだしていたくせにと、アルフォンスはこれ見よがしに溜息を落とした。
これでもアルフォンスは、ザガートを恐れない貴重な存在であるリアがザガートの伴侶となってくれる事を願いつつ尽力を尽くしているのだ。
事あるごとにザガートを必要以上に誉めたたえ、必ずしも恐ろしい猛獣のような外見と心の内は一致しないといった具合に必死で色をつけ説きに説きまくった。ザガートの見かけではなく、意外にも誠実な心根の持ち主だと賛否しながら自分でも多少言い過ぎだと思いつつ、リアがザガートを恐れ逃げ出す事がない様に警戒しつつも尽力しているつもりである。
「彼女が君と、君の部下の為に差し入れをしたいと言うから連れて来たんだ。君の役に立ちたいという彼女の気持ちが迷惑だと言うなら、二度とやらないよう忠告しておくけど?」
「いや、それはいいが―――」
折角の好意を無駄にするつもりはない。というよりも、いらないと言った時点で嫌われるのは目に見えていると、ザガートは手にした瓶詰めをみつめる。
これをリアが俺だけの為に作ってくれたのか―――
(いいえ、みんなの為です)
感慨深く手にした瓶をみつめ、思わず強く握り締めてしまった瞬間。
グシャッ――――と、ザガートの握力で瓶が砕け、檸檬の蜂蜜漬けが握りしめられた手から溢れ出してしまった。
その奇怪な音に皆が一斉にザガートへと視線を向ける。
「大変、どうしよう?!」
瓶を砕いたザガートの握力に驚く黒騎士達に反し、リアは自分の渡した瓶によってザガートが大切な手を怪我してしまった事に青ざめる。
(わたしのいらぬお節介のせいでザガート様が怪我するなんて!)
(折角リアが俺の為に危険(?)を犯してまで持って来てくれた品だというのに!)
リアはザガートが怪我をした事、ザガートはリアの作ってくれた檸檬の蜂蜜漬けを口に入れる事が出来なかった事で、お互いがお互いのしでかした事に顔を青くし悔やみ合う。
リアは布を取り出し、破裂した瓶と蜂蜜に塗れたザガートの掌を丁寧に拭い取ると、そこにある筈だと思っていた傷を認める事が出来ずに首を傾げた。
「あれ?」
ザガートの厚い掌は割れた瓶程度で傷付く程繊細にできていない。
怪我がない事にほっとしたリアはザガートの手を離そうとしたが、リアの手のぬくもりが離れて行ってしまう事に寂しさを感じたザガートは、その小さな白い手を逃がすまいと思わず無意識に強く掴んでしまった。
途端、ポキッ――――と、リアの右手が嫌な音を立てる。
「あ―――」
「え―――?」
小さな音がすると同時にリアの眉間に皺が寄り、ザガートの額に冷たい汗が流れた。
二人は手を取り合ったまま見つめ合い、その不自然さに疑問を持ったアルフォンスが二人の手を引き離してみると―――リアの人差し指が有り得ない方向に曲がってるではないか。
「ザガートお前―――」
「いいえアルフォンス様、ザガート様ではなくひ弱なわたしが悪いんです!」
言葉を失い呆然と立ち尽くすザガートに対してアルフォンスが呆れた様な視線を送ると、リアはザガートを庇って必死にいい訳を始める。
ふとした瞬間、力の加減を忘れて相手に怪我を負わせたりするザガート故に醜悪な噂が付き纏うのだ。これによってリアがザガートを恐れてしまわなければとアルフォンスは懸念したが、この様子だとその心配も全くなさそうだとほっと息を付いた。
「あんまりザガートを甘やかしちゃ駄目だよ。」
そう言って紫の目を細めると、アルフォンスは治療のためにリアの小さな手を取る。
だが次の瞬間、その背に衝撃が走りアルフォンスの細い体が吹っ飛び、黒騎士達が慌ててその体を受け止めた。
リアの怪我の手当てをしようとしたアルフォンスは、ザガートによって背中を思いっきり蹴り飛ばされたのだ。
「ちょっ……治療しようとしただけだろ?!」
