表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/13

はじまり1

猛獣と女の子、最初の短編を『はじまり』とし、2話に分けました。



 ロウディーン帝国の都近くにあるアトラスの森には数多くの魔物が存在する。

 単に魔物と言っても多くの種類があって、人に懐く温厚な種から、人肉を食らう獰猛な種類まで様々だ。

 アトラスの森には特に獰猛な種類に分類される魔物が住み付き、人が森に入るのを待ち伏せしていた。


 この危険な森に一人の少女が迷い込んだ。 

 腰まで流れる長い漆黒の髪と、黒曜石のように黒い瞳の可愛らしい少女。

 白く柔らかな肌は驚くほど透き通っていて、思わず触れてみたくなる程にさわり心地が良さそうだ。

 粗末な薄い緑のワンピースに身を包み、僅かな荷物が入ったカバンを肩に下げ、少女はどんどん森の奥へと足を踏み入れて行く。

 若い娘が一人でアトラスの森に入るなど無謀極まりないことであったが、娘――リアとて自ら好んで森に入った訳ではない。


 リアの両親は、リアが物心付く前に魔物の餌食となり命を失った。そのためリアは都の外れにある孤児院に引き取られ、多くの孤児仲間と共に元気いっぱいに育った。

 そのリアも今年で十七歳になり、決まりによって孤児院を出て一人で生活して行かなければならなくなったのだ。

 リアは紹介された就職先に向かうため慣れ親しんだ孤児院を出て、下働きとして雇い入れてもらう屋敷を目指したのだが……気付いたら森にいたのだ。


 雇ってもらう屋敷は都の中心部に位置しており、孤児院から歩いて三時間程で到着する予定だったが、現在リアが歩いているのは魔物の巣くうアトラスの森で、迷ったことに気付いて道を探すも、森の奥深くへどんどん進んで行ってしまう。


「まいったなぁ……また道に迷っちゃったみたい」


 方向音痴のリアは迷うのを想定して日の出前に出立したというのに、歩きに歩いた結果、辺りは既に夕闇に包まれている。

 リアにもここがアトラスの森の何処かだということまでは理解できたが、森から出る方法が思い付かない。とにかく歩いても歩いても鬱蒼と生い茂る森なのだ。


 都の外にある危険な森にどうやって分け入ってしまったのかは思い出せないが、リアは極度の方向音痴。一日中険しい森を歩いて疲れていたが、魔物の巣くう森で足を止めてしまうのは死を意味していた。


「方向音痴が命に関わるなんて思いもしなかったわ」


 刻一刻と闇に包まれて行く森の風景に不安になり、魔物に出くわす恐怖に足がもたつく。

 顔も覚えていない両親が命を落としたのもこの森だ。

 親子そろって同じ運命には遭いたくないと、疲労困憊で震える体を自身で抱きしめた。

 その時、生い茂る目の前の草木がガサガサと音を立て、そこから真っ黒で大きな巨体が姿を現す。


「ひっ!」


 ついに自分も襲われる時が来たと、身が竦むと同時に、長い草に足を取られ尻餅を付く。

 臀部を強打して見上げた黒い物体に、リアは思わず目を見開いて凝視してしまった。


 尻餅を付いたリアの目の前に現れたのは魔物ではなく、とても大きな男だった。

 髪は短めの金色だが、返り血を浴びて真っ赤に染まっている。その血は決して美しいとは例えられない恐ろしい形相をした顔にも飛沫し、全身を包む黒の衣服にも飛び散っていた。

