煉獄
床に転がったジゼルが苦痛に喘ぎながら、信じられないと言った表情で見上げていた。
人が裏切られた時に見せるその顔を見るのが、異常性格者であるヴァルカンにとっては何にも変えられない愉悦だった。
「何時の間に……乗っ取ったの?それとも、まさか……最初から」
「さあて、どうかなぁ?」
愉快でならないといった感じでエマ・ヴァルカンはへらへらと笑い続けている。
「これが俺の本体かもしれないし、乗っ取ったのかも知れねえ。
エマちゃんはそもそも人形として創られてた存在で最初から人間としての人格は存在してなかったかも知れねえな。だけど、実はお前と仲良しこよしになったが為、このヴァルカンに目を付けられて、身体を奪われちまったって可能性もあるぜぇ?
そう。いろんな可能性があるよなぁ。
脳みそに埋め込んだチップで、一時的に人格を乗っ取っているだけかも知れねえ。
これなら助けられる未来も微レ存でありますが、あるいは、ヴァルカンさんは哀れなエマちゃん本来の脳みそをソテーにして食っちまったかも。さあて、どっちかな?試してみるか?」
エマ・ヴァルカンが指をおのれの米神に当ててぐりぐりと穿ってみせると、皮膚を削って血が吹き出してくる。
「痛いよ。お姉ちゃん。助けて、おねえちゃーん。わたしが消えちゃうよー。おねえちゃーん……ぎゃっはあはははは!」
愕然としていたジゼルの表情が動いた。憤怒と絶望、悲痛と憎悪の入り混じった物凄まじい形相へと変貌しつつも、だが、彼女は動けない。
ヴァルカンは天性の嘘つきで、人として真っ当なジゼルには気の狂った賞金首の空言に真贋つきようはずがなかった。迂闊に動けばエマがどうなるかも分からない。
「おおっと、実は入れ替わったわけじゃない。最初から、最初からだよ!
だから、その銃で俺の脳みそをぶち抜いてみそ?ジゼルちゃん?」
「……お前……お前は」
ジゼルはただ喘ぐように、それだけしか言えない。
「んー。さっき言ったことは、実はどれでもない」
ヴァルカンは突然、天井を向いて語り出した。
「お前に語ったことは全部、本当だぜ。俺の本名はエマだ」
覗き込みながら、満面の無邪気な笑みを浮かべてジゼルを覗きこんだ。
「孤児なのも、バンデットに親を殺されて妹たちと生きてきた事も、保護者面して乗り込んできた親戚にばらばらに売り飛ばされて娼館も転々とした事も、探していた妹のリースを売春宿で見つけたときには骨と皮だけになっていて、後一日早ければ間に合ったのに虫けらみたいにくたばっていたのも、全部、本当だ。
ヴァルカンってのは、名前の一つだってことは言い忘れてたがな」
銃を引き抜くと肩をとんとんと叩きながら、エマは狂気の笑顔を貼り付けている。
「もう一人の妹ジーナについては話してなかったな。この際だ。聞かせてやるぜ。
金持ちの糞野郎に家畜にされて生きながら焼かれて食われちまった。乗り込んだ俺は四肢を砕かれて、そいつの糞を口に流し込まれた。
妹と一つになれて嬉しいだろうとか、ほざきやがった。あーはっはっはっはっは」
エマ。或いはヴァルカンは可憐な容貌を醜悪な笑みに染めると、まるでジゼルの絶望を味わうかのように舌を伸ばして彼女の頬を舐めた。
「妹のことで何度も慰めてくれたな。お前のホットケーキ、美味かったぜぇ。また造ってくれよ。ジゼルゥ。愛してるんだぜ。本当によぉ」
ジゼルが絶叫した。同時にヴァルカンの背後の窓から白い影が飛び込んできた。
鋼鉄製の爪を煌めかせながら襲ってきた猫を、エマ・ヴァルカンは華麗な少女の体に似合わぬ身のこなしと速度のステップで華麗に躱してみせた。
「サイボーグキャットか!さすがに人形の遣い方も多少は上手くなった」
ジゼルの人形遣いとしての腕を賞賛しながら、ヴァルカンは、しかし、その手の内を知り抜いていた。
ジゼルが猫を脳波でコントロールしているとヴァルカンは瞬時に悟った。
(リンクさせているな。だが、甘い)
