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「星が読めるだけの地味な女」と婚約破棄されましたが、私の天測記録なしでは王国が回りませんよ

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/27

「星が読めるだけの地味な女と、これ以上婚約を続ける意味はない」


 王太子クラウスの声が、謁見の間に響いた。

 居並ぶ貴族たちが息を呑む中、宮廷天測官リーゼロッテ・シュテルンは、静かに目を伏せた。


(ああ、やっぱり今日だった)


 三日前の星の配置が、それを告げていた。

 火星と土星が重なるとき、長く続いた関係が終わる。占星術の基本だ。

 もっとも、前世——日本でプラネタリウム解説員をしていた頃の自分なら、星の配置と人間関係に因果関係はないと笑っただろう。けれどこの世界では、星の言葉は嘘をつかない。

 皮肉なことに、自分の婚約破棄すら星が教えてくれた。


「聞いているのか、リーゼロッテ」

「はい、殿下。承知いたしました」

「……それだけか?」


 クラウスが眉をひそめる。もっと取り乱すと思っていたのだろう。泣いて縋るとか、怒って叫ぶとか。

 けれど、リーゼロッテにはそんな余裕はなかった。今朝も夜明け前から天測台に上り、雲の動きと星の傾きを記録してきたのだ。正直に言えば、眠い。

 前世でもプラネタリウムの夜間イベントで徹夜明けだった。星を追いかける人間の宿命だ。


「殿下のご決断を尊重いたします。つきましては、天測記録帳の引き継ぎについてご相談したいのですが」

「記録帳? そんなものは後任に任せればいい」

「後任、ですか」


 リーゼロッテは小さく首を傾げた。


(この国に、天測記録を読める人間が他にいたかしら)


 十二年分の観測データ。星の運行から導き出した天候予測、農作物の作付け時期、河川の増水周期、さらには軍事作戦に最適な月齢の記録。

 この世界の天文学に、前世の気象学と統計学の知識を掛け合わせた独自の予測体系。そのすべてが、リーゼロッテにしか読めない記法で書かれている。

 もっと言えば、王国の年間行事日程も、外交使節の訪問時期も、すべて彼女の天測に基づいて組まれていた。

 毎年届く「天測年報」を、各省庁の誰もが当たり前のように使っていた。水道の水のように。蛇口をひねれば出てくると思っていたのだろう。


「では、引き継ぎは不要ということですね」

「ああ。それより紹介しよう。新しい婚約者のセレスティーヌだ」


 クラウスの隣に進み出たのは、リーゼロッテの義妹だった。

 蜂蜜色の巻き髪に、宝石のような碧眼。光魔法の加護を持ち、社交界では「輝きの星」と呼ばれている。

 星、か。

 リーゼロッテは本物の星を毎晩見ているが、セレスティーヌの方がよほど「星らしい」のだろう。少なくとも、貴族たちの目には。


「お姉様、ごめんなさい。でも、クラウス殿下と私はお互いを想い合っていて……」

「おめでとう、セレスティーヌ」


 リーゼロッテは微笑んだ。本心だった。

 義妹のことは嫌いではない。ただ、彼女が「星が読める」ことと「星のように輝く」ことの違いを理解していないだけだ。

 この国の誰もが、そうだった。


「では私は本日付で天測台を退去いたします。殿下、お元気で」

「……待て、そんなにあっさりと」

「星は待ってくれませんので。次の新月までに身辺の整理を済ませたいのです」


 リーゼロッテは一礼して、謁見の間を後にした。


 天測台に戻ると、十二年分の荷物は驚くほど少なかった。

 記録帳の束。使い慣れた六分儀。祖母から受け継いだ星図。それだけだ。

 ドレスは二着しかない。夜の観測に華美な服は邪魔だったし、そもそも買う暇がなかった。社交界に出たこともほとんどない。星を見るのに忙しかったから。

 前世と同じだ。プラネタリウムの機材室にいる時間の方が、自宅にいる時間より長かった。


 最後に、天測台の壁に掛けてあった天球儀を見上げた。

 これは備品だから持っていけない。六歳のときに前世の記憶が蘇り、この部屋に駆け込んで、初めてこの世界の星座を覚えたのもこの天球儀の前だった。


(さようなら)


