親友 2
魔物の血肉に汚れた体を湯で流したザガートは、リアの給士を受けながらなんとなく違和感を感じていた。
側に寄れば感じる愛しい娘以外の気配。労働に身を投じたにおいとは別に、わずかな他人のにおいをザガートは感じ取ったが追及はしない。いらぬ行動でリアを驚かせたり不安にさせたりしたくなかったし、リアの様子から何か危険なことや困ったことがあったようには感じられなかったからだ。
「共にしないか?」
給仕ばかりで一向に席に座らないリアに一緒に食事をしようと誘えば、驚いたような顔をした後で笑顔で首を振り拒絶される。
「これがわたしの仕事ですので。でもお気持ちはとても嬉しいです。」
夫婦になったのだから遠慮する必要などないと言いかけたザガートだったが、屋敷に来ているはずの手伝いの者らがいなくなっていたのを思い出し口を噤んだ。
長く留守にし番をしていたものがあったとしてもやはり大きな屋敷だ、手伝いが一人もいなくなっては手がかかって大変だろうと思い至る。それもこれも自分が人々に抱かせる恐れのせいだと気付いてザガートは何も言えなくなってしまった。これではいけないと愛する妻の為にもあきらめるだけではなく努力する必要があると考え直し、明日からはフェルティオのように愛想笑いを振りまいてみようと心に誓う。その誓いを実行する翌日は領民の気絶者が大勢出て大変な事態に陥るのだが、この時のザガートには想像できない事であった。
食事の支度に後片付けと明日の朝食の仕込み、リアが全てを終えるまでにかなりの時間を要した。ふと気づけば時刻は日を跨ごうとしている。最後にザガートに出した寝酒の片づけを済ませてしまおうと部屋を訪れてみれば、小さな光の中で長椅子に体を預けるザガートの大きな体がわずかに蠢くのが確認できた。
「遅かったな。」
「もっ、申し訳ありませんっ。」
片づけに来るのが遅かったと怒られたのだと思いリアは慌てて頭を下げると、飲みかけの酒を盆にまとめて持ち上げようとした。が、その手を不意にザガートの大きな手が掴んで引っ張られる。
「あのっ、ザガート様?」
今まで仕置きなど受けたことはないが叱咤されるのだろうかと身構えるリアの腕を引き、ザガートは大きな己の寝台に引っ張っていくと自身は寝台に腰を下ろしてリアの両腕を拘束した。そこでザガートは何かがおかしいと気付き眉を顰める。
「何故お仕着せなど着ているのだ?」
「えっ、し……仕事がまだ終わっておりませんので。」
お仕着せはリアの仕事着だが、ザガートは自分の妻となったリアがどうして使用人の衣服に身を包んでいるのかという事だった。仕事が残っていると聞いたザガートは、リアがお仕着せ姿なのは動きやすいからだと解釈してしまう。
「明日にしろ。」
「あ、はい。えっと、それではそう致します。」
仕事が遅いと叱咤されるのだと思っていたリアは明日にしろと言われ、自分の身を気遣ってのお言葉だと勘違いし、嬉しさに頬を緩ませ目頭を熱くした。
「では、寝るか。」
新妻を寝台に誘うザガートも、リアの薄く膜の張った漆黒の瞳にわずかな動揺を感じつつ、急いて怪我をさせないようにとゆるく手を引いた。だが力の緩まったザガートの手からリアはするりと両腕を引くと一歩後ろに下がって深々と頭を下げる。
「お疲れさまでございました。どうぞご自愛くださいませ。」
体を壊し静養の地までやってきたというのに、領民の為に魔物狩りへ出かけたザガートをねぎらう。リアにできるのはザガートが少しでも楽に心安く過ごせるよう環境を整えることだけだ。注意は受けたがまだまだやっておきたい仕事がある。ザガートの為となれば疲れも知らずにいつまでも動き続けられるような気がした。
リアは腕を宙に浮かせたまま動かなくなってしまったザガートの前からそそくさと姿を消す。主の安眠の邪魔をしたくなかったのだ。唖然と言葉を亡くし固まってしまったザガートを寝室に一人残し、リアは主の為に働ける我が身を誇らしく思いながら暗い廊下を進んでいく。
そんな軽快ともいえるリアの足音が遠のきようやく我を取り戻したザガートは、大きなため息を掃き出すと後悔の念に駆られ頭を抱えた。
「彼女は疲れているというのに俺は何という事を―――己の欲望でようやく手に入れた妻に更なる過酷を強いようとしていたとは……」
己の非道さに謝罪の言葉を口にすることもできなかったと、新婚初夜を一人頭を抱え寝台の上で悩み懺悔の時間を過ごしたのであった。
*****
一方、国に帰ったラゼルはご満悦だった。
敬愛するザガートを虜にした絶世の美人妻には会えなかったが、同じくザガートを敬愛してやまない娘と知り合え、男女の域を超え親友となった。男女の域を……そう、超えたのだろうか?
