雨季の森
少し、戦争の話をしよう。
戦時前半まで圧倒的優勢を保っていた魔王軍。それが倒れるきっかけとなったのは、メイラの存在が大きかったと言われている。
メイラは、魔王イフの一人娘、つまり魔王に最も近い魔族である。しかしイフの体制に疑問を持った彼女は、勇者カイに味方する形で親を裏切り、反逆軍を勝利に導いた。
その後彼女は魔族でありながら反逆軍に歓迎されることになる。しかし、彼女のクールな性格がそうさせるのか、彼女はあまり戦時中のことを教えてはくれない。
僕たちは街を出る際、呪いについてさらに調べるためという理由で、メグルをドラフトに置いて行くことにした。
もちろん、嘘だ。彼女のようなか弱い少女を危険な旅に連れ出さないためとは言ったが、本当は、カイの偽装発覚を恐れての工作である。
天使という種族は、実年齢に関係なく上位になるに連れて外見が大人びていく。そのため、僕たちには外見から相手の年齢や精神性を推し量るという文化が存在しない。が、まあ。メイラやシノも十八かそこらの外見相応に少女であるという現実を、僕はこれから痛感することになる。
雨季の森はその名前の通り、一年を通して雨と霧に包まれた暗い森である。戦前はドラフトの東側を繋ぐ重要な交易ルートだったのだが、戦後は魔族残党の根城として恐れられている。
「魔族の討伐要請は、出ていたはずだけど」
馬の手綱を持ちながら、僕は荷台のカイたちに聞いた。こういった町の困りごとは、基本的に役場に相談が寄せられ、そこから警備隊などの出動要請に処理される。
「……先に、向かったやつがいた」
カイが鎧の下から、言葉少なく答える。本当に音が反響しているのか、とてもメグルの声には聞こえない。
「本当は、私たち宛ての要請だったのよ」
メイラが意訳するように付け足した。
「何度も要請が来ては『勇者の出る幕じゃない』って、他の部隊が先取りしたの。で、その度に返り討ちに遭って。いつの間にか町の方針が変わったみたいで、東との交易を取りやめたみたい」
ドラフトは魔王軍との戦争において、反逆軍の拠点になっていた。そのため強力な戦士が今でも多数滞在している。勇者からすれば取るに足らない存在かもしれないが、彼らも決して弱いわけではない。むしろ非力な天使や一般住民からすれば、非常に頼りになる存在だ。
そんな彼らをことごとく返り討ちにしてきた魔族残党と、これから戦うことになる。事前に相談して決めたこととは言え、僕はわずかな恐怖を感じていた。
「……おかしい」
馬車の中から、シノの声がした。
「どうした?」
「森に入ってからずっと、魔族の気配がしない」
感覚の鋭い獣人であるシノは、パーティにおいて索敵の役目を担っている。この森においてもずっと彼女は耳をぴんと立てて気配を探っていたのだが、どうにも反応がないらしい。
考えられる理由は二つある。この日は運良く雨が降っていなかったが、それでも霧の影響で感覚が鈍化している可能性。もう一つは、メイラという魔族の気配が邪魔して遠くの気配に反応できない可能性。だが、いずれも戦争を勝ち残ったシノには懸念事項にすらならないはずだった。
と、その時。馬車の車輪がカタン、とあらぬ音を立てて小さく揺れた。当然、感覚を研ぎ澄ませていたシノがその異変を見逃すはずもなく。
「罠だ! 来るよ!」
その声が先か、体が動くのが先か。シノは荷台から飛び降りて腰に下げた刀を抜く。そしてほぼ同時に、カイとメイラも左右に展開して馬車を守るように警戒の構えをとった。こういった荒事に慣れていない僕は、慌てながらも馬の前に飛び出し、周囲を見回す。
キリキリとロープが引かれる音が木々に反響し、その直後、ある一箇所から激しい風切り音がした。
