王宮の荷運び係
私の名前はフィーナ・ヴァレット。
王都で暮らす平民の娘で、王宮管理局に勤めている。
私には生まれつき、『触れたものの重さを軽くできる』という不思議な力がある。
ただし、効果の持続時間はわずか三十分。おまけに一日に一度しか使えないうえ、対象の大きさも形も変えられない。
思ったよりピーキーで使い勝手の悪い能力である。
とはいえ便利なのも間違いなく、正規の仕事の合間に頼みごとをされることも多い。
これまでも大きな荷物の運搬や家具の配置換えなど、いろんな場面に駆り出されては能力を使ってきた。
「フィーナ殿、こちらです!」
今日の現場は、北棟の修繕現場。工事の最中に柱が倒れ、作業員の一人が足を挟まれてしまったのだ。
しかし、私の能力によって作業員は無事に助け出された。
「すごい、さすがフィーナ殿だ!」
「大の男が束になっても持ち上がらなかったのに!」
「ありがとうございます! 本当に助かりました!」
負傷者を救出後、仲間の作業員たちが一様に感謝しながら頭を下げてくる。
あとは、効果が切れる前に柱を邪魔にならない場所まで運ぶだけだ。
「後ろ、そのままでは壁に当たってしまいますよ。もう少し右へ動かしていただけますか」
「あ、すいません。……それにしても、本当に重さを感じないんですね」
「ええ。ただ、長いのは長いままですから、運ぶときは慎重にお願いしますね」
軽くなった柱を数人で慎重に抱え、廊下の角を少しずつ曲がっていく。
現場を監督していた腹の出っ張った宮廷貴族は、問題が片付いたことを確認すると満足そうに笑った。
「うむ。よくやったぞ、フィーナ・ヴァレット。相変わらず便利な『荷運び係』だ」
いや、荷運び係って。いつから私はそんな雑用みたいな役職に……。
ただまあ、相手は私より遥かに地位の高い上級貴族様。まさか直接文句など言えようはずもなく。
「では、失礼いたします」
私は軽く会釈を返し、そのまま作業員の方々の後を追った。
能力は一回発動させたら切れるのを待つしかないけど、関わった仕事は最後まで見届けないと落ち着かない。
とまあ、私の毎日はだいたいこんな感じ。
不満もなければ、特に満足もない。
ごく普通のありふれた平凡な人生。
――の、はずだったんだけど。
◇
それからしばらく経ったある日、国王陛下が突然崩御された。
「そ、そんな……!」
「近頃体調を崩し気味だとは聞いていたが……」
「けど、まだ決して亡くなられるような御歳でもないのに……」
道行く人は誰もが沈痛の面持ちで足を止め、突如として舞い込んだ衝撃のニュースに互いの顔をうかがっていた。
私も王都中に響く弔鐘の音を聞きながら、何かの間違いではないかと思った。
けれど、本当の事件はそれからだった。
王宮に着くと、正門には普段の倍近い兵士が並び、出勤してきた者を一人ずつ検査してから中へ通していた。
そのくせ、一度入った者が外へ出ることは許されない。中央棟へ向かう廊下も封鎖されている。
いくら陛下が亡くなった直後とはいえ、明らかな異常事態だった。
「静粛に! 国王陛下は昨夜、急逝された! その死には不審な点があり、王太子セドリック殿下には調査が終わるまで西塔に留まっていただく!」
入城を待つ私たちに向け、兵士の一人が大きな声を張り上げる。
「また、これより先は王国の混乱を避けるため、第二王子ルシアン殿下が宮廷の指揮を執る。日没には『戴冠の儀』を執り行うため、各々準備されたし!」
誰かが小さく息を呑んだ。
戴冠の儀――つまりは、亡くなられた陛下に代わる新王即位の儀式。
それを王位継承権第一位である王太子のいない場で、弟君であるルシアン殿下が強行しようとしている。
しかも言葉は抑えていたが、さっきの言い回しはまるでセドリック殿下を幽閉したかのようだった。
どういうこと? いったい何が起きているの?
「なお、儀式が終わるまで各人は持ち場を離れること、ならびに許可なく王宮外へ出ることを禁ずる。以上だ」
静寂がざわめきに変わる。
何が起きているのか詳しく尋ねたい。けれど、廊下に並んだ武装した兵士を前にして、それを素直に口に出せる者はいなかった。
仕方なく、それぞれの部署へと移動する。
私はというと、王宮管理局へ続く道も塞がれていたため、人の列を抜けて荷物通路へ入った。
王宮には、王族や貴族が使う表の廊下とは別に、食材や洗濯物、大型家具を運ぶための道がある。
荷運び係の私には、こちらの方が馴染み深い。
武器庫や大広間へ向かう広い廊下には兵士が集まっていたが、厨房や洗濯場へ続く狭い通路にまでは手が回っていないようだった。
この辺りにも、彼らが決して一枚岩でないことが伺えた。
使用人用の集会所へ入ると、使用人長のマルタさんが待ち構えていた。
「フィーナ、よかった。こちらへ来て」
「マルタさん。これは、いったいどういう――」
「ごめんなさい、ここでは話せないの。歩きながら説明するわ」
いつもなら廊下を走る侍女を叱りつける厳しい人だ。そんなマルタさんが私の腕を取り、足早に集会所を出ていく。
「王太后陛下が、あなたをお捜しよ」
「え!?」
王太后様が……私を?
「あなたに相談したいことがあるらしいわ。緊急でね」
「緊急……」
いったいなにかしら?