 振り返らずに階段を降りた。

 もう誰も見ていなかった。王太子もセレスティーヌも、とっくに別の場所へ去っている。

 リーゼロッテは最後にひとつだけ、心の中で呟いた。


(来週の水曜日、南西の風が変わります。前世の気象学で言えば、偏西風の蛇行による異常気象。秋の大嵐の前兆です。……まあ、天測年報を作る者がいなければ、誰も気づかないでしょうけど)


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 リーゼロッテが王宮を去って、最初の一週間で異変は始まった。


「天測官殿の後任はまだか!」


 農務大臣が声を荒らげた。秋の作付け計画の提出期限が迫っているのに、天候予測が出ていない。例年であれば、リーゼロッテが三ヶ月先までの気象予測を一覧表にして届けてくれていた。


「それが……天測記録帳を読める者がおりません」

「読めない? 文字が書いてあるのだろう?」

「天測記録帳は独自の記号体系で記されておりまして。星座の略号、風向きの数値変換、月齢との相関係数……正直、我々には暗号にしか見えません。解読には数ヶ月——いえ、年単位でかかるかと」


 同じ頃、軍務局でも混乱が起きていた。

 北方の国境警備隊の交代日程は、リーゼロッテの月齢カレンダーに基づいて組まれていた。新月の夜を避けるのは、闇月には視界が悪く敵襲に対応できないから。彼女が七年前に提出した報告書に記された理由だが、報告書の所在を誰も把握していない。


「天測記録帳は?」

「リーゼロッテ殿が持ち出されました。私物でしたので」

「なぜ止めなかった!」

「殿下が『後任に任せればいい』と仰ったので……」


 そして水曜日。

 リーゼロッテが予測していた通り、南西の風が突然変わった。

 季節外れの大嵐が王都を襲い、収穫直前の麦畑が壊滅した。

 被害総額は国家予算の一割に及んだ。


 例年であれば、天測官の警報で三日前には対策が取られていた。今年は、出せる者がいなかった。


 さらに翌週。外務省から悲鳴が上がった。来月の外交晩餐会の日程が、隣国アルステイン帝国の暦で「月食の夜」にあたることに、誰も気づいていなかった。月食の夜の宴は帝国の慣習では重大な不敬にあたる。

 リーゼロッテは毎年、各国の暦と禁忌日を照合した「外交カレンダー」を作成していた。それも、なくなった。


 王宮の廊下で、ある文官が呟いた。

「天測年報がないと、何をいつやればいいのかわからない。今まで、あの人ひとりで全部やっていたのか……」

 誰も答えなかった。答えられなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 リーゼロッテは、王都から馬車で二日の距離にある小さな港町に移り住んでいた。

 伯爵家の令嬢とはいえ、実家との関係は義妹が来てから冷え切っていた。居場所はない。ならば自分で作るだけだ。前世でも、そうやって生きてきた。


 港町の古い灯台を借り、夜は星を読み、昼は漁師たちに天候を教える。

 対価は魚と野菜。質素だが、足りている。


(ここの星は、王都より近い)