 太く大きな腕には体に見合った大ぶりの剣。

 男が握る剣からは、たった今何かを切り捨てたことを語るかに真っ赤な血が滴り落ちている。


 突然目の前に現れた血だらけの大男。

 しかも真っ青な瞳は眼光鋭く、人を視線だけで射殺しそうな鋭さを持っている。くわえて子供なら必ず泣くと予想される厳つい容姿の、血だらけの大男。

 普通の娘なら悲鳴を上げて逃げ出すか、意識を失うかのどちらかだろう。


 だがリアは、血だらけの男を見上げると、心からほっとして胸を撫で下ろした。

 竦んでいたからだから力が抜け、安堵から満面の笑みがこぼれる。


「よかった……」


 こんな森で迷ったうえ、夜が近づいて来ている。このままここで死ぬかもしれないと不安でたまらなかったのだ。

 そんな時に現れたのが血だらけだろうと強面だろうと怪しかろうと、とにかくここに人がいてくれてよかったと心から安堵し、ほっと息をついた。




*****


 自分を見上げ安堵の表情を浮かべる娘に男は一目で恋に落ちた。


 恋などという可愛らしい言葉が全く似合わない、この厳つい面差しの血だらけの男は、ロウディーン帝国の黒騎士団団長を務めている。


 黒騎士団と言えば、騎士の中でも身分を問わず精鋭だけを集めた二十人足らずの集団で、黒騎士団に所属する者はたとえ平民の出であっても貴族の位が授けられる。

 黒い制服を着て馬に跨り街を闊歩すれば羨望の眼差しを送られ、言い寄って来る女も常に二桁だ。


 そんな中にあって現在の黒騎士団団長は異質な存在だった。


 まず、名をザガートという。

 生まれはロウディーン帝国の王宮。

 彼は今年二十一歳になるロウディーン帝国の第二皇子であった。


 帝国の第二皇子という恵まれた位にありながら、黒騎士団の団長を務める実力を有したザガートであったが、彼は女性が苦手な上に、常に人を威嚇するような恐ろしい形相をしているせいで、人気抜群の黒騎士であっても女子供はおろか男ですら近寄らない。

 強靭な肉体を持ち体は極めて大きいため、騎士というよりも獰猛な地獄の戦士といった印象しかないのだ。

 ザガートが見つめれば子供は石のように固まり、遊ぶ女は震えながら身を任せ、最後には失神してしまう。

 

 そんなザガートの唯一の趣味は肉体を鍛えることで、今日も幼馴染の魔法使いを連れてアトラスの森で魔物狩りを楽しんでいた。

 最後の魔物を切り捨て、そろそろ切り上げて屋敷に戻ろうとした時、人の気配を感じたザガートは生い茂る背の高い草をかき分け、気配のした方へと足を進めた。

 生い茂る草をかき分けた先にいたのは、ザガートのような男を最も恐れるであろう、うら若い乙女。


 小さな悲鳴を上げ尻餅をついた娘が失神して厄介なことになる前にと、共に行動していた魔法使いの幼馴染を振り返り相手をまかせようとした時。

 娘は満面の笑みを浮かべ、『よかった』と安堵の声を漏らした。


 そこに媚やへつらいはない。

 娘は澄んだ美しい瞳でザガートを見上げている。

 その瞬間、ザガートは生まれて初めて女性に対して心惹かれるという感情に目覚めた。


 駄目だと分かっていても思わず手を差し出してしまう。

 ザガートが触れると女達は何時も怯えて体を委縮させて、最後には失神していた。

 だが今目の前にいる娘は、ザガートの差し出す魔物の血に濡れた汚らしい巨大な手を素直に握り返してくれる。

 なんて小さくて柔らかな、温かい手なのだろう。


「ありがとうございます」


 と、笑顔のまま礼を述べられてしまう。

 初めて受け取る心からの感謝の言葉に、ザガートの心に淡い想いが湧き上がった。




*****


「ザガート、誰かいたの?」


 後を追って来た魔法使いのアルフォンスに巨体を押され、ザガートは握り締めていた小さな白い手を解放した。

 ザガートの後ろから頭一つ分だけ背の低い、黒髪で紫の瞳をした整った顔立ちの青年が姿を現す。リアは続いて現れたアルフォンスにもザガート同様に笑顔で挨拶を送った。

 挨拶を受けたアルフォンスは驚きの声を漏らす。


「えぇっ、どうしてこんな所に女の子が!?」


 アルフォンスは目の前の光景に驚いて、美しい紫の目を見開いていた。

 何故こんな若い娘が一人でアトラスの森深くにいるのだろうと、同行者がいないか不思議そうに辺りを見渡す。アルフォンスの疑問は当然だが、いくら見渡してもここにいるのは三人だけだ。


「娘、ここで何をしている」


 相変わらず人を威圧する、冷たく厳しい口調で言葉を発してしまったザガートは直ぐに後悔するが、恐ろしいと語り尽くされるザガートに、リアは恐怖ではなく安堵の表情を向けていた。


