恥辱
山道を登っていくと、急に視界が開け、小さな集落へ入っていった。小高い丘の上に友人の家がある。
「いい眺めだろう、これが気に入ったのさ」友人は言ったものだ。見渡す限りの森林、緑のパノラマは確かに素晴らしい。最寄りの駅からバス、タクシー代合わせて3100円かかるということを除けば。
小高い丘の前でタクシーを降りた。丸太の階段を上っていく。セミがシュワシュワ鳴いている。近年は暑すぎてセミが鳴かなくなった、が、山間の涼しい地域では旺盛だ。セミには疑惑が一つある。ある夏、お客さん宅を訪問中に、庭先で逃げ飛んだセミに出くわした。こめかみをブブブ!と掠めていったのだ。その時顔に冷たい雫がかかった、雨など降ってない、天気雨の可能性はある。最も可能性があるのはセミの尿だろう。しかしあれほど冷たいものだろうか。とても尿とは思えないほどの冷たさだった・・・
ブウンと音がする。目の前を甲虫が飛翔していく。クワガタだ。森の中を飛び回るクワガタを初めて見た。何とも優雅で、ノンビリ飛ぶ。そこだけ時間が止まっているかのように。正確にいえば、私の時間だけが。
友人は居住しているログハウスで私を迎えてくれた。私たちは夜になるまで昔話に花を咲かせ、そのあと駅前の繁華街に繰り出したのだ。
生憎の雨の夜。私たちは友人の馴染みの店を何軒か回る羽目になった。不思議な事に行く先々で、休業とか閉店とかの看板が出ていた。のみならず、雨は土砂降りに変わっていく。繁華街の明かりが乱反射する。足元がぬかるんで滑るほどだ、まるで大雪の日の豪雪地帯のように。我々二人は豪雪地帯の大学に通い、そこで知り合った。友人が時折何か話しかけてくるが、雨が強すぎて無線通信のように聞き取りにくい。
友人の趣味はアマチュア無線である。ログハウスの中には無線機器がいくつも並べられていたし、敷地には電波塔のようなアンテナも立っていた。私はアマチュア無線の知識は無い。それでも大したものだと思う。彼のログハウスの中は整然としていて、私のアパートの部屋は雑然としている。以前私のアパートにやって来た友人が、黒く汚れたシンクを掃除しだしたのには思わず笑ってしまったものだ。
ようやく開いている馴染みの店に入れた。幾分照明が明るすぎ、目の前がクラクラする。「どうも、はじめまして」そこには友人が呼んだ飲み仲間が何人か来ていた。さっきの聞き取りにくい無線通信は恐らく「飲み仲間を呼ぶけどいいよな」だったろう。その中に女性が一人いた。「こんな田舎によくいらして」とか「××にはよく行くんです」と話しかけてくる。私は××という地方都市の近くに住んでいた。××市がこの周辺の田舎にとって憧れの市であるというのはよく聞く話だ。
気分よく酔いが回ってくる。女性と話し込んでいた私は「先月、××駅の東口に新しいレストランが出来たんです」と最新情報を提供する。「そのお店いってみたいと思ってたんです!」女性の顔がパアッと明るくなる。私はさらに鼻高々になる。身振り手振りを交え、店の様子や料理の解説をしていると、彼女のグラスを倒してしまった。「アアッ!」その場が騒然となった。テーブルの上が酒浸しだ。「あー、ヤバいヤバい」そう言いながら友人が手際よく処理してくれた。その後、私はテーブルの隅で黙って飲むしかなかった。
気が付くとログハウスでのびていた。飲みすぎて記憶がない。どうにかなりそうなほど気分が悪く、何度もトイレに籠っているうちに夜が開けた。そこから帰るまでの数時間、「大丈夫か」、「これ預かったから」、「水飲めよ」友人は色々言葉をかけてくれる。気分が悪すぎてロクに返事も出来なかった・・・
昼前。私たちは駅にいた。電光掲示板に××の文字がある、いよいよこれから帰る。友人との別れ。それはいつも清々しいものであり、彼と過ごした時間が尊いものだったと思い知らされる。例えロクでもないものであっても。「彼女、例のレストラン楽しみにしてたぞ」帰り際、友人に声をかけられ苦笑した。「それじゃあ、また」最後の挨拶を交わして我々は別れた。
電車に乗り込み、切符を財布に仕舞う。財布の中には電話番号が書かれた紙片がある。友人に渡されたもので、昨夜の女性から「預かった」ものだという。私が酔いつぶれた後、友人は、私と女性が××市のレストランで一緒に食事できるよう便宜を図ってくれたらしい。ありがたいことだ。これが友情というものなのか。バカにしやがって。
バカにしやがって。××駅に着いて、紙片を丸めてゴミ箱に捨てた。これ以上恥の上塗りをしろというのか?駅の外は見慣れた街並みで、旅の終わりを告げていた。
二日酔いから覚めると生まれ変わったかのような気分になる。今、ようやくそれが訪れた。まったく清々しい気分だった。




