No.04 記憶の欠片
本社からの親展が届く。中身は半月ほど前から判っている。――この営業所の所長任命の辞令だろう。だからこそ俺は今、たった一人で此処にいる。
営業所とは名ばかりのボロアパートの一角で、俺は溜息を吐きながらそれを開封した。
「ほーら、やっぱりな……」
『貴殿を名古屋営業所長に任命す』
それと一緒に同封されている給与辞令を見て、俺は例えではなく椅子ごと後ろへぶっ倒れた。
「階級上がって給料下がるってどういう事だよ、おいっ!」
在籍人数一名の事務所で一人叫ぶ自分が虚しい……。
イザナギ景気以来の好景気だなんて誰が実感してるんだ。現実に、俺の会社は決算毎にリストラのネタを模索しては、少数精鋭だの痛み分けだのと言って、若い内から社員を次々管理職に昇格させていく。欠勤の多い奴は容赦なく切り捨てられていく。
この名古屋営業所だって、先月までは事務員の女の子がいたくらいだ。本社よりも総売上が少ない、という事で、その女の子も可哀想に、半月前に自主退職をほのめかされて辞めて行った。
かく言う俺も、リストラ組だ。――多分。
娘は昨年ようやくおむつが取れたばかり、妻の腹には二人目の子供が宿っている。無理して購入したマイホームのローンは、月々十万支払わないと、ボーナスが無いから仕方が無い。
そんな家の状況を知っていて、営業所長に任命しやがった。
「辞めてやる! 何が痛み分けだ、冗談じゃない!」
そういきり立つ俺に妻は言った。
「辞めて、ローンはどうするの? それに、私はまだ働けないわ。パパが踏ん張ってくれないと……」
「お前はいいよ、そうやって家で愛と一緒に過ごしてのんびり出来てっ。俺はこの数ヶ月、一度も愛の起きている顔を見た事も無いんだっ。家族の為に働いてるのに、肝心の家族からの言葉も無い。その上会社は、俺から愛の寝顔さえも取り上げようっていうんだぞ?!」
妻は黙り込んでしまった。その悲痛な瞳の色から、俺は自分の妻への八つ当たりを後悔した。
「ごめんね……私がお義父さん達と別居したい、なんて言ったから……」
それは……妻がそう言うのは、当然だ。
『家族なのに水臭い』
そんな尤もらしい事を言っては妻の入浴中を覗く様なエロ親父と、水商売で家を空けてばかりのお袋を持つ俺は、普通の家庭に憧れた。妻は俺の願いをかなえ、あまつさえ、あんな親でも
「あなたを育ててくれたご両親でしょう?」
とたかり目的でしかないお袋が提案した同居まで受け容れてくれた。
妻への感謝を忘れていない訳では無いが……。
「ごめん……お前の所為じゃないのに」
お前たちと離れて暮らすのが辛いんだ、俺はそう言って妻を抱きしめた。彼女の、俺の背中に回した腕の力の弱さに、俺は一層切なくなった。
「……我慢出来なくなったら、本社にサブロク協定を結んだ覚えは無い、って辞表を突きつけてやればいいか」
俺はそう自分を慰めて、新品の名刺をアタッシュケースに放り込むと、誰もいなくなる事務所の入り口を施錠した。
まずは、得意先の挨拶回りと新規開拓の為の現地調査だ――。
俺に会社から住まいを借りる為の経費も寮代わりに借り上げてくれる部屋もなかった。この名ばかりの営業所自体が“寮”だそうだ。六畳二間のこのアパートの、一方が仮眠室になっている。そこで寝泊りをしながら、もう一方の部屋に山積みの資料で辛うじてデスクと電話がある事務所、三畳のキッチンで立って飯を食いながら、洗濯や風呂は外で、という事らしい。当然、その経費は自腹である。
営業がてら、そういった諸々の事も調べてどうにか今週はやり過ごせた。
しかし……仕事と個人を分けられないこの環境は劣悪だ。気持ちが全く休まらない。
結局、この週末は事務仕事に専念してしまう形になった。いや、別にその必要はないのだが、あまりにも腹立たしくて……。
(意地でも、今期中に実績を上げて東京に戻ってやる)
俺の負けん気に火が付いたのだ。我武者羅に働いて、働いて、働いて――俺の働く目的は、いつの間にか変わり始めていた。会社に自分を認めさせ、本社に必要とされる事が目的となっていた。
妻の両親からの、長男誕生の知らせが煩わしかった。仕事を理由に、御七夜に自宅に戻る事も断った。その日は、ようやくアポイントを確約出来た新規顧客となりそうな大口の取引先との営業接待の日だったから。
妻のこまめなメールへの返信も面倒になり、仕舞いには返信を送らなくなった。そんな暇があったら、見積の一つも片付けてしまいたい。携帯電話でちまちまと入力する時間が、俺には物凄く惜しかった。
妻からの手紙が未開封のまま山積みになった年末は、お得意さんから初詣の足を頼まれ帰るつもりが反故になった。
いつしか、妻からの手紙も来なくなった。その事にさえ気付いていない俺がいた――。
数年後、俺に新たな内示が出た。本社に復帰の辞令だ。たかが営業所に売上高を越された本社の営業課長が、俺に代わって此処に赴任して来るらしい。
俺が開拓した得意先を、そっくりそのまま奴が引き継ぐと思うと癪に障るが、何処か垢抜けないこの街とおさらばし、東京に戻れる喜びの方が大きかった。いよいよ俺の実力を本社の経営陣に認めさせる事が出来るのだ。俺を陥れた奴等にでかい態度でいてやろう、そんな事ばかり考えていた。
ローンが山積みの、それでも懐かしいマイホームに戻ると。
水道メーターには『開栓申込葉書』がついていた。小さな庭には雑草が森の様に茂っており、少なくても一年は人が住んでいる様子の無い空き家に変わり果てていた。
(どういう事だ?!)