精神リンクによる人形のコントロールは、人形をダイレクトかつスムーズに操作できるが、一方、弱点も存在している。
当然、熟練の人形遣いとして対処の方法も知り抜いているヴァルカンは、人形に構わずジゼルへ素早く銃弾を叩き込んだ。
本体に強い苦痛を受けながら、同時に人形を高度にコントロールするのは至難の技だ。
小口径とは言え、強烈な衝撃を受けたジゼルの体が揺らぎ、集中力が乱れると同時に猫の動きが鈍った。
エマ・ヴァルカンは踊り子のような華麗な動きで体軸を独楽のように回転させ、鞭のように伸びた足が襲ってきた猫を激しく蹴り飛ばした。
自身の本能によって辛うじて仰け反ったものの、強烈な蹴りの直撃を受けた猫は向かいの建物の壁まで空を吹っ飛んだ。
叩きつけられると同時に壁が砕けてあたり一面に大きな音を響かせるが、住民は誰も姿を現わさない。
猫はよろよろと起き上がって、か細く鳴いている。
(猫にも理解できる簡単な命令を与えて、後はジゼルが細かい動きをサポートしているだけだな。猫自身に在る程度の知能を与えて動かしているだけに闘志が萎えるとお終いか)
「うふっ、ふぅん」
エマ・ヴァルカンが機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら動いた。不意打ちの電気ショックで倒れたままのクーンを持ち上げると、見ず知らずのジゼルに対して人質にする。
「さあ、動くな。小猫ちゃん。この餓鬼の首の骨をへし折るぞ?」
ジゼルによって制止命令が出されたのだろう。猫の動きが止まった。
エマ・ヴァルカンは愉快そうにけたけたと笑いながら、ジゼルを見下ろしている。
「見ず知らずの娘の為に武器を捨てる。そういうところ、お前の親父とそっくりだな。
あの保安官……なんて名前だったか?正義感の強い男だった。
俺の父親もそうだったぜ。俺たちだけは守ろうと必死に立ち向かって、あっさりくたばっちまった」
悲しげに呟いてから、エマ・ヴァルカンは演劇の役者のように大仰な身振りをしながら夜空を仰いだ。
「こいつの親父も俺が殺してやった。目の前で焼き尽くしてやった。いずれ俺に感謝する日が来る。お前らが強く生きられるようになったのは俺のお陰だってな」
「……殺してやる。ヴァルカン」
ジゼルの搾り出した呪詛に笑顔を向けたヴァルカンが、再び銃をぶっ放した。
膝を打ちぬかれたジゼルが、悲鳴を上げて蹲った。
「さあて、終わりだ。今回も中々に楽しいゲームだった」
御伽噺の竜のように口から小さい炎をちろちろと吐きながら、エマ・ヴァルカンは楽しげにジゼルへと歩み寄った。
椅子の背もたれに腕を乗せたアーネイは、館に乗り込んできた挙句、レッドコートにふるぼっこにされた不審者を呆れ顔で眺めていた。
バイオソルジャーに取り押さえられたハンターの若者は、
「ヴァルカンは俺の獲物だった。一言、文句を言ってやろうと思った。今は反省している」
などと意味不明の供述を繰り返している。
取り調べに使っていた部屋の扉が軽くノックされた。
「保安官が若僧を引き取りに来ました」
入ってきたのはレッドコートの上等兵ジール。背後には、初老の保安官の姿も見えた。
「馬鹿な事をしたが、勘弁してやってくれ。悪い奴ではないんだ」
保安官が頭を抑えながら、溜息を洩らした。
「ヴァルカン……残党だと思われて殺されても不思議ではなかったんだぞ」
殴られて顔面を張らした若僧が、レッドコートの嫌味に無念の呻き声を洩らしつつ連れ出される。
「……紛らわしい奴だ」
保安官や仲間に支えられて立ち去っていく闖入者の背中を見送ってから、アーネイは首を振った。
「で、お嬢さまは?」
「それが姿が見えません」
当惑した様子でジールが応えた。
「レヴィの姿も見えない。無線にも応えない……もしやッ!」
呟いたジールが慌てた表情を浮かべてアーネイを見つめた。アーネイも表情を緊張させる。