ザガートの為に薪を割り、割った薪で風呂まで沸かして影なる支えとなった。その事実がザガートに知られる事はないが、陰から支えたという事実がラゼルにとっては重要なのだ。全世界の王となる威厳を持ったザガートの前に立つにはまだまだ出来損ないの我が身だが、ひそかに役に立てたと思うだけで幸福感に包まれる。その幸福を共に分かち合った娘がいたのだが、その娘のことがザガート同様にラゼルの心から離れることがなくなってしまっていた。
ザガートに抱く感情は敬愛だ。同時に自国の事情など完全に無視した絶対的な服従心も持ち合わせている。あの娘に抱く思いはそのザガートを愛しむ同朋だと―――そう思っているのだが、どうもなんだか違う気もする。この感情は何だろう。ほんのりと頬を染めた娘のはにかんだ微笑みが、ザガートの雄々しい姿同様に忘れられないのだ。常にザガートの如くありたいと願う人生に初めて入り込んだ異物は、けして心地悪いものではなくその反対であった。
長椅子に寝そべり考えに耽るラゼルの前に一枚の姿絵がぬっと差し出される。金髪に青い瞳と白い肌、淡く色付く頬の美人画だ。
「何これ?」
「十日後に殿下がお見合いなさるリブリル侯爵令嬢ティティアナ様です。」
目の前に差し出された絵に眉を顰めると長く側に仕える乳兄弟のフレートが答え、その答えにラゼルはぷっと吹き出した。
「僕の知ってるリブリル侯爵令嬢ティティアナはこんな美人じゃないよ。」
こんなに綺麗な金色の髪ではないし、くすんだ灰水色の瞳のはずだ。顎も絵のようにすっとしておらず下膨れのぽっちゃり系だったはずである。
「見合い画というものはこのようなものだと決まっているのです。それよりもライゼオール殿下、お見合いは十日後ですからね。お忘れなきように。」
「だからどうして僕がお見合いなんてしなくちゃいけないの?」
馬鹿らしいとラゼルは目の前に差し出された絵を払うと、面倒そうにのそのそと起き上がった。そんなラゼルの態度に側仕えのフレートは大きなため息を落とす。
「ですから殿下、貴方がおっしゃったんじゃないですか。ザガート殿が独身であらせられるのにどうして僕が結婚なんか出来ようかって。」
「ああ言ったね、それが何?」
それがラゼルの心からの偽りなき本心だ。数ある見合い話もそうやって突っぱねてきたし、これからだってそうだと胸を張るラゼルにフレートは眉を細めた。
「ですからそのロウディーン帝国の第二皇子ザガート様がこのたび目出度くご結婚あそばされましてね。聞きつけた貴族のやからが次々と自分の娘を売り込んでくるんで私はてんてこ舞いなんですよ。その中から一番に気位が高くて高飛車で高圧的で権力者に媚を売るしか能のない娘を選んでみたんですがいかがでございますか?」
「いかがでございますか? じゃないよっ。僕が一番嫌いなタイプじゃないか。フレートお前っ、僕に何の恨みがあって―――じゃなくて!」
ラゼルは剣を振るうに相応しい立派な体格で細身なフレートの前に立つと威圧的に見下ろす。
「ザガート殿が結婚したなんてガセネタじゃないか!」
わざわざロウディーンまで馬を飛ばして損を―――しはしなかったがと側仕えを責めれば、フレートは器用に片眉を上げて主を見上げた。
「おや、何をおっしゃいます。ファブレシアの諜報部がもたらす情報に間違いはございませんよ。」
「でも僕は自ら赴きザガート殿の屋敷に勤める娘に確認を取ってきたんだ。」
「そうですか。こちらにも新たな情報がありますが?」
お聞きになりたいですかと勿体ぶるフレートにラゼルは無言で先を促す。
「そのザガート殿の奥方ですがね。絶世の美女に違いないと豪語して殿下は飛び出しておしまいになりましたが、奥方は美人ではないとのことです。」
「は? 諜報部は妖艶な絶世の美女をその目で確認したのか?」
「ですから絶世の美女でも妖艶でもありませんって。」
まったくロウディーンの猛獣が相手だと聞く耳持たないんだからとフレートは溜息を零しながらも先を続けた。