 灯台の上から見る夜空は、王宮の天測台とは比べものにならないほど澄んでいた。余計な明かりがない。風の匂いで湿度がわかる。

 前世のプラネタリウムでは、人工の星を投影していた。この世界では、本物の星が手の届きそうな場所にある。転生してよかったと思うのは、いつもこの瞬間だ。


 ノートを広げ、いつものように記録をつける。星の位置、風の匂い、雲の形。

 そしてページの端に、小さく書き添える。


『今日の海は穏やかでした。明日も晴れるでしょう。灯台守のおじいさんが干物をくれました。鯖です。前世で食べた鯖の塩焼きを思い出しました。おやすみなさい、星たち』


 これは誰にも見せない、自分だけの記録だ。

 十二年間、毎晩続けてきた。天測データの余白に、その日あったことを一言だけ。

 王宮にいた頃は、こんなことを書いていた。


『殿下は今日もセレスティーヌとお茶をされていました。私は北極星の歳差運動を計算しています。星の方が正直で好きです』


『義母上にまた「もう少し華やかにできないの」と言われました。星の光は地味でしょうか。何千年も変わらず輝いているのに』


『今日は冬至です。一年で一番夜が長い日。天測官にとっては最高の観測日和なのに、殿下は「退屈な夜だ」と仰いました。退屈ではないのです。今夜は冬の大三角が、一年で一番はっきり見えるのです。前世ではプラネタリウムで何百回も投影した星座なのに、本物はいつ見ても胸が震えます。誰かにこの気持ちを伝えたいと思ったのは、久しぶりでした』


 誰かに読まれることを想定していない、だからこそ正直な言葉たち。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 隣国アルステイン帝国の皇太子ヴァイス・エーデルシュタインは、冷徹な男として知られていた。

 銀髪に灰色の瞳。表情は常に凪いでいて、感情を見せることがない。「氷の皇太子」と呼ばれ、社交界の令嬢たちからは恐れられている。

 しかし今、その灰色の瞳が揺れていた。


「……これを書いたのは、誰だ」


 彼の手にあるのは、一冊の革装の記録帳だった。

 数日前、シュヴァルツ王国との国境付近の廃棄監視塔から回収されたものだ。シュヴァルツ側の天測官が国境の観測点に置いていた予備の記録帳らしい。


 ヴァイスは帝国の軍事戦略を担当する立場から、隣国の天候データに興味を持って手に取った。

 記録の精度に、まず驚いた。


「三ヶ月先の降水量予測が、実測値と誤差二パーセント以内だと?」


 帝国最高の天文学者でも、ここまでの精度は出せない。独自の記号体系は最初こそ読みにくかったが、数学と天文学の素養があるヴァイスには、むしろ合理的に思えた。無駄がない。美しい、とすら。

 ところどころに、この世界の天文学にはない計算手法が混じっている。統計学の概念に近い何か。これを編み出した人間は、天才か、あるいは——別の世界を知っている者か。


 そして——記録の余白に、小さな文字を見つけた。


『今日は流れ星が三つ見えました。ひとつ目は北東へ。ふたつ目は真南へ。みっつ目は、とても長くて、まるで空を渡る銀の橋のようでした。こんな夜は誰かと見たかった、とは思いません。思いません。けれど』


 ヴァイスの手が止まった。


『義妹は月のように美しい人です。自ら光らず、誰かの光を映して輝く。それは悪いことではありません。でも、私は自分で光る星でありたいのです。たとえ誰にも見えないほど小さくても』


 もう一ページ。


『冬至の夜、天測台でひとりオリオン座を見ました。前の世界でも、この世界でも、オリオンは同じ形をしています。ふたつの世界の空を見た人間は、きっと私だけです。それを誇りに思いたいのに、時々、ただ寂しいだけの夜もあります。おやすみなさい、星たち。明日も見ていてね』


 ヴァイスは記録帳を閉じた。

 胸の奥で、何かが軋んだ。

 「前の世界」。その意味を、ヴァイスは正しく理解できなかった。けれど、この文字を書いた人間の孤独が——誰にも評価されず、それでも自分の仕事を愛し続けた人間の静かな矜持が、痛いほどわかった。


「この天測官を探せ。すぐにだ」


 側近が頷いた。


「名前はリーゼロッテ・シュテルン。シュヴァルツ王国の宮廷天測官でしたが、先日、婚約破棄により罷免されたと」

「罷免? この記録を書ける人間を?」


 ヴァイスの声に、珍しく感情が滲んだ。


「……愚かだな」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 港町の灯台に、銀髪の青年が現れたのは、晩秋の穏やかな午後だった。