けれどそう首を捻りつつも、状況を考えれば、それが普通の相談でないことは容易に想像ができた。
そもそも、私のような使用人風情に王太后様との直接の面識はない。
私たちはそのまま洗濯場を抜け、洗濯物の運搬口から離れへ回る。兵士の姿がない裏階段を上り、普段は使われていない客室へ入った。
部屋の奥に、王太后アデリナ様が立っていた。
昨日チラリとお見かけしたのと同じ衣装。国王陛下を失ったばかりだというのに、喪服へ着替える暇さえなかったのだろう。
「フィーナ・ヴァレット……ですね?」
「は、はい」
「確認します。今日はまだ、“力”を使っていませんね?」
「ええ。まだ使っておりませんが……」
その答えを聞いて、王太后様は張り詰めていた息をわずかに吐いた。
「セドリックが西塔に閉じ込められています。日没までに、あなたの力であの子を助け出してください」
「……王太子殿下を、私がですか?」
思わず聞き返してしまう。
先ほどの布告でも、王太子殿下が西塔にいることは聞いている。けれど、あくまで『調査が終わるまで留まっていただく』という話だったはずだ。
「殿下は、やはり拘束されているのですか?」
「ええ。塔の出入口はルシアンの兵に押さえられています。手足は縛られておりませんが、実質的に見動きは取れなくなっています」
そういうことか。つまりは軟禁状態にあると。
となると、もう一つの疑問は……。
「そもそも、ルシアン殿下はなぜこのようなことをなさったのでしょうか。王宮を兵で押さえ、セドリック殿下を軟禁するなんて。これではまるでクーデターのような――」
「ような、ではありません。れっきとしたクーデターです」
私の言葉を遮り、王太后様が吐き捨てるように言い切る。その口調には、先ほどまで押し隠されていた苛立ちが滲んでいた。
「……失礼いたしました」
「いえ。あなたを責めているわけではありません」
王太后様は一度目を閉じ、乱れかけた呼吸を整えるように息をついた。
「ルシアンの胸の内はわかりません。大方、彼の母である亡き側妃の忘れ形見として、自分が王になって権力を手にした勇姿を捧げたいとでも思ったのでしょう。ですが、なんにせよ陛下が亡くなったその日に動いた以上……」
「ルシアン殿下の動きは事前に計画されていたものである、と」
「そういうことです」
ルシアン殿下とセドリック殿下は腹違いの兄弟だ。
つまり、ルシアン殿下は正統な王の子であっても、王太后様の実の息子ではない。一方でセドリック殿下は紛れもなく王太后様が生んだ実子である。
王太后様にとって、いずれの王子がより大事かは明白だった。
「……なるほど。ところで念のため確認しておきたいのですが、そもそもこのまま戴冠の儀を強行したとして、本当にルシアン殿下は即位できるのでしょうか?」
私としては、経緯が不当であるなら儀式そのものも不当であり、結局のところ王位に就くことはできないのでは……と思っていた。
ならば、急がずとももっと入念に時間をかけて対処すればいいのでは、とも。
しかし、どうやらその認識は甘かったらしい。
「いいえ、できます。正しい手順を踏んでいるかどうかと、国王として扱われるかどうかは別の話です」
王太后様ははっきりと言い切った。
「今日の日没、ルシアンが王都で戴冠を済ませる。そして『新たな国王が即位した』と各地へ布告する。そうなれば、それだけで状況は大きく変わります」
各地――と言うのは、王都圏を離れた国内の各領地のこと。
「遠方に住む国民からすれば、今日ここで何が起きたのかを正確に知る術はありません。そこへ陛下が亡くなり、代わりにルシアンが即位したと王宮から通達があれば、どう受け取るでしょう?」
「それは……まあそういうことがあったんだなと、受け取るしかないでしょうね」
普通に考えて、地方の民からすれば王都から受ける報せは絶対だ。
しかも王宮を制圧した以上、ルシアン殿下は国王専用の印章である“玉璽”も手に入れているだろうし、情報の信憑性は保証されているようなもの……。
「無論、中央の権勢争いに詳しい諸侯はその限りではないでしょう。素直に従わない者も出てくるはず。ですが王が立った以上、近衛も官吏も、地方の役人も、新王への忠誠を求められるようになる」
そこまで説明され、私もようやく完全に状況を理解した。
つまり、一度でも『国王ルシアン』として国が動き始めてしまえば、あとから覆すことは非常に難しいということ。
既成事実として、抗いようのない流れが確立されてしまうからだ。
「では、セドリック殿下がまだお命を奪われていないのも……?」
「そうです。ルシアンを支持する者たち――いわゆる“反逆派”である彼らとしては、生かしたままセドリックに王位継承を認めさせる方が得策だと考えているようです。その方が最終的な統治が楽ですからね」
……やっぱり。
仮にここでセドリック殿下がお亡くなりになれば、事情を深く知らない者であってもルシアン殿下の犯行を真っ先に疑うだろう。
王位簒奪のために兄を殺した――少し考えれば、誰もがそういう結論にたどり着くからだ。
そうなれば、いかに王の名だけ得ても民衆の心はなびかない。
加えて主君を失ったことで、セドリック殿下を支持する人々――“忠誠派”の抵抗運動も間違いなく加速する。
だが一方で命さえ生かしておけば、殿下を人質としてチラつかせることで逆に抑え込める。
行動の是非はさておき、賢い手だ。
「でもそれは、あくまでルシアン殿下が治世を安定させるまでですよね? いずれ統治の体制が確立されれば……」
「そう、セドリックは用済み。忠誠派の貴族たちもろとも、粛清されるでしょう」
「そんな……」
私は絶句した。粛清という言葉に対して……ではない。
その先の未来を想像してしまったからだ。
いくら反逆派が慎重に事を進めようと、きっと最後の最後は両陣営による武力衝突は必至のはず。
忠誠派とて、むざむざやられるのを待つわけがない。今はへたに動けなくても、いざとなれば自分たちの治める領内の全戦力をかき集め、決死の抵抗を試みるだろう。
そしてその際は、きっと想像を絶するほど多くの血がこの国で流れる。
「わかりましたか? だからこそ、今が最大のチャンスなのです。今ならばまだ、セドリックを救出して反逆派の計画を挫くことができます」
王太后様が顔を上げる。
「いずれもう少し事態が落ち着けば、セドリックはもっと厳重な地下牢にでも閉じ込められてしまうでしょう。ですから、そうなる前にあの子を塔から出さなければならないのです」
現在の王宮は反逆派と忠誠派の兵が入り乱れ、まだ混乱状態にある。どちらにも属していない兵士も数多くいる。
そうした者たちへ悪い印象を与えないため、セドリック殿下も罪人のように拘束まではされていない。
たしかに助け出すための条件は揃っているように感じる。
「……ご事情は承知しました。それで、私の“力”が必要なんですね?」
「ええ、その通りです。理解が早くて助かります」
王太后様は頷くと、机の上にあった城内の見取り図へ手を伸ばす。
作戦は、至ってシンプルだった。
西塔の最上階には、採光用の天窓がある。天窓は室内からは決して手の届かない高さにある代わりに、脱出を妨げる格子もない。
ゆえにそこからロープを投げ入れて、外からセドリック殿下を引き上げるというもの。
そこで私の能力の出番となる。
普通なら成人男性を塔の上まで引き上げて、且つそこから降ろすなんて相当な大仕事だけれど、重さそのものがなくなれば話は別だ。
西塔には以前、外壁の修繕で何度か足を運んだこともあるので、おおよその高さや周辺の構造も頭に入っている。
うん。これならたしかに問題なさそう。
「いかがでしょう、フィーナ・ヴァレット? できますか?」
「はい。この方法であれば、殿下を助け出せそうです」
そこでようやく、王太后様の表情が初めて緩む。同時に、私も同じく安堵した。
セドリック殿下さえ救出できれば、その時点で今回の騒動は一件落着。人質を失った第二王子陣営としては、王位の簒奪を諦めざるを得ない。
とすると、先ほど想像したような国を二つに割っての争いだって起こらない――。
