序章
朝夕は寒くなったが、昼の日差しはまだ暖かい。
西に伸びる山地は茶や赤、黄色の点描で染め分けられている。
三方を書院造りの屋敷に囲まれた庭で、与羽は赤く色づいた紅葉を眺めながら、風に流れる秋の調べを聴いていた。
陽光に暖められた岩に腰掛け、聞こえてくる笛の音に合わせて足をパタパタさせる。そのたびに頭の上で一つに束ねた黒い長髪が陽気に揺れ、陽光を宝石のような青色と黄緑色に反射した。機嫌良さそうに明るく輝く黒目がちな瞳は青紫色だ。龍神の血を継ぐと言われる彼女は常人と違う色彩を持っている。
与羽が耳を傾けている曲を吹くのは、彼女の座る岩に背をあずけている少年――辰海。与羽と兄妹のように育った彼は、与羽が好みそうな節回しを多用しつつ即興で秋の歌を奏でていた。与羽の動きがゆっくりになれば、吹く曲も穏やかに。秋の陽だまりのようなやさしさで。
次第にこくりこくりと舟をこぎはじめる与羽を見て、辰海はつり上がった目元を和ませた。
今日も彼のいでたちは、純白の着物に桜色の帯。ただし、着物のすそには金糸で菊があしらってある。
与羽の方は、浅葱――水色の地に赤や黄の紅葉が散らされた小袖。さすがに寒いので、いつもの膝丈七分袖ではなく、手首やくるぶしを覆ってくれるほど丈があるものだ。膝の上には辰海が貸した膝掛けもある。
庭の見える縁側を通っていく人は、仲良く寄り添う与羽と辰海に思わず笑みを浮かべた。
どれくらいそうしていただろうか。うたた寝していた与羽は土を踏む音で目を覚ました。ぼんやり顔を上げると、まだ高い太陽に目をやる。さほど時間は経っていないようだ。身動きしたせいで滑り落ちてしまった膝掛けは、辰海が受け止めてくれている。
「たつ……?」
演奏をやめた辰海を寝ぼけ眼で伺えば、彼は一点を見ながらゆっくり姿勢を正した。ここで、やっと与羽も足音に意識が向いた。小さくあくびを噛み殺しながら振り返る。
「乱兄……」
そこにいたのは兄・乱舞。一国の城主の登場に与羽は急いで岩から飛び降りた。
「与羽」
乱舞はにっこり笑みを浮かべて妹の名を呼んだ。若干二十歳でこの国を治める青年の武器が、この人好きのする笑みだった。彼はその笑顔でさまざまな人を味方につけ、この国の結束力を保っているのだ。
「何か用?」
一方の与羽は、眉間に浅いしわを寄せ、いぶかしげな顔で首を傾げた。気持ちよく微睡んでいたところを邪魔されて、不機嫌そうでもある。兄とは対照的な雰囲気だ。
乱舞の答えは、簡潔で曖昧だった。
「与羽、冬の間、ちょっと旅に出てみないか?」