俺は即座に妻の携帯電話を鳴らすが、呼び出し音だけが虚しく繰り返されるだけだった。
妻の実家に電話をすると、彼女の父親にいきなり怒鳴りつけられた。
「この馬鹿野郎が! どの面下げて電話して来たっ!」
「ど、どういう事か、よく事情が飲み込めていなんですが、あの――」
「お前、手紙も読んでくれなかったのか……」
義父の、怒りを通り越した呆れ声が、俺に悪寒を走らせた。
俺は、入院した妻の病室の前で立ちすくんでいた。
彼女は、産後程無くして子供達を母親に預けて働きに出たらしい。元々虚弱な女だったのに、シフト制の不規則な職場での無理が祟って慢性胃炎になっていたそうだ。それでも尚無理をして……胃潰瘍と、十二指腸もやられて即手術をしたらしい。
それら身体の病気は治ったが、心の傷が治らないままという真実を子供たちに言えないから未だ此処に入院させている、と義父は言っていた。
「お前が見栄張って家なんかおっ建てたから、アイツは無理して働いて、挙句の果てにお前に捨てられて。それでもアイツはお前を責めちゃいなかった。自分がマイホームが欲しいとねだった所為で、一日中働いてる、パパも自分達の為に頑張ってるのに、自分だけのんびりと子供たちと遊んでなんかいられないって……返せっ! 娘の時間を返せっ!」
妻の実家を訪ねた俺を、舅はそう言って殴り飛ばした。その後、「ふぅ」と溜息を吐いて、彼は俺に低い声で一言尋ねた。
「帰って来た、って事は、娘を捨てた訳じゃあ無いんだな?」
俺は仰向けにぶっ倒れた身を起こし、彼に土下座をして謝罪した。
「申し訳ありませんでしたっ! 仕事を理由に彼女を冷たくあしらった事への言い訳は一切しません。もう一度、俺にチャンスを下さい、お義父さん!」
許すのは俺じゃねえ、娘だ、と彼は言い、病院の住所を教えてくれた。取り敢えず孫の事は心配するな、却ってばぁばの気分を晴らしてくれてるから、面倒見させてやってくれ、と言われ、改めて義両親の人となりに感謝の念を禁じ得ない俺だった。
初めて、人に頭を下げた、仕事以外で。仕事の反動なのか、人に頭を下げざるを得ない様な情け無い事はすまいと、俺は常に己に誓っていた。だから、妻が住宅資金の援助を実家に勝手に申し入れしていた事を知った時も、プライドが傷ついた事から喧嘩をした。いなくなって、初めて解る。俺がどれだけ妻に甘えていたのか。妻に、どれだけ巧く転がしてもらって来たのか。
温かな家庭に憧れて、それでマイホームを建てたのに。肝心な家庭をぶち壊してしまった。
妻は、そんな俺を許してくれるだろうか……?