「年は十八、もとは孤児でザガート殿下が森で拾われた娘だそうです。黒髪黒目のどちらかといえば可愛らしい穏やかな雰囲気の娘で、最大の特徴は極度の方向音痴。今はザガート殿下とお二人で領地の屋敷に滞在中。妻になったのに下働きとしての仕事を一人で背負わされるという酷い扱いを受けているそうで、なんとまぁお可哀想な娘ですね。」
さすが鬼畜が相手ですと娘を憐れむフレートに、ラゼルはおや? と首を傾げた。
「黒髪の、娘?」
「ええ、名前はリアというらしいですよ。あれ殿下、突然倒れ込まれていかがなさいました?」
思い描ける娘の姿にラゼルは頭を抱えてふらふらと床に蹲った。ザガート命のファブレシア第四王子だが、ザガート個人に関して以外の理解力は極めて正確かつ高い。
「リア……そんな、僕を騙したの? あのリアが、ザガート殿の妖艶な美人妻?」
頭を抱えてぶつぶつと悩みに耽る主を側仕えはいつものことと上から眺める。
「だから妖艶でも美人でもありませんって。」
「どうしてリアが……親友だって言ったのに……」
「―――また人の話をまったく聞いてませんねこの人。」
ザガートが係ると自分の世界にこもってしまう主にまたもや溜息を落とし、フレートは仕方がないとばかりに見合い画を片付けた。リブリル侯爵は反王太子派でラゼルを次代のファブレシア国王に押している。こんな王子が次なる国王になれば瞬く間に国はロウディーンに吸収合併されてしまうというのが何故わからないのだろうかと、不敬ながら令嬢の肖像画をごみ箱に放り込んだ。
*****
あのリアが、ザガートを敬愛する旨を言葉に乗せていたリアの言葉が全て紛い事であったなんて!
あんな娘を敬愛するザガートの側に置いておくなんて出来ないと、ラゼルはまたも一人国境を越えロウディーンの都を目指す。ザガートとリアは領地を後にしすでに都へと戻っていたからだ。
敬愛し勝手に従僕を気取るラゼルは一目散にザガートの元を目指し、人知を超えた馬捌きをもってロウディーンの王都、ザガートの住まう屋敷へとたどり着く。道中はリアに騙された恨みと同時に、すべてが間違いであって欲しいという懇願が心の奥で渦巻いていた。
たどり着いた屋敷はどんよりと負の空気で包まれ、爽やかに晴れわたる青空だというのにザガートの屋敷の上にだけ雷鳴とどろく暗雲が鎮座している。ザガートが住まう屋敷でなければ化け物屋敷とラゼルですら嫌煙したくなるおどろおどろしい雰囲気であったが、この屋敷の中にザガートがいるのだと思うと白亜に輝く希望の城に見えてしまう。だが今のラゼルにはザガートを妖艶な絶世の美女という皮を被った悪女から守るのだという重要な任務があった。憧れのザガートに会えるかもしれないという期待を胸の奥底に沈め、気配を完璧に消し去りそっと屋敷に忍び込むと、暗い廊下で二人の男が立ち話をしている様を目撃し身を顰め聞き耳を立てる。
「だから騙し討ちなんて反対だったんですよっ!」
あれはザガート殿といつも一緒にいる魔法使いと―――皇太子フェルティオ殿下か? 何を話しているんだろうと、ラゼルは気配を悟られぬよう身を顰めた。魔法使いもいることだ、ここで見つかって拘束されては悪魔退治ができないまま終わってしまう。
「そうは言うが、流石にあれほどの娘だとはお前とて想像できなかったであろう。私だけを責めるな。」
生まれ持った美貌で世界中に名を馳せ、恋に慣れた数多の美姫をも微笑みひとつで陥落させるというフェルティオから不快そうな吐息が落されるが、落とされた吐息一つを耳に拾ったラゼルさえはっとさせられる程の色気を感じる。
これは危険だ、側で感じている魔法使いは色香にやられてはいないかと聞き耳を立て続ければ、魔法使いからも同様に溜息が落された。
「まぁ……それはそうですが。思う所はあったものの、二人の為と見過ごした僕にも責はあります。」
フェルティオの色気もなんのその。心を痛めたように心配そうに零された声に、流石ザガートの側にいるだけの男だとラゼルは感心した。
「そうだアルフォンス、お前のせいでもある。肝心な時にゲルハルクは陛下と共に視察で不在であるし―――イシャルは使えるのか?」