「道に迷ってしまいました。申し訳ありませんが、お二人に同行させて頂いてもよろしいでしょうか?」


 縋る様な眼差しで二人を見上げる若い娘に、アルフォンスは安心させるように頷いた。


「僕達も帰る所だから構わないよ。それで君は何処に行くの?」

「ゲルハルク様のお屋敷に向かっていたのですが――」

「ゲルハルク……だと?」


 リアの言葉に真っ先に反応し、地を這う低い声を出したのはザガートだった。隣に立つアルフォンスは地響きがしたような気がするが、いつものことなので気にしない。

 ザガートは鋭い視線で隣に立つ幼馴染の魔法使いを見下ろし、一瞥した後で再びリアに視線を戻す。


「ゲルハルクに何の用だ?」


 ザガートは尋問するような厳しい口調で威嚇しているが、若い娘に気を使っていつもよりも優しく言葉を紡いでいる微妙な違いにアルフォンスは瞬時に気が付く。

 だが言葉を投げかけられた娘の表情は少しずつ陰りを帯びて行った。


「今日から下働きでお世話になる者ですが……道に迷って大遅刻です。もしかしたらもう雇ってもらえないかもしれません」


 終わりの方は自分に対して落胆の呟きだ。

 本来なら午前中には屋敷を訪れ下働きに入る予定だった。それが有り得ない方向音痴のせいで森に迷い込み大遅刻。初日からこれでは雇ってもらえない可能性も視野に入れなければならない。

 自分に嫌気がさし小さく溜息を落とす娘を励ますために、紫の目の魔法使いが優しく言葉を添える。


「それなら大丈夫。ゲルハルクは――」


 ――僕の家だから。


 そう言おうとしたアルフォンスを差し置いて、ザガートが冷たい一言を言い放つ。


「時間を守れない人間などゲルハルクの屋敷には必要ない」


 ザガートの言葉にリアだけでなくアルフォンスも真っ青になる。

 ゲルハルクはアルフォンスの家名で、ゲルハルクの当主であるアルフォンスの父オーレンは、こんな可愛らしい娘を前に決してそんな無体はしない。そもそもロウディーンの魔法師団長たるオーレンが下働きの娘を気にかける暇はないが、アルフォンスが口添えすれば娘の遅刻程度、穏便に済ましてやれる問題だ。

 それをザガートは横から口出しをしたうえ、何時もなら何の興味も示さないか弱い乙女に向かって何て非道なことを口走るのだろうか。


「ゲルハルク家は冷たい家じゃないよ!」


 アルフォンスは瞬時に抗議する。が、ザガートに鳩尾を軽く殴られ体をくの字に曲げる。

 黙らせるためとはいえ魔法使いで肉体的戦闘能力に欠けるアルフォンスは、鍛え上げられた強靭な肉体を持つザガートに軽く殴られただけで腹を抱えてその場に蹲った。


「大丈夫ですか!?」


 驚いたリアは蹲るアルフォンスに駆け寄り手を伸ばすが、その手がアルフォンスに触れる前に、アルフォンスの体はザガートに首根っこを掴まれ引き起こされた。


「問題ない」

「何で君が答えるんだよ」


 殴られたのは自分なのにと、アルフォンスは鳩尾をさすりながら涙の滲む目で恨みがましくザガートを睨みつける。

 その様子をおろおろと見守る娘に、ザガートは誰にも見せたことのない、ほんの少しの微笑みを向けたが、リアはその表情の変化に気付くことはなかった。


「兎に角ゲルハルクの屋敷は駄目だ。仕方がないので俺が雇い入れてやる」

「はぁ!?」


 何がどう仕方がないんだ!?

 驚きの言葉を発したザガートにアルフォンスが疑問をぶつける前に、「本当ですか!」と、リアが両手を合わせ祈るような姿で歓喜の声を上げた。

 その眼差しはきらきらと輝き、まるでザガートを神のように崇めているかにも見える。


「ではゲルハルク様のお屋敷に失礼を詫びた後で雇って頂けないときには――」

「ゲルハルクの屋敷に出向く必要はない。この魔法使いが始末は付けるからお前は俺に付いてくればいい」

「えっ、でも――」 


  大遅刻は事実だが、まだ雇ってもらえないと決まった訳ではない。世話になった孤児院経由での就職先が変わるにしても、まずはゲルハルク家に詫びを入れ、孤児院にもどって説明をして等々、成人したばかりとはいえ、大人になったリアが自分かするべきことだ。

 