「レヴィの奴!ご主人と二人きりでHなことをッ!」
「馬鹿が……お前らの頭にあるのはそれだけか」
突然、ヴァルカンの足が吹っ飛んだ。
「あれ?」
全く前兆を感じなかった攻撃を受けて、ヴァルカンがすっ転んだ。視界が揺れる。
急速に迫ってくる地面に手をつこうと、慌てて伸ばした腕が横から飛び込んできた何者かに掴まれた。
関節に逆ねじを食らわされたまま、ヴァルカンは地面に叩きつけられる。
衝撃に呻きながら見上げてみれば、赤い軍服を着込んだ女兵士に取り押さえられている。
ヴァルカンの目前。誰もいなかったはずの空間が朧に揺れると、次の瞬間には人影が佇んでいた。
「……アーネイめ、こんな楽しい事を私に黙っているなんてけしからん奴だ」
玲瓏たる銀髪の美女が頬に指を当てながら、ヴァルカンに視線も向けずに呟いていた。
「もっとも、わたしを出し抜こうなど百年早いのだ。
何年の付き合いだと思ってるのだろう。何かを隠しているのはすぐに分かった」
ふふんと得意げな顔をしてギーネ・アルテミスが薄い胸を張った。
「……ギーネさん?」
失神寸前のクーンが顔を上げての、か細い囁きに応えてギーネは微笑んだ。
「そこな美女に美少女。無事かな?」
「僕は……美少女なんかじゃない」
「あ、残念……いや、違う。美少年ならいいのか。
最近、毒されている。わたしはノーマル。ノーマルなのだ」
ぶつぶつと自分に小声で言い聞かせてから、ギーネはヴァルカンへと鋭い視線を向けた。
アーネイにとってギーネが守るべき主人であるように、ギーネにとってもアーネイは掛替えのない大切な存在である。
ヴァルカンのような油断のならない人物相手に戦わせたくはない。
アーネイが負けるとは思わないが、万が一という事もある。
ギーネの興味が逸れたクーンは、動かない手足を無理矢理に動かしながら煙を昇らせている鷹のグレイの元へと張って近づいていった。
しかし、黒焦げになった鷹のグレイは、誰がどう見ても完全に息絶えていた。
「……師匠……師匠ぉ、碌な人じゃなかったけどこんな最後、あんまりだ」
「その子は千度程度の熱なら余裕で耐える。確かめてみるかね?」
恐ろしい力で取り押さえられて、ヴァルカンは全く身動きが取れなくなっていた。
無理な体勢で首だけ逸らし、銀髪の女を見上げて睨み付ける。
「……お前、なにものだ」
「はじめまして、と言うべきかな。ヴァルカン。ギーネ・アルテミスです」
塵でも見るかのような冷たい目付きで見下ろしているギーネが、すっと手をかざした。
「……そしてさよなら」
ギーネ・アルテミスが指をぱちりと鳴らした。瞬間に、何をされたかも分からぬまま、取り押さえられていたヴァルカンの身体が爆ぜて砕けた。
体内で爆弾が爆発したかのように、ヴァルカンが粉々に消し飛んだ。
血の詰まった革袋が破裂すると同時に、無数の臓腑と骨片が周囲に撒き散らされたが、ギーネ・アルテミスには見えない壁に守られているかのように血の一滴も掛からなかった。
「ヴァルカン……死んだ?」
呆然と洩らしたジゼルの呟きを、しかし、ギーネは首を振って否定した。
「否」
ギーネの軽く蹴飛ばしたエマ・ヴァルカンの首が、ジゼルの元へと転がってきた。
「ふん……これも影武者と。
最初から獲物の前に姿を見せる気はなかったのだな」
ギーネが冷たく呟いていると、苦痛と苦悶の入り混じった表情を浮かべていたエマ・ヴァルカンの首が、ジゼルに向かってウィンクした。
「で、何時までリンクしている?ヴァルカン?
その反応からすると痛覚も遮断しておるまい。生首は痛く苦しいだろう」
淡々とした口調のギーネの問いかけに、生首がニヤニヤしながら喋った。
「なあに、苦痛も心地いい。
それに今、私の人格が切れたら、この娘が苦痛を味わう事になるんでな」
生首のヴァルカンは、どうにか転がってギーネに微笑みかけた。
「それにしても……いま、一体、なにをした?