ザガートの過剰反応に対してアルフォンスが怒りを湛えて振りかえると、そこにはリアを抱き上げたザガートが大きな影を作っていた。
「治癒魔法ならお前よりイシャルの方が長けている。」
言うなり踵を返すと、ザガートはリアを抱えたまま脱兎の如く城に向かって走り去って行った。
そのザガートの表情はここに居合わせる全ての者が初めて目にする狼狽。国家崩壊寸前ともとれるとてつもない大事件であるかに焦ったものだった。
残された黒騎士一同とアルフォンスは唖然として、口をぽかんとあけたまま言葉を失う。
骨が折れたとはいえ、彼らに言わせるならたかが指一本だ。
攻撃魔法が得意なアルフォンスだが、仮にも肩書は魔法師団副師団長。将来的には父の後を継いでロウディーンの魔法師団長になる身。そのアルフォンスが骨一本治癒できない訳がない。と言うか、そんなの朝飯前だ。
だというのに―――
黒騎士団の訓練で騎士達の骨を砕く事に何の遠慮ももたないザガートが、たかが指一本でイシャルの方が治癒魔法に長けていると焦って駆け出すか。しかも友人でもあるアルフォンスを蹴飛ばし治療をさせないなんて有り得ない。
「イシャル様は大丈夫でしょうか?」
アルフォンスは体を受け止め支えてくれていた黒騎士の囁きにはっとし、慌てて身を起すと滅茶苦茶な速さで走り去ったザガートの後を慌てて追いかけた。
*****
「うっわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ―――!!!」
華やかな王城の一角に断末魔の叫びが響き渡った。
「お許し下さい兄上、私には無理です。私はひっそりと静かに生きて行く事だけが望みなのです――――っ!!」
突然現れた下手な魔物よりも凶暴な兄ザガートの姿を目にした途端、十六歳になったばかりのロウディーン帝国第三皇子イシャルは、美少女とも見紛う美しい顔を恐怖に染めると腰を抜かし、病弱な体を引き摺りながら部屋の角まで後ずさる。
美しく輝く長い銀の髪は恐怖のあまり総毛立ち、翡翠の様な深い緑の瞳は命の危険に怯えていた。
いったいイシャルに何をしたのだ? と聞かれかねないが、単にイシャルはザガートの外見に恐怖しているだけで特に何か恐ろしい体験を強制させられた訳ではない。
だがイシャルにとってザガートは恐れの対象以外の何物でもなく、その姿を目にするたびに恐怖のあまり心身ともにすり減らして健康な体を害し、ひ弱な皇子へと成長してしまったのだ。
そんな弟皇子を心配し何とか助けてやりたいとザガートが手を出す度、逆にそれが仇となって更にイシャルはザガートに恐れを抱き、心労からくる病は悪化し続けている。
そんなひ弱な少年皇子の唯一の特技というのが、ロウディーン帝国内に置いてまず右に出る者のいないと言われる治癒魔法だ。その治癒力は魔法師団長であるオーレンすら凌ぐ腕前である。
部屋の角に追いやられ腰を抜かしてしゃがみ込んだイシャルの前に、早足で恐怖の対象が詰め寄って来る。
あまりの恐ろしさに悲鳴を上げる事も忘れ、ガタガタと震えて今にも泡を吹いて意識を失いそうなイシャルの前に、ザガートの物ではない、細く小さな二本の足が現れた。
見上げると黒髪黒眼の、可愛らしい自分と同じ年頃の女の子。
ザガートとイシャルの間に降り立った娘は、不安気にイシャルを見下ろしていた。
「あの……大丈夫ですか?」
天使が現れたのだと思った。
凶暴なザガートからイシャルを隔離するように立ち塞がった娘を翡翠色の瞳が見上げる。
容貌、立ち居振る舞いから生まれの全てにおいて、天使と例えられるべきはリアではなくイシャルの方であろう。だがイシャルはザガートに恐れ慄くばかりで彼の腕に抱かれた娘の姿は目に入っていなかった。その為リアが自分を守るために突然空中から舞い降りたかに映ってしまったのだ。
自分を悪魔から守るかに立ち塞がってくれている一人の天使。
崇拝者其の一、誕生の瞬間である。