「……ん?」
そこまで考えたところで、ふと私の中で“何か”が引っかかる。
「あの、王太后様」
「はい? なんでしょう?」
「ところで、セドリック殿下を塔から助け出した後は……そこから先はどうなさるのでしょうか?」
私が控えめに尋ねると、王太后様はわずかにキョトンとした様子でこう答えた。
「さあ、そこまでは私も知りません」
「え」
意外な答えに固まってしまう。
王太后様は机の上へ視線を落とすと、見取り図の脇に置かれていた小さな紙片を手に取った。
「そもそも、この方法を考えたのは私ではないのです。捕らえられる直前、セドリックがかろうじて私宛に従者へ届けさせたメモに記されていました」
「メモ?」
見せてもらった紙には、西塔へ連行されることと、そこから抜け出すための方法が簡潔に書かれていた。
その中に私の名前もあり、能力を使って身体を軽くすれば窓から脱出できるだろう、とある。
しかし、メモの中身は本当にそれだけ。塔を出た後の行動については一切触れていない。
「きっと時間がなかったのでしょう。これだけでも、よく残してくれたと思います」
「そう……ですね」
私はメモから目を離し、黙って考える。
ルシアン殿下はすでに兵を使って王宮を押さえている。正門も中央棟も、戴冠の儀が行われる大広間も、今や彼の兵士たちの管理下だ。
そんな状況でセドリック殿下が塔から抜け出したとして、それだけでルシアン殿下が王位を諦め、「では兄上にお返しします」と兵を退かせるとは到底思えない。
では、セドリック殿下はその後どうするつもりなのだろう。
まさか……。
「……申し訳ございません、王太后様。作戦決行前に、今から念のため西塔の様子を確認してきてもよろしいでしょうか」
「西塔の様子? なにか問題でも?」
「いえ、そういうわけでは。ただご存じの通り、私の能力は一日に一回のみ。万全を期すためにも、一度現場を自分の目で見ておきたいのです。図面だけでは読み取れない不確定要素があるかもしれませんので」
我ながら咄嗟にしてはすらすらと言葉が出てきたと思う。
王太后様は少し考えたものの、やがて頷いた。
「分かりました。そういうことであれば」
……ほっ。
「ありがとうございます。では、行ってまいります」
私は一礼し、客室を後にした。
◇
西塔へ向かう途中も、王宮のあちこちで兵士の姿を見かけた。これほどの数の人々が水面下で動いていたと思うとゾッとする。
とはいえルシアン殿下を支持する反逆派勢力も、王宮全体を完全に管理できるほど潤沢に人員がいるわけではないらしい。
正門や大広間など重要な場所へ兵を割いているせいか、西塔ではセドリック殿下の部屋そのものを施錠し、数人が交代で巡回しているだけだった。
内部は制圧した以上、敵が来るとすれば外部からと考えての配置だろう。
「もっとも、それゆえに中の人間からすれば動きやすくもあるんだけど」
私は普段から使っている使用人通路を通って塔へ入り、廊下の陰からしばらく様子をうかがう。
やがて見張りの兵士二人が階段を下りていった。
次の巡回が来るまで、少し時間がある。
私は足音を殺して最上階まで上がり、廊下の一番奥にある扉へ近づいた。
「セドリック殿下。聞こえますか?」
声を潜めて呼びかけると、しばらくして中から人の気配がした。
「誰だ?」
「王宮管理局のフィーナ・ヴァレットです。王太后様から遣わされました」
私の名前を聞くなり、殿下はすぐに状況を察したらしい。
「そうか、母上がお前を見つけてくれたのだな。よかった……それで、いつなら脱出できる?」
「その前に、一つだけお聞かせください」
私は扉越しにそう返した。
西塔の様子を確認するためと言ってここまで来たけれど、本当に確かめたかったのは別のことだった。
「殿下はここを出られた後、どうなさるおつもりですか?」
殿下はなぜそんなことを聞くのか、とでも言いたげに扉の覗き窓から私を一瞥したものの、特に隠すようなことでもないのだろう。そのまま淡々と答えた。
「まずは王都を離れる。私を支持する諸侯のもとへ向かい、自分が生きて自由の身にあることを各地へ知らせるつもりだ」
「ということは、すぐにこの場でルシアン殿下と戦うわけではないと……?」
「ああ。状況的にはこちらが不利だからな。まずは安全確保を最優先とする」
そこまで聞いて、私は胸を撫で下ろす。
けれど、それもほんの一瞬のことだった。
「だが、そのあとは別だ」
「え」
「王都脱出後はすぐさま各地にいる私に忠誠を誓う諸侯とともに、国家総動員体制で挙兵して反撃に出る。そしてルシアンとその支持者を全員処刑台送りにし、必ずや王都と王宮をこの手に取り戻してみせる」
私はしばし、息をするのを忘れてしまった。
……最悪の想像が当たってしまった。
「殿下は……戦争をなさるおつもりなのですか」
「先に兵を動かして王位を奪おうとしたのはルシアンだ」
かろうじて尋ねると、セドリック殿下は当たり前だとばかりに頷いた。
「すでに相手が武力へ訴えた以上、私が何もせず退けば、それこそ奴の思うままになる。幸い、私を支持する諸侯は大貴族も多い。戦力は充分整う」
「しかし、それでは多くの民が犠牲になってしまうのでは……」
「やむをえまい。由緒正しき神聖なる王の座を守るための尊い犠牲だ」
その殿下の声に、迷いは一切なかった。
言っていることは理解できる。
セドリック殿下からすれば、自分こそ正統な王位継承者である。それを異母弟が兵を使って奪おうとしている以上、こちらも兵を集めて奪い返す。
それ自体は決しておかしな考えではないのだろう。
けれど私は、つい先ほど王太后様と交わした話を思い返していた。
ルシアン殿下の戴冠を許せば、いずれ忠誠派は追い詰められる。そうなればセドリック殿下を支持する諸侯も黙ってはいないだろうし、最後には国を二分する大きな戦いになる。
だからこそ、その前にセドリック殿下を救わなければならない――私はそう思っていた。
なのに今ここで殿下を救い出せば、今度はそのセドリック殿下自身が忠誠派を集め、反逆派との戦いを始めるという。
これでは結局、戦いが起きる時期と、その主導権をどちらが握るかが変わるだけではないか……。
「フィーナ・ヴァレット。お前の力なら、ここから出ることはできるのだろう? いつ実行できる?」
考え込んでいた私に、殿下が急かすように声をかけてくる。
「……もう少しだけ、確認したいことがあります」
「確認だと? 何をだ?」
「それは、まだ」
これ以上ここで話していれば、巡回の兵士が帰ってくる。
「申し訳ありません、殿下。一度戻ります」
「待て、フィーナ。日没までにルシアンを止めなければならない。それだけは分かっているな?」
「……はい、もちろんです」
それだけ答え、私はその場を離れた。
――そう、猶予は日没までしかない。
階段を駆け足で下りながら必死に考える。
この時点で、私の心は固まっていた。
やはり今日一度しか使えない私の能力を、セドリック殿下に使うわけにはいかない。
たとえ殿下を助けても結局戦争が起きるなら、それは私にとって未来が変わらないのと同じことだ。
かといって何も動かなければ、そのまま王位はルシアン殿下のものとなってしまう。
(だったら、私が取るべき選択は……!)
◇
西塔を出た私は、その足で荷物通路を通って大広間へ向かった。
目的は一つ。
すでに王宮は反逆派の兵に占拠され、どう足掻いても日没までの短時間に彼らを王宮外に排除する手段はない。
ならば、止めるべきは彼らが王位を得るために必須である儀式の方だ。
新たな王さえ誕生しなければ、ひとまずはどちらの陣営にも状況は傾かない。権力を手にできなかったルシアン殿下はもちろん、幽閉されたままのセドリック殿下も動けない。
無論、これはあくまで現状維持の時間稼ぎのようなものだが、それでもすぐさま国を真っ二つにする戦争の道筋になだれ込むよりは遥かにマシだ。
現状は事態を正確に把握している者すら少ない。なんとかしばらくの猶予を生み出すだけでも、平和な未来への活路を開くきっかけになるはず。
だからこそ、まずはなんとしても「“戴冠の儀”の決行を阻止する」。