 娘の不安気な視線がアルフォンスに向くと、ザガートの射殺さんばかりの視線がアルフォンスに狙いを定めた。視線が強すぎて肌が焦げそうだ。

 ザガートの視線に捉えられ全てを理解したアルフォンスは、こっそりと小さな溜息を落とす。


「彼の言うようにゲルハルクの方は心配ないよ。僕はゲルハルクの屋敷に住まう者で、後の始末は喜んで付けさせてもらいます。そこで君が彼の下に行くならいくつか質問させてもらうけどいいかな?」


 アルフォンスが問えば娘はこくりと頷いたあとに、「よろしくお願いします」と愛らしい微笑みを浮かべた。

 その笑顔を見ていたアルフォンスは、ザガートを前にして気丈に振る舞える――否、普通に笑顔で振る舞える人間を初めて目の当たりにしたことに気付く。

 と同時に、ザガートが強引にこの娘を手に入れようとしている現実を目の当たりにして、こんな猛獣のような男に目を付けられるとは、あまりにも娘が可哀想だと哀れに思った。



 *****


 アルフォンスの心配を余所に、リアはザガートを神様のような人だと感じていた。


 危険なアトラスの森に迷い込んだところを助けてもらった上に、素性も知れないリアを雇い入れてくれるという。

 素性についてはアルフォンスに事細かに質問され、彼がリアの育った孤児院まで確認に赴いた後、リアはめでたくザガートの屋敷で働くことを許可された。


 この時になって初めて自分を助けてくれた大男がロウディーン帝国の第二皇子ザガートだと知り、アルフォンスが魔法師団長の長子でその後継者であることを教えられた。


 本来ならリアが一生かかっても口を聞いてもらえることすらない、雲の上の存在であるザガートが、時に塵のように扱われる孤児であった自分を気にかけてくれるなんて。

 何て親切で情の厚い人なのだろう――と、アルフォンスが聞いたら涙を流して全力で否定しそうなことをリアは本気で心の底から思っていた。


 ザガートは黒騎士団に所属した頃から、城ではなく自身の屋敷で生活を送るようになっていた。

 広大な敷地に建てられた大きな屋敷に度肝を抜かれた後、リアはザガートと別れ、侍女頭でライラと名乗る高齢の女性から渡された質の良い侍女服に着替える。


「あなたは頃合いを見てザガート様の専属になる予定です。それまではわたしに付いて仕事を覚えて頂戴ね」


 ライラはザガートの幼少期に教育係として勤めた女性で、ザガートが黒騎士団に所属する時に城を出た折、共にこの屋敷に移って来た。

 常に人を射殺さんばかりの覇気と威厳を消さないザガートを恐れない、数少ない人間の一人でもある。


「ザガート様自らが人を雇い入れてくれるなんてとても有り難いことだわ。実の所、人を入れてもあの方を恐れて長続きしなくて困っていたの」


 目が合っただけで殺されるとか、怪しい魔法を放つとか、傍若無人で女子供すら容赦なく首を切り落とすだとか……見た目のせいでかなり悲惨な噂話もあった。そのせいでこの屋敷は慢性的な人手不足に悩まされているのである。


「そんな噂があるなんて知りませんでした。確かに笑顔がなくて目が怖いかもしれませんけど、ザガート様は素敵でとっても心優しいお方です。アトラスの森で途方に暮れている時に出会えて救いの神様だと思いました」


 拳を握りしめ必死に訴えるリアにライラは優しい面差しを向ける。

 長年ザガートに仕えてきたライラは、ザガートが人にどのように接するかを十分に理解していたつもりだった。

 ザガートは自分の見た目を知っているので人を避けている。自ら人に関わることのないザガートだが、心の優しい人だとライラは知っていた。

 それでも実際の行動は恐ろしい面が多々あるせいで、ザガートが突然リアを屋敷に連れ帰って来た事実にとても困惑したのである。

 実のところ始めは誘拐して来たのかと思った。けれど連れて来られた娘はザガートを恐れるでもなく心優しいと言ってくれるのだ。これは嘘ではない。娘は震えてもいないし怯えてもいない。心からの言葉だ。

