六章二節 - 師走晦日
* * *
「起きてください」
何か細長いものでほほを叩かれ、与羽はぼんやりと目を開けた。彼女を見下ろしていたのは、少し目つきの鋭い、しかし整った顔の青年。右手には閉じられた扇が握られている。与羽のほほを叩いたのはこれだろう。
「だれ?」
彼は与羽の問いに、苦笑した。
「空ですよ」
「うそぉっ!」
与羽は叫んで跳び起きた。
師走晦日。
早朝の凍った空気が薄着の肌を刺したが、今はそれよりも驚きの方が強い。
少し距離を置き、彼の全身を上から下まで眺める。
彼が身につけているのは、白い狩衣に同色の房飾りがついた小さな冠。いつもは目を覆い隠してしまっている長い前髪が全て後ろへあげてあるので、一瞬見ただけでは彼が空だとは気付けない。
「どうでしょう? どこも変じゃないですか?」
そう言って、空はその場でゆっくり一回転した。
「べ、別にいいんじゃない」
「よかったです」
ほほえむ空は、いつもより若々しく見える。
「では、次はあなたが舞をするのにふさわしいよう、身だしなみを整える番ですね」
一ヶ月、全く同じように祈りをささげて過ごし、今日は大晦日だ。
「まだ、早かろうよ」
与羽は日も出ていない、群青の空を見て言う。
「早く準備することに越したことはありません」
しかし、空は断固としてそう主張した。彼なりの考えがあるのだろう。
このまま言い争っても、無理やり滝壺に投げ込まれる流れになりそうだ。
与羽はしぶしぶ上着を羽織って外へと向かった。
禊に使う滝壺は朝でも温かな湯をたたえている。源泉掛流し。これほど贅沢なことはない。毎朝毎夕、ここの湯につかり続けたためか、最近肌や髪がつややかになっているような気がする。
今日もいつもと同じように祈り、初日と同じように空がそれに唱和した。今まで、与羽の世話をしてくれた巫女たちも同様だ。彼女らは必要以上に与羽に触れたり、話したりすることがなかったので、あまり親しくなれなかったが、一生懸命がんばっていることは伝わってきた。これからも、善く神に仕えて欲しいと思う。
この場所を見るのも最後だと思うと、感慨深い。
流れ落ちる小さな滝を見つめ、与羽はこの一月を思い浮かべた。
黄金の帯を作る早朝の陽光。
雲を生むように白いもやがたつ滝壺。
山菜ばかりの質素な食事。
巫女見習いの少女たちは、雪遊びをしようとして年長の巫女にしかられていた。
――巫女たちに、どうか龍神様の加護を。
与羽は最後に心中でそう祈った。
一通り祈り終わり、体が温まったところで川からあがろうとした与羽を、空は分厚い毛織物を巻き抱えあげた。
「空?」
「このまま聖域入り口の風主神殿まで向かいます。山道を歩いている間に怪我をされると困りますから」
空は軽々と与羽を横抱きにして歩く。ここから風主神殿までそんなに距離はないはずだが、それでも舞手は大事なのだろう。
「あんたがこける可能性もあるけどね」と言う軽口は無視された。
巫女たちの視線が少しだけ痛い。
「一月、ありがとう」
与羽は彼女たちにそうほほえんで手を振った。
ふわりと、空の神官装束から夜を思わせるすっとした香の匂いが漂う。与羽は辰海ほど香に詳しくないので、何の匂いなのかは分からなかったが、嫌いではないと思った。
一番は辰海が自分の持ち物に焚き染めている桜の匂いなのだが。
与羽の仕草に、巫女たちも控えめに手を振りかえしてくれる。与羽は歩く空の邪魔をしない程度に、大きく手を振り続けた。