(逃げるのは、俺らしくない)
意を決して扉を開ける。
「……どなた?」
妻は、最後に聞いた数年前と変わり無い穏やかな声でそう言った。何だ、全然何ともないじゃあないか。
「俺だよ。お前、自分の亭主も忘れたのかよ」
俺はそう笑いかけながら、少しだけ緊張して彼女のもとへと近づいた。俺だと判った瞬間、もしかしたら怒られるかな、なんて思いながら。
「まあ……そうなんですか……すみません、覚えていなくて」
まるで、自分を訪ねる人が皆同じ反応をし、それにいつもそういう反応をするのだと言う様に、妻は申し訳無さそうに両手を合わせ、拝むようにして俺に言った。
彼女の中から、俺と出会って以降の記憶が抜けていた。俺は、初めて自分のしでかした罪を痛感し――負けず嫌いを自他共に認めていた俺に、初めて一筋の涙が頬を伝った。
「……ごめん……」
俺を憎む事すら出来ない彼女に、俺はただひれ伏して謝る事しか出来なかった。
「え? あの……? そんな私の方が、一番大切な人である筈のあなたを忘れてしまうなんて、とんでもない話なのに……すみません。ごめんなさい」
泣きながらも、何処か覚えのあるシチュエーションだと俺は感じた。
そうだ……。思い出した。
彼女と初めて会った時、そそっかしい彼女は、友達と余所見をしながらカップコーヒーを片手に歩いていた。俺も駆け出しの新入社員で、分刻みで走り回る営業マンであたふたしてて、彼女に気付かずぶつかってしまったのだ。
『おゎっ! 熱っ!』
『あぁっ! ご、ごめんなさい、すみませんっ。私が余所見してたから……っ!』
彼女は、退勤時間までに間に合う様にクリーニングに出しておきますから、と無理矢理俺の上着をひっぺがし、呆然とする俺を残してクリーニング店へとダッシュしていった。
『俺……これから外回りでそれ要るんですけど……』
彼女と一緒にいた友達が、くすくすと笑いながら、社内恋愛中の彼氏を俺に紹介してくれ、彼に予備のスーツを貸し出させてくれた。
その後の妻の謝罪三昧といったら……。
「昔と変わらないな、お前。俺が悪いのに、自分が悪いって決め込んで」
もう一度、初めましてからやり直そう。もう一度彼女と恋をしよう。
あの頃の様には行かないけれど。お前はちょっぴり肌がたるんで、俺はかなーりくたびれた親父になってしまったけれど。
そして、今度こそ、見失わない様にするよ。大事なのは、家じゃなくって家庭なんだって。
今度こそお前に約束するよ。お前の声もちゃんと聞く。
「仕事なんか、言い訳にならないよな。社員の替わりは幾らでもいるけど、お前のダンナの代わりはいないんだ」
「え……?」
「ねえ、身体は何処も悪くはないんだろう? 外出許可をもらえたら、今度一緒に映画でも見に行かないか?」
「……いいんですか? こんな私なんかと」
「こんな俺とでいいですか?」
昔の様に俺が言うと、妻は頬を紅に染め、小さな声で「はい」と言った。
本社に戻って昇進して、それから暫くして会社を辞めた。勿論、次の就職先を見つけてから。
休日は、庭の手入れと掃除をし、妻と子供達を迎えに彼女の実家に顔を出す。そして、この家で過ごしたり、皆で遊園地へ出掛けたりする。
「なかなか親父さんに金を返せなくて悪いな」
「またそんな事言って……じぃじ、いい加減に怒るわよ。孫の為に庭付きに拘ったんだって知ってたら、あの時殴りはしなかった、って、すっごく後悔してるんだから」
新たな恋が実って、俺は妻をもう一度妻に出来るらしい。俺の収入さえ安定したら、妻も子供達もこの家に迎え入れようと思っている。
「しっかし、健一の奴、随分やんちゃになったなぁ~。俺がガキの頃はあそこまでじゃあなかったぞ?」
「健康第一じゃない。働き過ぎのあなたの身を案じながら産んだ子だから、そう願って名づけたんだもの。願いをあの子が叶えてくれたのよ。叱ったりなんか、しちゃダメよ?」
「え……?」
「あ……」
彼女の当時の日記に、そんな想いは綴られていなかった。
彼女の瞳があっという間に潤んでゆく。
「また一つ、思い出してくれたんだ……」
「うん……うん……っ」
愛おしさのあまり、子供の前だという事を忘れ、俺は愛妻にキスをした。
「あー、パパとママ、ちゅっちゅ、してるー」
「ちゅーちゅーちゅー」
子供達が、俺達を真似て互い同士でキスをする。
「こーらっ! お前らは、ダメっ! パパとママにちゅうしなさいっ!」
俺はそう言いながら、照れ隠しに二人を抱き上げる。
「パパったら、ずるい。愛情を独り占めするなんて」
妻が俺ごと子供達を抱きしめる。
くすぐった~い、と愛が笑う。
ちゅーちゅー、と健一が笑う。
大好き、と妻が笑う。
消えた記憶はそう簡単には集まらないけれど。
それでも、これからも一緒に時間を紡いでいける。俺が大切な物を見失わずに、記憶の欠片をこれからも、妻と一緒につなぎ合わせて行けばいい。埋まらないピースはそのままに、新たなピースをはめればいい。
長年俺が夢見ていた家庭の温かさというものを、もう二度と放しはしない、と今日も誓う。
そんな俺は、貧乏で甲斐性も無いどうしようもないくらい平凡な男だけれど、世界で一番幸せ者だ――。