「リーゼロッテ・シュテルン殿ですか」


 灯台の入口で洗濯物を畳んでいたリーゼロッテは、見知らぬ男を見上げた。

 質素だが仕立ての良い外套。護衛らしき男が二人、離れて立っている。

 灰色の瞳が印象的だった。


(この人の瞳は曇り空の色だ。でも、雨の空ではない。雲の向こうに光がある空)


「はい、私がリーゼロッテです。どちら様でしょう」

「アルステイン帝国皇太子、ヴァイス・エーデルシュタインだ」


 リーゼロッテの手から、畳みかけのシーツが滑り落ちた。


「こ、皇太子殿下が、なぜこのような場所に……」

「あなたの天測記録に目を通した。国境の監視塔にあったものだ」


 リーゼロッテの表情が変わった。


「あの記録帳は……」

「精度に驚いた。帝国の誰にもできない水準だ。それに、見たことのない計算手法がいくつも使われていた」


(前世の統計学に気づいた? この人、数学がわかるんだ)


 ヴァイスは一歩近づいた。海風が、二人の間を通り抜ける。


「帝国天文台の主席天測官として、あなたを招聘したい。報酬は帝国最高天文学者の倍。住居は天文台隣接の官舎。研究費は無制限。必要な機材は全て用意する」


 リーゼロッテは目を瞬いた。破格の条件だ。けれど、それだけではない気がした。


「あの……なぜ、そこまで」

「記録帳の余白を読んだ」


 リーゼロッテの顔から、血の気が引いた。


(余白の——あの、独り言を? 前世のことも書いてあるのに?)


「『自分で光る星でありたい』と書いていた」


 ヴァイスの灰色の瞳が、真っ直ぐリーゼロッテを見つめた。表情は相変わらず凪いでいる。けれど声が、ほんの少しだけ震えていた。


「帝国には、あなたの光を遮るものは何もない」


 リーゼロッテは、返す言葉を見失った。

 十二年間、毎晩星に語りかけてきた。前世と合わせれば、もっと長い。誰にも届かない声だと思っていた。

 それを、この人が拾い上げた。

 データの精度ではなく、余白の独り言に心を動かされた人がいた。


「……少し、考えさせてください」

「明日の夜、また来る。天気は」


 ヴァイスは少し間を置いた。不器用に、ぎこちなく。


「晴れるだろう。星が、よく見える夜になるはずだ」


 リーゼロッテは思わず笑った。初めて、心から。


「ええ。明日は晴れます。北風が弱まりますから」

「知っていた」

「でしょうね」


 二人の間を、海鳥が鳴きながら横切っていった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 翌日の午前。ヴァイスが来る前に、別の訪問者が灯台に駆け込んできた。


「リーゼロッテ! 戻ってくれ!」


 シュヴァルツ王国の農務大臣だった。馬車から転がり降りるように現れ、真っ青な顔で書類の束を抱えている。


「秋の嵐で麦畑が壊滅した! 冬の天候予測がなければ来年の作付けが——」

「それは殿下にお伝えください」

「殿下に言った! だが殿下は『セレスティーヌに任せる』と!」


 リーゼロッテは小さく息をついた。


「セレスティーヌは光魔法の使い手です。星は読めません」

「わかっている! だから君に……!」

「私は『星が読めるだけの地味な女』ですよ。殿下がそう仰いました」


 農務大臣が言葉に詰まった。


 続いて、軍務局の使者も駆け込んできた。


「リーゼロッテ殿! 北方国境の交代日程が」

「月齢カレンダーの写しは天測台の第三書棚です」

「ありませんでした!」

「では、セレスティーヌに新しく作っていただければ。光魔法があれば夜でも明るいでしょうから、月齢など気にせずとも」


 リーゼロッテの声は穏やかだった。しかし、その一言一言が使者たちの顔色を変えていく。


「それから」


 畳みかけた。


「来月十五日の外交晩餐会ですが、その日はアルステイン帝国の暦で月食です。月食の夜に宴を開くのは帝国の慣習では不吉とされます。日程変更をお勧めしますが——ああ、もう私には関係ないことでした」