これが私の導き出した結論だった。
(もっとも、果たしてどうすればそれが実現できるのか……)
そう考えてなんとかアイディアを得ようと大広間の近くまで戻ってみると、そこではすでに儀式の準備が着々と進められていた。
王冠や礼装、儀式に使う杯や聖典など、普段は宝物庫に収められている品々が次々と運び込まれている。
大広間の中には兵士もいるため、さすがに私が無関係を装って入り込むのは難しそうだった。
そこで私は、廊下で慌ただしく準備を続けていた式典係の男性に目を付けた。
「あの、少しよろしいでしょうか」
私が声をかけると、男性はやや鬱陶しそうな顔で振り返った。
「今度はなんだ? こっちは朝から第二王子殿下の使いに急かされっぱなしで――」
「王太后様の使いです。式典の準備について、少し確認を」
「……王太后様の?」
男性は怪訝そうに私を見たものの、すぐに「それならまあ」という感じでため息をついた。
「ただし、悪いけど手短に頼むよ。日没までに全部整えろなんて、こっちだって無茶を言われてるんだ」
「ありがとうございます。そのことですが、今のところ準備はどの程度まで?」
「七割ってところかな。物はだいたい揃った。ただ、司式を務める大司教猊下をお呼びする段取りが、まだ教会側とついてなくてね。かといって第二王子側は早くしろと言うだけだし、こっちも困ってるよ」
「それは……大変ですね」
……なるほど。それを聞いてちょっとだけ安心した。
どうやらこの状況、すでに教会までもがルシアン殿下の指揮下にある――というわけではないらしい。
とはいえ、だとしても期待できるのはせいぜい式典開始が若干後ろにずれ込むくらいだろうけど。
やはりなにか根本を断つような手を打たないと。
「ちなみに、ついでにもう一つよろしいでしょうか?」
「ん? なんだい?」
「いえ、大したことではないんです。ただ、ちょっと心配に思ってしまって……」
私はそれとなく……それでいてあくまで「不安で震えるいたいけな使用人」の体で切り出す。
「その、率直に申し上げて、今の宮殿内はとても落ち着いているとは言えない状況ですよね。兵士のみなさんも頑張ってくれていますが、人手も少々足りなさそうに見えますし」
「まあ、たしかにな。普通ならこれだけ大事な式典だ。地方から諸侯を呼んだり、他国から客人を招いたり、警備だってもっと大がかりになる」
「ですよね。となると、はたしてこの状況で最後まで問題なく式を行えるのかと。王太后様も、その点を大変気にされておりまして……」
もちろん嘘です。ただ、ここは嘘も方便。
男性は少し考えるように唸ったあと、肩をすくめた。
「まあ、いつも通りの戴冠式は無理だろうな。祝宴もパレードも、呼べない客は呼ばない。けど、そこを削ったところで儀式そのものができなくなるわけじゃない」
「と、言いますと?」
「要するに、外せないところだけやればいいのさ。結局のところ戴冠の儀ってのは、名前のとおり新しい王様が王冠を被って大司教様に向かって宣誓するまでがメインだろ? でもってあとは、歴代の王様たちが使ってきた“アレ”に座っちまえば終わりだ」
そう言って、男性は大広間の奥を顎で示す。壇上の中央には、巨大な灰色の椅子が鎮座していた。
《石玉座》。
歴代国王が戴冠の際に使ってきた、一枚岩でできた由緒正しき玉座である。
その歴史はかなり古く、我が国の建国以前まで遡ると言われる。ある意味では、この国の象徴とも言うべき存在だ。
儀式の中で、新王は大司教様の前で宣誓を終え、最後にあの石玉座へ腰を下ろす。それをもって一連の戴冠は完了し、正式に新たな王が誕生する。
逆に言えば、祝宴や行進などをどれだけ省略したところで、王冠を戴いて石玉座に座ってしまいさえすれば、儀式は成立するということだ。
「誰かが、あの玉座に座りさえすれば……」
私はその事実を反芻しながら、じっと石玉座を眺めた。
そして閃く。
(そうか……その手があったわ!)
私は内心の興奮を抑えつつ、男性を振り返る。
「……では、もしもですよ? 大司教様がいなかったり、あの玉座を別の椅子で代用したりした場合はどうなります?」
「正式な戴冠とは認められないだろうな。少なくとも諸侯や市議会が、新王として承認する義務はなくなる。だからこっちも必死で準備してるんだよ」
「なるほど」
……よし。思った通りだ。
「ありがとうございました。準備のほう、引き続きがんばってください」
「あいよ。そっちもお使い、ご苦労さま」
私は男性と別れると、弾けるようにその場から離れた。そしてそのまま早足で廊下を移動する。
向かった先は、王宮管理局の記録庫。
探すのは、大広間に関する古い修繕記録。たしか数年前、大広間の床を大規模に補修したことがある。私自身も当時、資材運びを手伝った覚えがあった。
棚から関係しそうな図面を何枚か引っ張り出し、机の上に広げていく。
「ええと……あった」
見つけたのは、石玉座周辺の床面図だった。
玉座は床そのものと一体になっているわけではない。転倒を防ぐため、四本の金属製固定具によって壇上に留められているだけだった。
つまり、それを外せば床から切り離すことはできる。
もちろん、普通ならそこまでしたところで意味はない。数トンはある石の塊なのだから、固定具がなくなったところで誰にも動かせないからだ。
でも、私なら――。
さらに図面を確認すると、大広間の壁面装飾の一部が取り外し可能になっていることも分かった。
大広間では大規模な式典や宴が行われるため、ときには普通の扉を通らないような大型家具や舞台設備を運び込む必要がある。
そのため、普段は壁にしか見えない一部が搬出口になっており、その先は荷物通路へ繋がっていた。
そこから先ならよく知っている。
家具や食材を運ぶために、私たちが普段から使っている道だ。
私は図面を抱えて大広間の脇まで戻り、壁面装飾の継ぎ目を自分の目でも確かめた。
「うん、ここも外せる」
この先を荷物通路に沿って進めば、建物の外へ出られる。そしてそのまま屋外広場を突っ切れば、王宮外まで抜けきることができる。
そこまで確認したところで、ようやく一つの考えが形になった。
「……いける。これなら、きっと」
ここまで来れば、あと必要なのは協力者だけ。
私は胸の前でギュッと拳を握りしめ、すぐさま使用人室へと戻った。
◇
「……なんですって!? 《石玉座》を、王宮の外まで運び出す!?」
使用人室の応接テーブルで話を聞いたマルタさんは、しばらく言葉を失っていた。
私が彼女に説明した内容はこうだ。
――誰かがあの石玉座に座れば、戴冠の儀は成立する。
――ならば逆に、誰も座れないようにしてしまえばいい。
実に単純明快な論理である。
儀式に欠かせない石玉座そのものを大広間から運び出してしまえば、少なくとも今日、ルシアン殿下が戴冠を強行することはできなくなる。
セドリック殿下を助けて忠誠派に加担する必要もない。どちらか一方を勝たせるのではなく、それでいて誰も王になれない空白の時間を作ることができる。
しかも、うまくいけば一滴の血も流さずに。
……ふっ、我ながら完璧な作戦だ。
「しかし、どうやってそのような大それたことを……」
マルタさんは感心したような、けれども若干呆れた様子で尋ねてきた。
「もちろん、私の力を使います。固定具さえ外してしまえば、あとは玉座本体の重さを消すことで運搬は可能です」
私の力――つまりは『触れたものの重さを軽くできる』能力。
私は持ってきた図面を机へ広げ、玉座を固定している四本の金具と、大広間の壁面にある搬出口を順に指し示す。
「ここからいつもの荷物通路へ出られます。そのまま王宮前広場まで運べば、あとは門外まで突っ切るだけです」
「でも、軽くなったとしても、あなた一人では運べないでしょう?」
「ええ。重さがなくなっても大きさは変わりませんから。角を曲がるにも、壁や人にぶつけないよう姿勢を保つにも、ある程度の人数が必要です。それに固定具を外せる修繕工の方にも手伝ってもらわないと」
私がそこまで説明すると、マルタさんは図面から顔を上げた。
「なるほどね。それで私に相談に来たと」