「生きてここに辿り着けるかどうかは不安ですが、イシャル殿下ならやって下さると信じるしかないでしょう。」
「まったくザガートの奴め、待てのできない獣はこれだから困るのだ。」
「僕も今は彼女の側を離れられる状況にはありませんからね。」
「そなた―――私に行けというのか?」
「フェルティオ殿下ではあのイシャル殿下を引きずってここまでくるのは無理でしょう。イシャル殿下には申し訳ないですがザガートでよかったのかも知れません。」
「それにしてもまぁこちらも隠して決行したとはいえ、ザガートと結婚した事に全く気付いていなかったとは。婚姻の事実を知って驚きのあまり失神し、そのまま生死の境を彷徨うなどという馬鹿げた現象を引き起こしおってまったく……あの娘もかなり抜けすぎだと思わぬか?」
「それがリアという娘です。だからザガートも彼女に一目惚れしたのでしょうし、リアもザガートに心を寄せるのでしょう。」
リアという名に反応しラゼルの鼓動が打つ。まずいと感じてその場を辞し気持ちを落ち着けようとするが、内なる鼓動は治まるどころかますます速くなる一方だった。
二人の話からしてザガートがリアに心を寄せているのは間違いないようだ。だがリアもそうだというのならこれはいったいどういう事なのだとラゼルは思考を巡らせた。リアはラゼルを騙しザガートを誘惑する妖艶な美女の皮を被った女狐ではなかったのだろうか。あの魔法使いは何と言った? リアがザガートに心を寄せると。それならば先日二人で語り合った言葉はやはり事実だったのか。そこでふとラゼルは今し方の会話を思い出し顔を上げた。
「騙し討ち……イシャル殿下って確か癒しの力に長けていた筈だけど―――」
リアに何があったというのか。
「生死の境だって?」
どうしてリアが生死の境を彷徨っているのかと驚いたラゼルはリアの居場所を探りながら、たった今仕入れたばかりの情報を頭の中で整理する。
騙し討ちというからには、リアはザガートとの婚姻の事実を自分自身で理解出来ていなかったのだ。そうしてここに戻ってきてようやく聞かされたに違いない。ザガートとリアの間には雲泥の差ともいえる身分の隔たりがある。きっとあのリアのことだからザガートとの結婚を夢に見たとしても、現実には身分を理由に受け止めきれないだろう。
けれどザガートの人柄を受けて群がる周囲の心優しい人々が二人の結婚をこっそり決行してしまったのだとしたらどうなるだろう。その事実を知ったリアは嬉しさのあまり卒倒するだけではなく死んでしまうのではないだろうか。きっとラゼルだって自分が女で実はザガートと結婚していましたとでもなったなら―――
「間違いなく嬉しさのあまり心臓が止まるよ……」
想像するだけでも鼻血が出そうだ。
ああそれよりも、やっぱりリアは嘘なんてついていなかったのだ。安堵と疑った申し訳なさにラゼルの目からは熱い涙がこみ上げる。零れそうになる涙をぬぐいリアがいるであろう部屋を探し回っていると、一つの部屋の扉が開き、水差しを持った年老いた侍女らしき女が部屋から出てくるのが確認できた。女の姿が完全に消えてからあたりの様子を窺いつつ扉に耳を当てて部屋の様子を探る。人の気配はなくそっと扉を開いてみると、寝台の上で白い顔をしたリアが横たわっていた。
「リア?」
近づいて呼びかけるが瞼は硬く閉じられたままで意識はない。気配を感じられないほどに憔悴しきり息も脈も弱り切っていた。
「ああリア、どうしてこんなことに―――親友だといっておきながら信じきれなくてごめんね。」
膝を折り敷布に沈むリアの手を取って頬に寄せる。もともと細身だったがさらに線が細くなり命の危うさを感じた。アルフォンスと呼ばれた魔法使いの力でかろうじて生かしている状態なのだろう。