なにをされたか、皆目検討も付かない」
「自分の手の内を晒す奴がいるのかな?」
現在のティアマットの科学技術の水準からみれば、事前に準備を整えているギーネ・アルテミスは限りなく無敵に近かった。
冷たく響いた拒絶の声に、しかし、ヴァルカンはある程度の答えが自分の中で出ていたのだろう。
「どうやったかは知らんが、分子を震動させた……概念だけは知っていたが、初めて見たよ。
恐ろしい奴だな、ギーネ・アルテミス」
一発で見透かされたギーネが、驚愕のあまり動作を停止しました。再起動してください。
微かに口元を歪めていたギーネは、他者からはヴァルカンを面白がるように観察しているように見えたかもしれない。
「お前も中々の人形遣いだよ。自分の他に二体も日常で操り続ける者など滅多にいない」
「お前には、負ける。あれほど高度な自我を持つ人形を数多使役しながら、お前にとっての真の切り札は自分自身だったのだからな……怪物。化け物め」
楽しげに笑うヴァルカン。
え?お前からみてわたしはそんな扱いなのか?
心外さに曇りつつ、軽く瞳を細めたギーネの目の前で生首ヴァルカンは溜息を洩らした。
「……これほどの苦痛を味わったのは、妹を助けにいった時以来か。
可憐な女の子の体だ。もう少し手加減するかと思ったが……」
「もう少し年嵩のたおやかな美女の方が好みなのでな」
ギーネの言葉に、ヴァルカンがにやりと笑みを浮かべた。
「では……今度、参上する時は、お前の気にいるような美女の身体に入っておこう」
「ほう。気に入ったなら、ペットの端くれにでも加えてやるぞ」
愉快そうにくっくと笑っているギーネ・アルテミスと、邪な笑みを浮かべているヴァルカンの会話を、まるで恐ろしいものに触れたかのようにジゼルは身を震わせて聞いていた。
「……それは光栄……こちらとしては、お前のように恐ろしいやつと争うのは遠慮しておきたいが……そうもいかないのだろうな……人気者の辛いところだ」
「賞金首め。いずれお前の脳髄と対面する日が楽しみだな」
「会いたくはないが、また、会うのだろうな。ギーネ……アルテミス」
それからヴァルカンが片目だけをぎょろっと動かして、ジゼルを見つめた。
「……ジゼル。この身体の持ち主は、何の罪もない、ただの娘だ。
コントロールしていない時のお前に対する態度も素のままだ。できたら丁重に弔ってやれ」
厭らしく哄笑を浮かべたエマ・ヴァルカンは、最後に最悪な事実を告げてそれきり動かなくなった。
「なにを……何を言ってる。ヴァルカン」
エマとの思い出とヴァルカンへの憎悪。相反し、沸き立つ感情の奔流に心乱されたジゼルは、途方に暮れてエマ・ヴァルカンを抱え込むと悲痛な呻き声を洩らした。
「しかし、よろしいので?」
「なにが?」
全身を鮮血やその他諸々に染め上げたレッドコートの歩兵レヴィだが、平然とした様子で立ち上がるとギーネに視線を向けた。
「ヴァルカンのことです。今なら、脳波を辿って本体を突き止めるのも容易いかと。
執念深そうな奴です。此処でしとめる方がよろしいのでは?」
真っ赤に染まったレヴィの姿を眺めながら、ギーネはどうでも良さそうに肩を竦めていた。
「んー、今日は見逃してやるさ。さすがに些か準備も足りないしな」
それにヴァルカン固有の脳波の波長について、ギーネは記録を取っていた。
ホラー映画のように、例えばクーンの身体を乗っ取って近づいて来たとしても、人形を操作したとしても、警戒していればたちどころに察知できる。
次にギーネの至近で人形を使ったその時が、ヴァルカンの最後となるだろう。
そう確信しながら、手をひらひらさせて部下の忠告に返答したギーネの脳裏は、すでにヴァルカンとは関係ないことを考え始めていた。
鮮血に染まったレヴィを眺めながら、訳の分からないことを言い出す。
「ところで私にいい考えが浮かんだ」
いい考えと聞いたレヴィは、思わず警戒した顔を見せた。
「……またですか」
「クリムゾン・コートって名前。ステキ格好いいと思わないか?」
訳の分からないことを言い出しているギーネを、レヴィは胡散臭そうに眺めていた。
あ、これは駄目な時のご主人です。また余計なことを閃いている顔ですわ。
主人の顔を見てそう悟ったレヴィは、肩を竦めながら
「レッドコートも結構、周知されてきているのに改名するんですか?」
「クリムゾン。いい響きだと思うんだが……」
「趣味に走りすぎですよ。馬鹿みたいです」
「……むむむ」
片目を瞑って、くやしそうに唸るギーネ。
明日からクリムゾン・コートとか名乗りたくないレヴィは、念の為に釘を刺しておく。
「重度の厨二病を患っていると誤解されたらどうするんです?」
「それは嫌だな」
被造物に論破されて弱気になったギーネは、あっさりと提案を取り下げた。
「……よく考えていたらありがちかな。クリムゾン」
クリムゾン。クリムゾン。
口の中で呟いていたギーネは、なんとなくジゼルに目を向けてみた。
観察するようなギーネと、虚脱しているようなジゼルの力ない視線が絡み合った。
ヴァルカンとこの女はどんな関係なのかな?