「はい」
さすがマルタさん。理解が早い。
「でもフィーナ。あなた、王太后陛下からは王太子殿下を救出するように言われているんでしょう? それを無視して、そのうえ国の象徴を王宮の外へ持ち出すなんて前代未聞の行い……後でどんな処分を受けるかわからないわよ」
「承知しています。ですがこのまま戦争になるくらいなら、私はこの作戦をやるべきだと思います」
私はきっぱりと言い切った。
「正直なところ、ただの平民である私には出過ぎた行動なのはわかっています。ですが、このまま何もせずに大勢の人が死ぬ未来に突き進むなんて嫌です。ましてや、その手助けになるような命令のために自分の力を使うなんてまっぴらごめんです」
そうとも。
「私はこの力を使うなら、せめて誰かを救うために使いたい」
これは私が物心ついて、この不思議な能力を持っていることに気づいてからずっと思ってきたことだ。
力を持って生まれた責任感……というほどでもない。
極めて単純な、人として当たり前に備わっている感情。困っている人がいたら助けたいとか、他人の役に立ちたいとか、そういう気持ちからくるもの。
あとは強いて言うなら、曲がりなりにも『荷運び係』などという――決して大層なんて言葉からはほど遠いけど――そんな呼び名で認知されるまで、ずっと王宮内で働いてきた私なりのプライドのようなものだろうか。
そして私は、深々と頭を下げた。
「お願いします。力を貸してください、マルタさん」
マルタさんはしばらく黙っていた。
やがて小さく息を吐き、もう一度図面へ視線を落とす。
「……何人必要なの?」
「!」
マルタさん……。
「修繕工の方が二人か三人。それと、運ぶ人はできるだけ多い方が助かります。ただし人数が増えすぎると目立つので、その辺りはマルタさんにお任せしたいです」
「分かったわ。事情と危険はきちんと話す。それでも協力すると言った者だけ連れてくるわ」
「ありがとうございます」
私がもう一度お辞儀をすると、マルタさんはフッと笑った。
「ただし、誰も集まらなくても恨まないでちょうだいね?」
「はい! もちろんです!」
そうしてマルタさんは、協力者を募るために部屋を後にしようとする。
「あ、そうだマルタさん。それからついでに、もう一つだけお願いしてもいいですか?」
「……まだあるの?」
「すみません。でも、作戦の成功率を上げるためです」
これもまたマルタさんにしか託せないこと。
追加の頼み事を伝えると、マルタさんは少し考えたあと、「分かった。お願いしてみるわ」とだけ答え、今度こそ使用人室を出ていった。
「さてと。私もただじっと待っているわけにはいかないわね」
果たして本当にマルタさんが協力者を連れてきてくれるか、そこはもう祈るしかない。だったら、こっちはこっちでやるべき準備を進めよう。
私はもう一度記録庫へ戻ると、先ほど見つけた図面を机いっぱいに広げ、今度は大広間から王宮前広場までの運搬経路を確認していく。
能力の持続が三十分という制限を考えれば、一度でも行き止まりになったり、途中で運び方を考え直したりしている余裕はない。
搬出口から荷物通路へ入り、途中の角を二つ抜けて外へ出る。玉座そのものは相当大きいので、曲がる場所では前後を入れ替える必要がありそうだけれど、通路の幅は問題ない。天井の高さについても、普段から大型家具を運び込むための経路なので玉座を傾ければ十分に収まるはずだ。
「ここを曲がって……あとは真っ直ぐ。うん、大丈夫そう」
――と、そうして私が図面の上を指でなぞっていると、記録庫の外から誰かが私の名前を呼んだ。
「フィーナ・ヴァレットはいるか?」
「はい?」
扉から顔を出すと、見覚えのない男性が立っていた。衣服についた紋章を見て、すぐに王太后様の従者だと気づく。
「探したぞ。王太后陛下がお尋ねだ。王太子殿下の救出準備は、まだ整わないのか? というより、なぜこんなところにいる?」
「えっと……」
まずい。
そういえば自分の計画に夢中で、すっかりそちらに関する報告を忘れていた。
「も、申し訳ございません。実際に西塔を確認したところ、天窓の大きさが思ったより狭く、現在殿下のお身体が問題なく潜り抜けられるか図面を確認中でして。実は殿下とも少しお話したのですが、殿下ご自身も最近お菓子を食べ過ぎてお腹周りが少々気になる……とご懸念しておりましたゆえ」
とんでもなく不敬なことを言っている気がするけれど、なんとか誤魔化す。
「しかし、日没まで時間はないぞ」
「ええ、もちろん存じ上げております。できるだけ急ぎますので、もう少しだけお待ちいただきたいと王太后様にお伝えください」
従者はまだ何か言いたそうな顔をしていたものの、最終的には「分かった」とだけ答えて去っていった。
「……ふぅ」
危なかった。
今のところ王太后様は、私がまだセドリック殿下を救い出すために動いていると思っている。
けれど、いつまでもそれで通せるはずもない。次に呼び出されたときには、もう言い訳だけで済まなくなるかもしれなかった。
「フィーナ」
そんなことを考えていると、今度は聞き慣れた声がした。
振り返れば、そこにはマルタさんが立っている。
そしてその後ろには求めていた修繕工だけでなく、侍女や料理人、庭師まで十人ほどの使用人が集まっていた。
「……こんなに?」
「事情を説明したら、思ったより残ったのよ」
「皆さん、本当にいいんですか?」
思わず確認すると、料理人の一人が苦笑した。
「王族に仕えるのは仕事ですけどね。王族同士の喧嘩で家族や仲間まで巻き添えを食うのはごめんですよ」
「俺たちに剣は振れないが、荷物を運ぶくらいならできる。だったら、そっちで何とかする方がまだ性に合ってるさ」
「それに、フィーナにはこれまで何度も仕事で世話になったもの」
ほかの人たちも、それぞれ似たような理由で頷いている。
「……ありがとうございます。よろしくお願いします」
これで玉座を運び出すための人手は揃った。
あとは、実行するだけだ。
◇
私たちは戴冠の準備に紛れ、それぞれ普段の仕事を装いながら大広間の周囲へ散った。
修繕工の方々は工具箱を持って床や設備の最終点検をしているふりをし、侍女たちは室内の清掃、料理人たちは式典後の配膳準備を理由に出入りする。庭師たちも運搬を手伝う使用人として荷物通路側へ回ってもらった。
大広間の内外には、当然ルシアン殿下の兵士がいる。
ひとまずこちらが怪しまれている様子はない。けれど、だから安全というわけでもなかった。
普段と違う場所をうろつけば呼び止められるし、工具の使い方一つでも不審に思われればそこで終わり。全員がそれぞれの仕事を続けながら、少しずつ決めておいた位置へ移っていく。
私も何食わぬ顔で大広間へ入り、壇上の様子を確認した。
石玉座は当然、まだそこにある。
その周囲では式典係が絨毯のずれを直したり、儀式に使う道具を並べたりしていた。先ほど話を聞いた男性も、相変わらず慌ただしく人へ指示を飛ばしている姿が見えた。
「そこの燭台、もう少し右だ! 終わった者はいつまでも残ってないで外へ出てくれ。そろそろ中を閉めるぞ!」
その声に、思わず大広間の入口を見る。
巨大な扉のそばでは、兵士たちが出入りする使用人を確認し始めていた。
別に私たちの計画が露見したわけではない。
戴冠の時間が近づいてきた以上、準備を終えた使用人を外へ出し、大広間を閉鎖するのは当然の流れだ。
でもだからこそ、もう時間がない。
ここで室外へ追い出されてしまえば、二度と石玉座へ近づくことはできないだろう。
私たちは互いに目配せを交わし、最後の床確認を装いながら壇上へ近づいた。
幸い、石玉座の足元はこれから王が座る場所ということもあって、式典前の点検だと言えば修繕工が近づいても不自然ではない。
ただ、もちろんいつまでもそこで作業を続けていれば怪しまれる。
やるなら今しかない。
「……お願いします」
私は隣にいる修繕工へ目を向ける。彼はゴクリと唾を飲み、「わかりました」としゃがみ込んで工具箱を開いた。
石玉座を壇上へ留めている固定具は四本。
そのうち最初の一本へ工具がかかり、ギッと金属同士が擦れる小さな音がした。