知り合って日は浅いが、ここにきてラゼルはリアを失う恐ろしさに心を震わす。二人でザガートについて語り合った時間は至福の時だった。ファブレシアの誰もがザガートを恐れるばかりで素晴らしさを理解してくれない。一度でいいから剣を交えたいと夢を語れば、ラゼルがザガートを超える日は遠くないから今少し待てと言われ続けて十年あまり。今行けば殺される、ファブレシアの軍事力を弱体化させるつもりかと叱咤されるが、ラゼルはザガートと剣を交えられるなら死んでも悔いはなかった。そんな周囲に晒され続けたラゼルにリアは、ラゼルならザガートと並べると同調してくれたただ一人の人だ。努力を積んでもリアがザガートと魔物狩りに出るなんて永遠に叶えることができないだろう。ラゼルならできると羨望の眼差しを向けられ、ラゼルの心は童心に返ったかにうきたった。こんな幸福を与えてくれたリアが今ラゼルの目の前で命尽きようとしている。
「こんな時に死んでいいはずがないよ、君は身分を超えて恋する人の身も心も手に入れられるんだ。リア、目を覚まして。イシャル皇子が必ず君を黄泉の門から引き戻してくれるはずだから、伸ばされた手は絶対にとるんだよ。」
泣きそうになりながら耳元で囁き握りしめたリアの指先に唇を付けてから寝台に戻す。それと同時にものすごい殺気を感じて振り返れば、ラゼルが立ち上がるよりも早く扉が蹴り破られ、白目を向いて泡を吹き失神したイシャルを小脇に抱えたザガートが剣を抜いて立ち塞がっていた。
「楽には逝かせん―――」
扉を開ける前からザガートは部屋に侵入した賊が何者なのか悟っていた。湖畔の領主館でリアに移っていた僅かなにおい。そのにおいの持ち主が今こうして生死の境を彷徨うリアの傍らに存在している。死にかけている娘を手籠めにするつもりか、果ては攫ってザガートの手に届かぬ場所にでも隠してしまうつもりなのか。いかなる理由があろうと絶対に許さないとザガートは怒りの炎で全身を覆い尽くす。
人生最大の怒りを露わにしたザガートの怒気に、泡を吹いて失神していたイシャルが目を覚ます。あまりの恐ろしさにザガートを見ることもできないイシャルだったが、その目には寝台に眠るリアだけが光り輝く楽園のように映り、ザガートから解放されると同時にリアに向かって一目散に走り寝台に潜り込んでリアに抱き付いた。
「天使天使、僕の天使様っ!!」
うわごとの様に呟くイシャルの呪文をどこかで耳にしながらも、ラゼルは目の前で怒りに震えるザガートに釘付けだ。向けられる怒りの炎に恐れを抱くどころか歓喜に震え、立ち上がるのも忘れてザガートを見上げる。振り下ろされた鋭い刃が寸分の狂いもなく正確にラゼルの首を捉えた。
突然の怒気に阻まれたフェルティオとアルフォンスが駆けつけた時、リアが眠る部屋では見知らぬ男がザガートの剣を真正面から受けとめていた。
ラゼルが咄嗟に剣を抜けたのは、ザガートに憧れた日より一日たりとも欠かさず続けた鍛錬の賜物。ザガートの本気の剣を寸での所で受け止めたラゼルは歓喜に震える。
「貴様―――ただの間男ではないな?」
「間男だなんてっ、僕は彼女の親友です!」
真正面から剣を受け止めた相手の実力にザガートは怒りの中に冷静さを取り戻し、相手の実力を正確に読み取る。ラゼルは敬愛するザガートの恋路を邪魔するような真似なんて絶対にしないと大きく首を振り声を上げたが、それと同時にザガートの本気を受け止めたラゼルの剣はまるで朽ちるようにぼろりと粉々に崩れた。
「親友とは―――娘にそんな者がいたか?」
「初耳ですけど……あれってファブレシアの第四王子じゃありません?」
「アルフォンス、ザガートを止めてこい。」
「何をおっしゃいます、僕はイシャル殿下を正気に戻して仕事をさせないと。あれはフェルティオ殿下にお譲りしますよ。」
「全く―――どうしてあの娘は妙なものにばかり好かれるのであろうな。少々哀れに思うぞ。」
と言いつつも、フェルティオは何故かとっても楽しそうに顔をほころばせ、アルフォンスは嫌そうに顔を歪めた。これはフェルティオが新たな玩具を手に入れた時の表情だ。妙なものの一つに自分が入っているとは思わないのかと心の内で呟きつつ、アルフォンスはリアに縋り付きぶつぶつと訳の分からない呪文を唱え続けているイシャルを正気に戻すべく、ザガートの間合いを避けるように壁に背を預けて寝台に近づいて行った。