この女も敵の懐に潜りこむ為、娼婦になって潜り込んでいたのか?
ヴァルカンも狙われていると知りながら、敢えて殺さなかった?
それとも互いに顔を変えていたのか。ヴァルカンは、また別の名前を名乗っていた?
どうも分からん。私には関係ないし。しかし、娼婦。娼婦か。
仇に抱かれていたのかな。ベッドの上でやる時、なにを考えていたんだろう。
クリムゾン……くやしい、でも……
「……くふっ」
思わず変なスイッチが入ってしまったギーネは、掌で顔を押さえながら思わず愉快そうに忍び笑いをした。
悪気はなかったが、ジゼルは何を思っただろうか。傍目には傲慢な強者が地に這いつくばった敗者に嘲笑を向けているようにしか見えなかった。
ギーネはすぐにふっと視線を逸らした。実際にはどう声を掛ければよいのかが分からなかったからだが、興味をなくしたようにも見えただろう。
それから鷹のグレイを一瞥。死体袋を持ってくるようにレヴィに告げてから、人の焦げる匂いも気にせずにクーンへと歩み寄っていった。
基本的にぼっち……ではなく、弧高を好むギーネではあるが、その分、人の向けてくる感情には敏感であった。
なんとはなしにクーンが好意や尊敬の念を向けてきているのを感じ取って、この年少のハンターに対して好意的になっている。
なので優しく抱き上げると、珍しく他人に対して気を使うように柔らかに微笑みかけて何事かを囁きかけた。
気力体力、共に限界を迎えていたのだろう。クーンは安心したようにギーネの腕の中で気を失った。
レッドコートの二人が見習いハンターのクーンを連れて立ち去った後、人気の無くなった倉庫でジゼルは何時までも地面にうつ伏せに倒れていた。
ギーネ・アルテミスが立ち去る際、ふと洩らした呟きをジゼルは確かに聞き取っていた。
「やろうと思えばいつでもやれるが……まあ、いい。今は見逃してやるさ」
ギーネ・アルテミスの傲慢な呟きを耳にして、エマの首を抱きかかえたジゼルは悔しげに唇を噛んでいた。
いつでもやれるなら、さっさとやってくれと思う。ヴァルカンを放置しておけば、どれだけの罪のない人が泣くと思っているのか。
ジゼルがどう足掻いても手の届かないヴァルカン。
だけど、ギーネ・アルテミスからみれば、ヴァルカンさえも玩具の一つに過ぎないのだろう。
「化け物め……どいつもこいつも……好き勝手に振舞いやがって」
ティアマットは恐怖と絶望に満ちた廃墟の世界だった。
そこで人生を謳歌できるのは、ギーネ・アルテミスのような自分の身を完璧に守れる人間を除けば、ヴァルカンのように悪鬼と成り果てたものだけなのだろうか。
苦しげに顔を歪めたジゼルは、コンクリートの床に爪を立てながらゾッとするような呻き声を洩らしていた。
こんな苦痛に満ちた生が何時まで続くのか。いっそ世界が終わってくれればいいものを。
初出 2013/07/30