修繕工の方は何食わぬ顔で床の点検を続けているように見せながら、少しずつ固定具を緩めていく。
大広間ではすでに準備を終えた使用人が順番に外へ出され始めている。残っている者が減れば減るほどこちらも目立つので、悠長にやっている時間はなかった。
一方、壇上から離れた場所では、侍女たちが壁面装飾を拭き上げるふりをしながら搬出口の留め具を外している。
「よし、まず一本目」
修繕工が小さく告げる。
続いて二本目。
三本目。
その間にも、大広間の入口から兵士の声が飛んでくる。
「作業の終わった者は早く出ろ! まもなく扉を閉めるぞ!」
私はチラリと石玉座を確認しつつ、同じく大声で返事を返す。
「承知しました! 急ぎますので少々お待ちを! 皆さんは先に外へ出ていてください!」
そう答えると、兵士たちはぞろぞろと扉の向こうへ。
一方、こちらは最後の固定具に工具がかかる。そしてややあってから――。
カチャリ。
「……外れたぞ!」
これで四本すべて。
ついに石玉座は、完全に壇上から切り離された。
「ありがとうございました。では皆さん、ここからが“本番”です」
私は玉座の側面へ手を伸ばし、軽く息を吐く。
一日に一度、『触れたものの重さを三十分だけ軽くできる』という私の能力。
それを発動させた瞬間、見た目には何も変わっていない巨大な石玉座から、数トンもあったはずの重量が消え去った。
「本当に……いけるのか?」
修繕工の一人が呟く。どうやら彼はこの力を初めて見るらしい。
「どうぞ、試してみてください」
私に促されて男性が恐る恐る軽く押してみると、石玉座がわずかに床の上を動いた。
「うわ、軽っ……!」
「へへへ、すげぇだろ。俺も初めて見たときは大層ビビったもんだぜ」
思わず目を見開いて固まる後輩の姿に、隣に立つ先輩の修繕工が得意げに笑う。
「お、驚きました……いや、ほんとに。噂には聞いてたけど、マジですごいっすね」
「お褒めに預かり光栄です。ですが、感心するのはここまでにしましょう。早くしないと兵士の皆さんが様子を見に戻ってきてしまいます」
なにより、私たちには時間がない。
タイムリミットがたった三十分であることを考えれば、猶予はほとんどないと言ってもいい。
途中で一度でも大きく手間取れば、王宮外へ出る前に“重さ”が戻ってしまい、次に能力が回復する明日まで石玉座の運搬は不可能となる。
そうなったら万事休す。作戦は失敗だ。
「では前に三人、後ろに三人。左右にも一人ずつついてください。あ、見ての通り軽くなっても大きさはそのままなので、距離感を間違えないよう気をつけてくださいね」
私自身、能力で家具や資材を運んだ経験ならいくらでもある。
ただ、さすがに歴代国王の石玉座を運ぶのは初めてだ。
全員で位置につき、慎重かつ手早く玉座を動かしていく。
ちょうどその頃、壁際では搬出口の準備も終わっていた。装飾板の一部が取り外され、その奥に普段使っている荷物通路が口を開けている。
「もう少し右です。そのまま……はい、そこでストップ!」
大きさのせいで向きを変えるだけでも気を遣うけれど、それでも重さがない分、動かすこと自体は難しくない。
ほどなく石玉座は大広間を抜け、荷物通路へ滑り込んだ。
「見張りは……大丈夫そうですね」
なお、運搬係以外の協力者にもそれぞれ役割はある。
各所に配置された侍女たちは通路の先を確認し、兵士の姿がなければ合図を送る。その間に私たちは石玉座を進め、次の角まで運ぶ。
一度、巡回中の兵士と鉢合わせしそうになったときは、別の侍女が先に曲がり角を出た。
「あの、すみません! 式典用の布を運ぶよう言われたのですが、保管場所が分からなくて……」
「それは俺に聞くことじゃないだろう」
「で、ですよね~。あはは、申し訳ありません。でも式典係の方にも早くしろと言われてしまって――」
兵士が足を止めている間に、私たちは石玉座を反対側の通路へ押し込む。
「今です。ゆっくり、でも急いで!」
料理人たちも配膳用の台車や荷物を動かし、通路の向こうから玉座が見えないようにしてくれている。
「次、左です。ここは少し狭いので、後ろを振って角度を整えましょう」
「分かった。そっち持つぞ!」
修繕工と庭師が石玉座の背を支え、ゆっくり向きを変える。事前に図面を確認していたおかげで、この辺りの判断にも迷いはない。
(いける……このペースなら!)
その後も各々が臨機応変に対応し、私たちはスムーズに王宮内を進み続けた。
「そういえばさ」
ただそこで、運搬係の一人が移動を続けながらふと口を開く。
「今さらなんだけど、これ王宮の外まで出した後はどうするんだ? まさか、その辺に置いておくわけじゃないよな?」
「ああ、それなら大丈夫です。運び先は決めてありますから」
「どこだ?」
「“市庁舎”です」
「……市庁舎?」
周囲から怪訝そうな声が上がった。
「それって、王宮前広場の向かいにある市庁舎だよな?」
「はい。そこです」
「いやいや、ちょっと待て。王家の玉座なんて突然持ち込んで、本当に預かってもらえるのか? 向こうだって困るだろ」
「あ、そういやたしかに」
反対側を支えていた男性も同意する。
彼らの懸念はもっともだ。
なにせ大きさ以前に、この石玉座は国の象徴とも言うべき最重要アイテム。
いきなり「ちょっと王宮からパクって来たので、しばらく置かせてくれませんかね? てへっ」などと頼まれたところで、おいそれと「どうぞどうぞ」とはならないだろう。
下手をすれば、門をくぐるより前に追い返されてもおかしくない。
……が、ご安心あれ。その点に関しても、ちゃんと手は打ってある。
「え、そうなんですか?」
「はい。ですよね、マルタさん?」
私が自信をもって振り返ると、同伴していたマルタさんははっきりと頷いた。
「ええ、心配いらないわ。市議会や市庁舎の職員たちには、すべて話は通してあるから。玉座を一時的に預かってほしいことも、どちらの王子にも引き渡さないでほしいことも含めてね」
「なんと!」
周囲から驚きの声が上がる。
一方、そのことを知っていた私だけはにこやかにほほ笑む。
「さすがマルタさん。使用人歴三十年は伊達じゃないですね」
「よく言うわ。これでも相当苦労したのよ?」
「ふふ、すみません。でも、マルタさんを置いて他にこんなことを頼める人なんていませんでしたから」
そう――これこそが協力者を募る際、マルタさんに頼んでいた『もう一つのお願い』の正体だった。
石玉座を王宮の外へ運び出したところで、そこで放置していては意味がない。
私の能力が切れれば数トンの重さに戻るとはいえ、ルシアン殿下やセドリック殿下を支持する兵士たちが大勢で取り囲めば、いずれ運び戻されてしまうだろう。
だからこそ、その前にどちらの陣営にも属さない場所へ預ける必要があった。
そこで私が目を付けたのが市庁舎――そこを管理する市議会だった。
民間の代表たる彼らであれば、立場上は限りなく中立に近い。石玉座の保護を求めるには打ってつけの相手と言える。
加えて、市庁舎は王宮前広場を挟んだ向かいにあるため距離的にも都合がいい。
あとの問題はさっき述べた通り、そんな突拍子もない話を短時間で受け入れてもらえるかどうか。
きっと普通に私が頼んだところで、それこそ門前払いだったと思う。
でも、長年王宮の使用人長を務めてきたマルタさんなら話は別だ。方々に顔が広く、彼女だからこそのつながりも多い。
だから私は、交渉のすべてをマルタさんに託したのだ。
「それで、実際のところ市議会からは具体的になんと?」
「そうね。議長が仰るには、『市議会として王位争いそのものに加担するつもりはない。ただし、我々も流血は望まない。よって、王宮内で戦闘が起きるのを防ぐための一時保護であれば協力する』――だそうよ」
なるほど。概ね思った通りの返答ね。
「もっとも、最初に事情を説明した際は目を丸くしてたけどね。そりゃそうよね。国の象徴である石玉座を王宮から奪い取ろうだなんて頭のおかしな発想、誰だって思いつかないもの。危うく私が病にかかっておかしくなったと思って、医務官を呼ばれるところだったわ」
