終章一節 - 壁際の墓碑
「幸ってさ――」
あの日以降、与羽は空に会わなかった。しかし、その間も彼が呟いた名前がずっと気になって仕方ない。天駆を去る時分になって、与羽は希理に尋ねてみた。
尋ねられた希理は、何の感情もこもらない目で与羽を見下ろしている。普段は好んで人と目を合わせない与羽も、このときはまっすぐ彼の目を見返した。それこそ、挑戦的に――。
やっとのことで呟いた希理の声は、心なしかかすれていた。
「ああ……、空はお前に話したのか……」
そして、きびすを返す。ついて来いと言うことらしい。
少しためらったが、与羽は彼に従った。
希理は屋敷の敷地内を奥へ奥へと歩いていく。彼を追って、与羽も雪の残る庭を進む。
とうとう裏庭も外れまで行って、希理は立ち止まった。漆喰塀の手前にぽつんと小さな石が置いてある。塀の周りはどこも雪がたまっていたが、ここだけは地面がむき出しになっていた。
「ここが、幸の墓だ」
「空の妹?」
「そんなもんだな」
希理はやや言葉を濁す。
その答えに、与羽は石の前にひざをついた。
「この時期は花も少ないもんな……」
何も供えられていないそこを優しく撫でる。
「この間までは、栗飯が供えてあった」
希理の答えに、正月に空が持ってきてくれた軽食も栗ご飯だったと思い出す。何か、思い入れがあるのかもしれない。
与羽は、懐に手を突っ込んだ。
「希理さんに返そうかと思うたけど、ここがええな」
与羽が置いたのは、舞の折に空からもらった玻璃細工の帯飾りだった。
そして、次に自分の頭に手を伸ばし、かんざしの一本を抜く。銀と七宝焼きで梅が模してある。
「花の代わりに」
それもそこに置く。
「空の過去とか――。気にならないのか?」
「そんなことに興味はない」
無愛想に言って、与羽は手を合わせた。本人の許可もないのに、勝手に人から彼の過去を聞こうと思うほど野暮ではない。
――空は、私が妹に似とったけ、あんなにやさしかったんじゃな。
そう納得した。
「よっし、じゃぁ、帰らんとな」
しばらく、しゃがみこんで手を合わせ、目を閉じていたが、顔を上げた瞬間、すばやく切り替える。
「ああ、馬はちゃんと準備してあるし、中州城とその途中の町にも連絡を入れておいた」
いつも通りに見える与羽に、希理は安心したようにほほえんだ。