 農務大臣が頭を抱えた。


「頼む。条件は何でも」

「条件の問題ではありません」


 リーゼロッテは、初めて声に力を込めた。


「十二年間、毎晩天測台に上りました。真夏も真冬も、嵐の夜も。指がかじかんで記録帳を落としたことも、凍えて意識が朦朧としたことも、何度もあります。それを『星が読めるだけ』と——私の十二年を、たった一言で片づけた方の元には、戻れません」


 使者たちが黙り込んだ、その背後に。

 銀髪の青年が、静かに立っていた。


 ヴァイスは使者たちに目を向けることもなく、リーゼロッテの前に歩み出た。


「昨夜の星を見た」

「はい」

「北東にひときわ明るい星があった」

「ヴェガです。今の季節、地平線に近い位置で最も強く光ります」


 ヴァイスは頷いた。


「あの星のそばに、肉眼ではほとんど見えない伴星があるそうだな」

「ええ。実視等級は十等星ですが、質量はヴェガより大きい。見えないからといって、存在しないわけではありません」


 二人の会話は、天文学の話をしているようで、していなかった。

 農務大臣が口を挟む隙はなかった。


「リーゼロッテ殿」


 ヴァイスが、初めて彼女の名を呼んだ。


「帝国天文台には、世界最大の望遠鏡がある。あれを使えば、十等星も、もっと遠い星も見える」

「……見てみたいです」

「では」


 ヴァイスが手を差し出した。


「あなたの光が正しく届く場所へ」


 リーゼロッテはその手を見つめた。

 冷たそうに見えて、指先がわずかに震えている。この人も、緊張しているのだ。

 おかしくて、嬉しくて、少しだけ泣きそうになった。


「ひとつだけ」

「何だ」

「記録帳の余白は——今後は、読まないでいただけますか」

「……善処する」


 一拍あいた。リーゼロッテは笑った。


「嘘です。読んでくださって構いません。でも、これからは書く内容が変わるかもしれません」

「どう変わる」

「たとえば——『今日は殿下がお茶を淹れてくださいました。天体観測に最適な温度でした』とか」


 ヴァイスの耳がかすかに赤くなった。

 農務大臣が、天を仰いだ。


「もう、遅いのか……」

「ええ」


 リーゼロッテは差し出された手を取った。少し冷たくて、少し温かい。星の光のような手だった。


「遅いのではありません、大臣。星は最初からそこにあったのに、誰も見上げなかっただけです」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 アルステイン帝国天文台の主席天測官に就任したリーゼロッテは、初日から帝国中を驚かせた。

 提出した三ヶ月先の天候予測の精度が、帝国既存のあらゆるデータを凌駕していたのだ。


「この人材を、シュヴァルツは手放したのか……」


 学者たちが呆然とする中、リーゼロッテは淡々と仕事をした。

 天文台は広く、設備は充実していた。何より——誰もリーゼロッテの仕事を「地味」とは言わなかった。「正確」「精緻」「驚異的」。そんな言葉で評された。

 初めてだった。前世でも今世でも、自分の仕事が正しく名前を付けて呼ばれるのは。


 一方、シュヴァルツ王国は静かに沈んでいった。


 月食の夜に強行した外交晩餐会で、アルステイン帝国の使節が激怒。両国関係は一夜にして冷え込んだ。

 冬の天候予測なしに進めた農業政策は、早霜の直撃を受けて裏目に出た。種子の備蓄が底をつき、春の食糧危機が確定的になった。

 軍務局は月齢カレンダーなしで国境警備の交代を行い、闇月の夜に敵国の偵察部隊を見逃した。北方の辺境伯が独自に防衛を始め、王家への不信が広がっている。

 財務省は来年度の歳入予測が立てられなかった。農業収穫量の予測値は毎年、天測年報の天候データから算出していたからだ。

 そのすべてが、ひとりの「地味な女」の仕事だった。


 クラウス王太子は使者を送ったが、帝国から返ってきたのは丁重な、しかし完璧な拒絶の書簡だった。


『リーゼロッテ・シュテルン殿は、帝国天文台主席天測官としてご自身の意思で在留されております。なお、今月の天候予測をお送りいたします。代金は通常の国際情報提供料金に準じます。——帝国皇太子ヴァイス・エーデルシュタイン』