「あはは……」
呆れたように返すマルタさんに、私は苦笑いで答える。
それでも他の人たちは、「さすが使用人長だ」などと感心した様子で頷いていた。
「ともあれ、これで後顧の憂いも断たれましたね」
あとは市庁舎まで、この玉座を無事に運び込みさえすれば――。
「――おい、石玉座が消えているぞ!」
遠くから聞こえた怒鳴り声に、全員の肩がビクッと跳ねた。
「ほ、本当だ……! 誰かが盗んだのか……?」
「あんな馬鹿でかいものをか!? いったいどうやって……!」
「そんなことよりどこへ行ったかだ! 探せ! とにかく探すんだ!」
続けて響く声とともに、王宮内が一気に騒がしくなる。
「……くっ。やっぱりバレましたか」
当たり前といえば当たり前だ。
いくら人目を避けて運んだところで、大広間からあれだけ巨大な玉座そのものが消えているのだから、いつまでも隠し通せるはずがない。
むしろ、ここまで気づかれなかっただけでも十分だった。
複雑な通路はもうほとんど抜けている。
あとは王宮前広場まで、ほぼ一直線だ。
「みなさん、ここからはスピード勝負です! あと少し、頑張って!」
こうなった以上、もはやコソコソ忍ぶ必要はない。
全員で石玉座を支え、これまでより一気に速度を上げる。
後ろから兵士たちの足音が響いてくる。
「いたぞ! おい貴様ら、止まれ!」
止まれと言われて止まるなら、最初からこんなことはしていない。
「見えました! 最後の扉です!」
荷物通路と王宮外をつなぐ扉を抜ける。
その先に見えたのは王宮前広場と、その向こうにある市庁舎だった。
しかも市庁舎の門はすでに大きく開け放たれ、こちらを待ち構えるように何人もの職員が立っている。
「来たぞ! 門をもっと開けろ!」
「こちらです! そのまま中へ!」
私たちは広場を突っ切った。
後ろから追ってきた兵士たちも、さすがに市庁舎の敷地へそのまま踏み込むことは躊躇したらしく、わずかに足が鈍る。
その隙に門を抜け、用意されていた頑丈な台の前まで石玉座を運ぶ。
「せーの!」
全員で向きを整え、その上へ載せる。それから、ほんの少しして。
ズンッ――と。
能力が切れ、石玉座が元の重量を取り戻した。
頑丈な台がわずかに軋む。
「……ま、間に合った」
ようやく手を離した瞬間、一気に全身から力が抜けた。
重さ自体はほとんど一切感じていなかったはずなのに、三十分近く巨大な玉座を支え、兵士に見つからないよう神経を張り詰め続けていたせいで、周りでもその場へ座り込む人が続出している。
「皆さん、お疲れ様でした。本当にありがとうございます」
「いやあ……もう二度とやりたくないな、王様の椅子運びなんて」
「肝が冷えたぜ……」
ええ、私もです……。
その後、市議会の方々からは改めて王位継承の争いが決着するまで石玉座をここで預かるとの言葉をもらった。
これで玉座の安全は保障され、少なくともすぐに誰かが王宮へ持ち帰ることはできない。
こうして、石玉座奪取という前代未聞の計画は無事に成功した。
――かのように思われたのだが。
「フィーナ・ヴァレットはどこだ!」
休む間もなく、聞き覚えのない怒声が響いた。
市庁舎の門から入ってきたのは、兵士たちを従えた若い男性。
第二王子、ルシアン殿下だった。
「王室財産を無断で王宮から持ち出すとは、何を考えている! ただちに石玉座を返せ!」
どうやら状況証拠的に、私が主犯であることはバレてしまっているらしい。
まあ、こればっかりは仕方ない。あんな大きな物をどうやって少人数で運び出したのかを考えれば、当然の帰結と言える。
その少し後には、別の一団も姿を現した。
「フィーナ!」
今度は王太后様だ。
「これはいったいどういうことです! 私はセドリックを救出するよう命じたはず。なぜこのようなことを……!」
さすがに、ここまで来れば誤魔化しようもない。
私は石玉座の前へ立った。
「申し訳ございません、王太后様。ですが私は、この玉座をお二方いずれの陣営にも渡すつもりはありません」
「なんだと?」
ルシアン殿下が険しい顔になる。
「貴様、自分がいったい何をしたのかわかっているのか? その玉座は貴様のものではない。ましてや、本来は触れることすらおこがましい代物なのだぞ。それをあまつさえ強奪したなど、万死に値する大罪だ」
「この行いが不敬であることは重々承知しております。ですが、そうせざるを得ない理由がありました」
「……なに?」
殿下の一層鋭い視線が突き刺さる。周囲の兵士たちも、今すぐ斬りかかって来てもおかしくない剣吞な空気を放っている。
でも、ここで引くわけにはいかない。
「……正直なところ、私はルシアン殿下とセドリック殿下のどちらが王にふさわしいのかなんて分かりません。むしろ、どちらが王になっても構わないと思っています」
「だったら――」
「ですが」
私はしっかりと前を向き、言い切った。
「互いに兵を集め、武力でもって相手を潰した方が王になる……そんな決め方では、真の王とは呼べないと思います」
そうだ。
しかもその過程では、大勢の国民が民兵として駆り出されて巻き込まれる。自国の王を決めるために、自国の民たちが傷つき合い、血を流して倒れていくなんて。
そんなのは馬鹿げている。
「王様は、本来この国に暮らす人たちを守るためにいるんじゃないんですか? その人たちを血に染めてまで奪い取った王位で、そのあとどんな国を作るつもりなのか……私には想像がつきません」
王太后様も何か言いかけたけれど、私は構わず続ける。
「だから私は、自分の力をその争いに使えませんでした。王位を争うのであれば、どうか兵をぶつける以外の方法で、改めて正面から決着をつけてください」
最後にそう告げると、辺りがしんと静まり返る。
さて、私の想いは伝えた。
あとはこれを、それぞれの陣営がどう受け止めるか。特に、この場にいるルシアン殿下と王太后様がどう答えるのかを待つしかない。
先に動いたのは、王太后様だった。
「……正面から決着を、ですか。少なくとも私は、その考え自体に異論はありません」
王太后様は愛用の扇で口元を隠しながら、横目でルシアン殿下へ視線を送る。
「ですが、まずそちらが兵を退かせるのが先でしょう。王宮を占拠し、セドリックを無理やり監禁などという非道な行いをされたままでは話し合いも何もありません」
ルシアン殿下の眉がわずかに動いた。
「非道な行い……か。ならばこちらも言わせてもらいますが、父上の死に不審な点があるのはれっきとした事実だ。それを何の調査もせず、セドリックを自由にしておけという方が無理な話でしょう」
「これは異なことを。なぜそこでセドリックが出てくるのです?」
「決まっています。父上が急死して最も得をするのはセドリックだからですよ。なんの準備もなく突然王座が空位になった場合、ひとまずは継承権の一番上位にいる者がその座を受け継ぐのが慣例ですから」
「口を慎みなさい、ルシアン。それではまるで、我々が陛下を死に追いやったと言っているように聞こえますよ?」
「ええ、ですからそう申し上げているのです」
「なっ……!?」
王太后様の声が一段大きくなる。
「いい加減にしなさい! よくもそんな根も葉もない妄想をぬけぬけと! そんなことより、兵を使って王宮を占拠したのはそちらでしょう! それこそ疑いようのない明確な犯罪行為です!」
「こちらが動かなければ、お前たちは逆にセドリックをその日のうちに即位させていただろう! だからこちらが先に動いたのだ!」
「それが不遜だと言っているのです! ただの妾の子風情が――!」
……やっぱり、こうなるのか。
そこから先は聞くに堪えなかった。
どちらも自分が先に争いを始めたわけではないと言い、相手に原因があると譲らない。それどころか出自や普段の日常に関することまで、嘘か誠か分からない暴言を吐き合って相手を貶めようとする口論が続いた。
私たちは口を挟まず、その応酬を見守った。
やがて痺れを切らしたのか、ルシアン殿下が石玉座へ目を向ける。
「……くっ、もういい! もはや玉座を取り戻す必要などない! 今すぐここで戴冠の儀を執り行うぞ!」
え?