 二人の間で何があったのか分からないし、ザガートの心の内も見えないが、たった一人でもザガートを恐れずに接してくれる若い娘がいてくれたことにライラは心から感謝する。


 この日からリアは屋敷に住み込み、ライラに仕事を教わりながらザガートに仕えることになった。



 *****


 一国の皇子でありながら、黒騎士団の団長としての顔を持つザガートが屋敷に戻るのは深夜に及び、帰宅しない日すら多かった。

 ザガートとしては一刻も早くリアのいる屋敷に帰りたい思いが強かったが、自分が女子供からどのような評価を受けているかを知っており、リアに恐れられ、恐怖に満ちた視線を送られるのが怖くて、帰りたくても帰れない現象が起きている。

 リアが屋敷に来てよりザガートは、今まで以上に仕事と鍛錬に打ち込むようになっていた。


 人々が寝静まった深夜、ザガートは気配を消し音もなく屋敷に戻る。今日は事前に帰らないと知らせておいたので出迎えはない。

 ザガートは帰宅したその足で使用人に与えられた部屋のある一角を訪れた。リアの部屋が何処かは知らないが、新入りの娘が使う場所は見当がつく。ザガートはリアの部屋の前に立つと扉に手を付き、そっと中の気配を伺った。


 ――深い眠りに落ちているだろうか?


 息を殺して気配を探るが、部屋の中にはリアの気配がまったくなかった。

 部屋が違うのかと扉を開けてみるともぬけの殻だったが、確かにリアのものと思われる私物が置かれている。


 あの娘、こんな時分にいったい何処へ行ったのだ?


 極度の方向音痴で一人にすると屋敷の中ですら迷子になっていると報告を受けていた。

 こんな夜更けに何処に行ってしまったのかと、ザガートは心配になって辺りを捜すが、リアの姿は何処にもなかった。

 行きそうな場所に何度も足を運ぶが人の気配はなく、ザガートはまさかとの思いで自室のある二階に上がってみる。

 するとザガートの自室の扉前で丸くなり、規則正しく寝息を立てるリアに遭遇した。


 何故こんな場所で寝ているのだろうか。

 疑問が浮かぶが、安心してそっと触れると、小さな体がピクリと反応して漆黒の瞳が見開かれる。


「あ……旦那さま。お帰りなさいませ」


 眠そうな目を擦りながらリアが体を起こした。


「ここで何をしている?」 

「ザガート様がご帰宅した時に熱いお茶をお入れしたくてお待ちしておりました」

「今日は帰らぬと申した筈だが?」

「はい。ですが今夜のように突然のお戻りもあるかもしれないと思って」


 まさかこの娘は主が帰宅しないと分かっていても、何時もこのようにして夜を明かしていた訳ではないだろうな――と、ザガートの眉間に皺が寄った。


「すぐにお茶の用意をさせていただきますね。あ、それともお食事の方が?」

「いや、腹は空いておらん」

「かしこまりました」


 頭を下げて小走りに階下に降りて行くリアを見送りながら、ザガートは明日からはどんなに遅くなっても必ず屋敷に戻って来ると硬く誓った。


 献身的に主に仕えようとするリアの心根は嬉しいが、それ以上の感情が向けられることはない思うと、ザガートは生まれて初めて胸が締め付けられ、切ない思いに駆られた。


 ザガートは女が自分に向ける評価を心得ているし、彼自身が人に対して優しく振る舞えたためしなどないとわかっている。リアとて奇跡的に笑顔を向けてくれているが、ザガートの行い一つでその笑顔がいつ凍りつくとも限らないのだ。その日を思うとザガートの胸は更に締め付けられた。


 だが当のリアはザガートや周囲の心配を余所に、これでもかという程にザガートを敬愛していた。

 何がどうなればそんな感情が生まれるのかと誰もが問うだろうが、リアにとってザガートは命の恩人なのだ。あの場にアルフォンスもいたのだが、側に仕えるという理由一つで主であるザガートに献身的に尽くしたくなってしまう。


 それともう一つ、誰もが恐れるザガートの形相なのだが、リアは無類の下手物げてもの好きで、アトラスの森で出会った美しい紫の瞳を持つアルフォンスよりも、ザガートのような容姿の方に好意的な感情を抱いた。更に危険な森から救い出してくれた事実もある。

 見た目で判断するわけではないが、リアにとってザガートは物語に出て来る白馬の王子を現実にしたようなものであった。

 身分差を心得ているので決して口にはしないが、ザガート同様リアも少なからずザガートに淡い想いを抱いていたのである。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