 かつて無料で得ていたものに、金を払わなければならなくなった。しかも皇太子自らの署名は、事実上の「手を出すな」という宣言だ。


 クラウスは苛立った。

「なぜ星を読めるだけの女ひとりがいなくなっただけで、こうなる」

 宰相が静かに答えた。

「殿下。彼女は星を読んでいただけではございません。星を読み、天候を予測し、それを農業計画に反映させ、軍事日程を最適化し、外交暦と照合し、歳入の見通しまで支えていたのです。この国の骨格を——たったひとりで組み上げていたのです」

 クラウスは沈黙した。

 セレスティーヌの光魔法は華やかだが、天気予報はできない。星を読むことはできない。彼女に見えるのは光だけで、闇の中に浮かぶ星は、光魔法が照らせば照らすほど見えなくなる。

 必要だったのは、闇を受け入れ、その中に光を見出す力だった。

 セレスティーヌは泣いた。「お姉様がいなくなって寂しい」と。

 けれどそれは——リーゼロッテが十二年間、毎晩ひとりで天測台に上っていたとき、一度も口にされなかった言葉だ。


 そして帝国天文台。

 深夜、世界最大の望遠鏡を覗くリーゼロッテの隣に、ヴァイスが立っていた。

 二人の間にあるのは、温かい茶と、開かれた記録帳。


「殿下」

「何だ」

「土星の環が、今夜はとても綺麗です」

「……ああ」

「ご覧になりませんか」

「見ている」


 リーゼロッテはヴァイスの視線に気づいた。望遠鏡ではなく、自分を見ていることに。


「殿下、望遠鏡はあちらです」

「知っている」

「では、なぜ私を」

「……星を見ている人間の横顔が好きだ。それだけだ」


 ヴァイスの声は、いつも通り平坦だった。けれど耳の先だけが、はっきりと赤い。

 リーゼロッテは望遠鏡から目を離して、笑った。


「記録帳に書いておきますね」

「余白にか」

「ええ。『本日、殿下に好きだと言われました。根拠は横顔です。天測官として申し上げますが、横顔は天体観測の対象外です』」


 ヴァイスが咳払いした。それから、小さく——本当に小さく、笑った。

 曇り空が晴れたような、控えめで、でも確かに温かい笑顔だった。


「リーゼロッテ」

「はい」

「明日の夜も、一緒に星を見てもいいか」

「もちろんです。明日はふたご座流星群の極大日ですから、きっと良い夜になります」

「流星群を見るのは初めてだ」

「では、温かい飲み物を用意しておきますね。流星群の観測は長時間になりますから」


 ヴァイスは少し迷ってから、小さく頷いた。


「……楽しみにしている」


 その一言が、リーゼロッテの胸に静かに落ちた。

 十二年間、「楽しみにしている」と言われたことはなかった。天測年報を「早く出せ」と催促されたことはあっても。

 前世でもそうだった。プラネタリウムの観客は、解説が終われば帰っていく。「また来ます」と言ってくれた人は、ほんの数人だった。


 帰り際、記録帳の最後に、こう書き添えた。


『帝国天文台。今夜の星はとても近くて、とても温かかったです。前世を含めて、こんなに誰かと星を見たいと思ったのは初めてです。おやすみなさい、星たち。——おやすみなさい、ヴァイス殿下。今日からは「おやすみなさい」の相手が、ふたつの世界を通じて初めて、増えそうです』


 灯りを消すと、窓の外に満天の星が広がっていた。

 自分で光る星に、ようやくなれた気がした。

読んでいただき、ありがとうございます。


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