「そうとも、なにも玉座が消えたわけじゃないんだ。正式な石玉座がここにある以上、王宮から残りの品々をここまで運ばせれば、この市庁舎でも儀式は行える」
予想外の提案に、私は思わず固まってしまう。
無論、王宮外で戴冠の儀を行うなど長い王国の歴史でも前代未聞だ。
でも言われてみれば、たしかにできないこともない。石玉座を王宮からなくすことばかり考えていたけれど、向こうが玉座のある場所まで来てしまえば条件は成立する。
(しまった。まさかそんな手があったなんて……)
想定外の事態に困惑する一同。けれどその間にも、ルシアン殿下は反逆派の部下たちに指示を出して準備を進める。
しかしこの状況に、もちろん王太后様率いる忠誠派も黙ってみているわけにはいかない。
「ま、待ちなさい、ルシアン! そんな勝手は認めません! あなたたち、今すぐ彼らを止めなさい!」
「そうはさせるか! おい、こちらも応戦しろ! 奴らを決して玉座に近づけさせるな!」
それぞれのリーダーの指示に呼応するように、両勢力の兵士たちが武器を構えて動き出す。
ま、まずい。このままでは――。
結局、争いは始まってしまうのか。国を二つに分かつ、大いなる内戦が。
そのときだった。
「――お二人とも、もうその辺りで矛を収めましょう」
突如として響いた威厳のある声に、兵士たちの足が止まった。
ルシアン殿下も王太后様も言葉を切り、私も含めたその場にいた全員が声のした方へ振り返る。
あのお方は……。
「……“大司教”様?」
市庁舎の奥から現れたのは、まさかの大司教猊下だった。
ど、どうしてここに……?
たしか大広間の式典係は、まだ教会側と大司教様をお呼びする段取りがついていないと言っていたはずだ。
ということは、てっきりまだ教会にいるものだとばかり思っていたのに。
恐らくは同じ疑問を抱いたのだろう。ルシアン殿下が驚いた様子で尋ねる。
「だ、大司教殿、なぜあなたがもうこの場所に? まだ王宮から使いを送って数分と経っておりませんが……」
「王宮からではありません。私がここへ来たのは、市議会を通じてです」
「市議会?」
戸惑うルシアン殿下に、大司教様は穏やかに答えた。
「なに、それほど驚くようなことではございませぬ。教会の信徒は議会にもおりますからの。その者たちから『石玉座を一時的に保護してほしい』という相談が持ち込まれたことを聞きましてね。それで状況を確かめるため、こうして私も参った次第です」
ああ、なるほど。そういうことか。
私たちの計画は、マルタさんを通じて市議会に話を通してあった。であれば、そこから議会内にいる信徒を介して、教会側にまで情報が伝わっていても不思議ではない。
大司教様はそのまま、ルシアン殿下と王太后様へ視線を向ける。
「此度の騒動に関する事情についても、おおよそのところは聞いております。その上で私の意見を言わせてもらうならば、国王陛下が亡くなられ、国が大いに揺らいだその日のうちに次の王を即座に決めるというのは、いささか性急に過ぎるのではありませんか」
「し、しかし大司教殿、王位をいつまでも空けておくわけにもいかない。なにより戴冠の儀をいつ行うかは法にも記載がなく、王家の判断に委ねられている」
ルシアン殿下はそう言ったものの、先ほどまでとは明らかに様子が違っていた。
「ええ。ですが戴冠の儀の運営には、教会も密接に関わります」
大司教様は石玉座の前にいる私へ目を向けた。
「それに、王位を巡る争いによって多くの人間が血を流すことを拒んだ――この者の主張には、少なくとも耳を傾けるだけの理があります」
「……大司教ともあろう地位ある者が、一介の使用人の女ごときの肩を持つというのか。それも、神聖な石玉座を持ち出した痴れ者だぞ」
「主張が正しいかどうかと、その者の身分は別の話でしょう」
「うっ……」
静かだが重みのある言葉に、ルシアン殿下の表情がさらに揺らぐ。
「ともかく教会としては、今日この場で戴冠の儀を行うことに賛同は致しません」
きっぱりと言い切られ、ルシアン殿下も王太后様も、両者ともに目に見えて言葉を詰まらせる。
その様子を見ながら、私は大広間で式典係から聞いた話を思い出していた。
戴冠に必要なのは、石玉座だけではない。大司教様の前で宣誓を行い、歴代国王が使ってきた石玉座へ座る。そこまで終えて初めて、正式な戴冠として認められる。
つまり教会が反対の意を示している以上、式は決して成立しない。
たとえどちらの陣営であっても、今日ここで新たな王を生み出すことはできないのだ。
「それでも戴冠を強行なさるというなら、どうぞご自由に。ただし、私は一切関与しませんがね」
そのひと言が最後だった。
ルシアン殿下は目を見開いたまま固まり、王太后様も大司教様を見つめたまま言葉を失っている。
さっきまで争い合う直前だった兵士たちも、次々と武器を地面へ落とした。
「フィーナ」
隣から呼ばれて振り向くと、マルタさんがこちらを見ていた。
疲れ切った顔。それでも、口元には笑みが浮かんでいる。
「やったわね」
「……はい」
私も笑い返した。
周囲にいた修繕工や侍女、料理人などといった私の作戦の協力者たちも、ようやく張り詰めていた表情を崩していく。
「終わったぁ……」
「本当に間に合ったんだな」
「もう二度と王様の椅子なんて運びたくないぞ」
誰かがその場にへたり込み、それを見てみんなが笑った。
私もつられて笑いながら、もう一度マルタさんと顔を見合わせる。
次の王が誰になるのかはわからない。それでも、兵を集めて相手を潰した方が王になるという最悪の形は回避できた。
それを防いだのは紛れもない、ここにいるみんなの勇気ある行動のおかげだ。
――こうして、王国を二分しかけた今回の騒動はついに幕を下ろしたのだった。
◇
その後、事態は思っていたよりも早く鎮静化した。
大司教様がどちらにも戴冠を行わないと宣言した以上、ルシアン殿下側も王宮を占拠し続ける意味を失い、セドリック殿下は西塔から解放された。
王太后様の側もすぐに兵を挙げることはせず、双方とも当面は軍事行動を控え、王位継承について改めて話し合うことで合意した。
新たな国王もすぐに決めることはせず、王位はしばらく空位のまま。石玉座については、そのまま市議会が預かることになった。
後に、この一件は『空位の玉座事件』と呼ばれることになる。
一人の王が亡くなったあと、いったい誰が、どんな手続きで次の王を選ぶべきなのか。
この事件が起きたことで、それまで王家や一部の貴族だけで決められてきた問題について、市議会や地方の諸侯、そして国民まで巻き込んだ議論が始まるきっかけとなった。
さらには長い年月を経た後、この国は王家だけに統治を委ねる体制そのものを見直し、やがて民主制へと移っていくことになる。
歴史書では、この事件がその大きな契機の一つだとも記されている。
もっとも。
その始まりに、かつて王宮内で『荷運び係』と呼ばれていた一人の平民の少女がいたことは、後世ではさほど知られていない。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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