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五章三節 - 龍神の崇り

 

  * * *



 辰海(たつみ)は明るくなった空を見上げた。低い梢の内側にもぐりこんでいたが、全身を覆うように被っていた着物には薄く霜が降り、体中がかじかんでいる。山を登る時につけた手のひらの擦り傷は、今さらになってじんじん痛みはじめていた。


 痛みと、寒さと、寂しさと、みじめさと――。

 つんと鼻の奥が痛くなった。色々な感情がない交ぜになって、涙としてあふれそうになる。

 それを慌てて手の甲でこすって止め、辰海は自分の手が赤黒く汚れていることに気付いた。昨夜、人を斬ってしまった時に汚れた手。


 ――ああ、そうか……。


 辰海は妙に納得した気分になった。聖域ほどではないが、ここも龍の耳にたとえられる神聖な場所。そこに辰海は血の穢れを持ち込んだのだ。逃げるのに必死で、龍神に許しを請うこともしなかった。

 軽んじられたと思った龍神が怒ったのだろう。怒って辰海を(たた)ったのだ。この山から抜け出せないように。

 穢れを持ち込まれた仕返しに、辰海を苦しめようとしているに違いない。

 人と神とでは、考え方が全く違う。神は平等で、時に残酷だ。


 冷静に考え得れば、鼻で笑い飛ばすような思考だが、今の鈍った頭ではそれが正しいような気がした。


「……申し訳、ありません」


 今さらながら、辰海は謝罪の言葉を口にした。

 かじかんで言う事を聞かない体を無理やり動かして、近くの川まで向かう。

 やはり見覚えのある場所はなかったが、今は帰り道を捜すよりも血の穢れを落とすことを優先した。水面に映った顔も、汚れている。ずっと被っていた着物もだ。

 手を洗い、顔を洗い、気づいた汚れを落としていった。

 今は、少しでも龍神に怒りをおさめてもらわなくてはならない。


 濡れた肌を冷たい空気が突き刺す。湿った着物が体を冷やす。

 それでも汚れを落としきった辰海は立ち上がり、何とか町へ戻ろうと歩きはじめた。

 中州でも有数の文官家に生まれた辰海だ。子どものころは教養として神官の修行を積んだ経験もある。龍神を称える言葉を呟きながら、佐慈(さじ)を歩く。


 食用になる山菜なども知っていたが、今は冬のはじまり。せいぜいどんぐりや栗が落ち葉の間に転がっている程度だ。食べるものもなく、寒い中夜を明かしたこともあり、体調は最悪だ。

 朝を待って行動するという判断は間違っていたかもしれない。昨夜はむやみに歩いてさらに迷う危険を冒すよりはマシだと思ったが、歩く体力さえほとんど残っていなかった。


 体が重い。どこかに身を横たえ、眠ってしまいたい。しかし、そう思うたびに与羽(よう)のことが思い出されてできなかった。

 正月が明けて、俗世に戻った与羽が辰海の不在を知ってどう思うのか。怒るか、悲しむか、失望するか――。

 どんな反応をしたにしろ、きっと与羽は佐慈(さじ)に分け入り辰海を捜すだろう。誰が何と言おうと見つけるまで捜し続ける。


 それは与羽を危険な目にあわせることだ。それだけはしたくない。


「いや……、違うかな」


 辰海はぼんやりと呟いた。


 ――僕は、ずっと与羽といたいだけだ。


 そのためだけに、生きて山を下りたいと思っている。


 ――まだ、与羽に伝えなきゃいけないことが、たくさんあるから。


 しかし、辰海の体力は残り少ない。意識も朦朧としはじめている。


 やはり、見覚えのあるところはなかった。方向を確認しようにも、低い太陽は南の山地に隠されている。もう少し日が高くなるまで待つ必要がありそうだ。

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