七章二節 - 栗飯と神官
* * *
「ふう、終わった終わった」
与羽は着替えながら、息をついた。これでも、舞い終えるまでは緊張していたのだ。やっと肩の荷がおりた。
「ご苦労様です」
衝立として置いててある御簾の向こうで、空が軽食の準備をしながら労う。
「来年はちゃんと舞手見つけてよ」
着替え終わった与羽が、栗ご飯のおむすびと、お茶の用意された膳を見た。
「……なんで栗ごはん?」と首を傾げる。正月らしさが全くない。
「わたしの好みです」
空はにっこりほほえんだ。
何となく納得できなかったが、空腹だったこともあり与羽はむすびに手を伸ばした。形のよい三角形の一つを掴み、口へ運ぶ。そして、あっという間にそれをたいらげてしまった。自分が思っていた以上に空腹だったようだ。
二つ目に手を伸ばしたところで、ふと空の存在を思い出し、むすびに手を伸ばしたまま上目遣いに空を見た。どうせ、またほほえんでいるのだろう。まだ、前髪が上げられたままなので、彼の表情はよく分かる。
彼は確かに笑んでいたが、それは与羽が予想していたものとは違った。自嘲にも似た薄い笑みを浮かべて与羽を見つめていたのだ。
手にむすびを持っているものの、口をつけた形跡はない。
「空……?」
「……おいしい、ですか?」
彼の声は、どこか心ここにあらずと言った感じで、虚ろだった。
「……。まぁ、まずくはないけど、もう少し塩味が――」
与羽は正直に答える。その返答に、空の雰囲気がわずかにいつものものに戻った。
「貿易盛んな中州はいざ知らず、海から遠い天駆では、塩は貴重品ですからね」
「ふ~ん。それでさ、さっきの話の続き」
与羽はどうも居心地の悪さを感じて、いつもよりも軽い口調で切り出した。
「来年は、もう私舞わんから。そっちで舞手見つけてよ」
「努力します。しかし、あなたの舞を見てしまったら、どんな娘を据えても物足りなくなりそうですね」
空は少しずつ与羽の知る雰囲気に戻っていく。
それに安心したこともあり、与羽はふとあの舞い終わった後の拍手を思い出した。星が震えるような激しい拍手と歓声が何分も続いたのだ。
「――案外、農民とか町人の娘がいいかもしれんね。あの舞は結構きついから、それなりに筋力と体力がある子じゃないと。その辺の、茶碗より重いもんを持ったことないようなお嬢さまには無理」
「肝に銘じておきます」
「あと、帯飾りありがとね」
「いえ、あなたに似合うと思っただけですから。差し上げますよ」
「いや、遠慮しとく」
なんとなく、彼から物をもらってはいけない気がした。
「そう言わずに」
言って、空がすっと立ち上がった。自然な動作に、与羽は何とはなしに空の動きを目で追う。警戒心は全くない。
「これの代金だと思って」
しかし次の瞬間、空の声は思いのほか近くから聞こえた。それと同時に、背に大きなものが覆いかぶさってくる。
不意を突かれて食善に突っ伏しそうになると、強い力で抱き戻された。
肩と胴に腕が巻きついてきて動けない。緊張で、与羽の体に力がこもった。
「どういうつもりな? 空」
「少しだけ、こうさせてください。あなたは、……幸と同じ匂いがする」
低くすごんだ与羽に、消え入りそうなかすれ声で空はそう答えた。
その声に、与羽はそれ以上何も言えなくなった。背に触れた空の体が精一杯嗚咽を殺そうとしているのが分かる。
もう一度、強く抱きしめられた。息がつまる。
側頭部に空の熱いほほが触れているのが分かる。それよりも熱い空の息を感じた。
与羽はとっさのことで、なすがままになっている。
そして、空の力が緩むにつれて、与羽の体から緊張が抜け、自由を取り戻した。それでも、与羽は振り返ることができない。
「……すみま、せん。……でした」
背後でかすれた声がした。理由は分からないが、その声に背筋が震える。
何と応えて良いのか分からず、与羽はうつむいた。
空もそれ以上何も言わず、気配だけが移動していく。そして、音もなく空の気配は消えた。
目の前には、食べかけの栗ご飯のむすびと、冷めはじめたお茶だけが残されていた。