「はっ!」
それがどこからか放たれた矢だと僕が気づいた時には、すでにシノが刀でそれを叩き落としていた。
しかし、まだロープの音は止まっていない。
「仕掛け弓だ。気をつけて!」
そう話す間にも彼女は二、三発と対応していく。だが、ほぼ同時に放たれた他の矢は、彼女の死角にも迫りつつあった。
「フレア!」
メイラが矢の方に手をかざし、唱える。すると矢は激しい炎に包まれ、空中で燃え尽き灰となった。これが炎の勇者と呼ばれた彼女の力。彼女は魔族特有の炎魔法を得意とし、あらゆる障害物を一瞬でやき消すことができる。
続けて数発。シノとメイラは圧倒的なコンビネーションで、四方八方から飛来する矢を次々といなしていく。もはや芸術的とも言えるその光景に見惚れそうになったその時、僕は近づいてくる別の音に遅れて気づいた。
「エリー!」
シノが叫びながら駆け寄るが、間に合わない。霧の中から現れた人影は左右二本の剣を携え、それを僕に振り下ろしてきた。
だが、剣が僕の体に触れる寸前で、観測者の制約による光の壁がその進攻を阻む。それでも衝撃までは抑えきれず、僕はそのまま二馬身ほど弾き飛ばされた。
人影はフードとマントを羽織っていて、顔が確認できない。だが敵意はあるらしく、さらに追撃を加えようと剣を構え直す。しかし。
「うおおおぉっ!」
雄叫びと共に現れたカイの長剣デーモンキラーが、横槍と言わんばかりに人影を捉えた。人影は直前で防御の構えに切り替え、二刀流で防御したが、鎧の重みを加えた突進の斬り込みは、それを僕から遠ざける形で吹き飛ばした。
地面に衝突して揺れる視界をどうにか元に戻すと、僕は地面近くに張り巡らされたロープに気づいた。ロープは各所で木や他のロープに結び付けられ、一箇所でも引っ張られると他も連動して反応するようになっていたようだ。これが無数の仕掛け弓の正体で、おそらく今までの部隊が対応できなかった理由だろう。
人影はそれらの罠をすり抜けるように軽妙な足運びでカイに迫る。迎撃しようとカイがデーモンキラーを振り上げた、その時。
「そこまでだ!」
聞き慣れない声と同時に、カイと人影の間の地面が炸裂した。いや、正確には矢のようなものを撃ち込まれたのだろうか。ともあれ、それを合図に人影も動きを止め、状況は停止した。
人影を除く全員が、声のした方を振り向く。しかし、その主が現れたのは、僕たちの視線の少し上。空中だった。そして声の主が現れる直前、その頭上には金に輝く輪が霧の向こうから透けて見えた。
「天使……?」
僕は目をこらす。しかしその輝きは円の半周を描くのみで、残りの半分が欠けていた。どうやら、声の主は少し変わった天使のようだ。
霧から現れた姿は、おおよそ僕の予想通りだった。僕より少し大人びた、メイラに近い体格。しかし服の所々から透けて見える凹凸と身長の半分ほどある翼は、彼が男性の中位天使であることを表していた。
「そう。俺は天使、名前はシエルだ。お前たちとは話がしたくなった。まあ座ろう」
そう言いながら、シエルと名乗った天使は湿った草と泥の地面に、まるでそれらを意に介さないようにあぐらをかく形で座った。続けてフードの人影も両手の剣を腰の鞘にしまい、彼の隣に座ってフードを外す。露わになった長い銀髪と端正な顔立ちは、一目で彼女が少女、それもメイラやシノに匹敵する美少女だと僕に理解させた。外見的特徴からして、普通の人間だろう。
二人に継戦の意思がないことを見て、僕たちも座ることにした。ただし濡れた地面にではなく、馬車の荷台に腰掛ける形で。
「あらためて自己紹介だが、俺はシエルで、こいつがウール」
僕たちの目線がシエルの隣に集まると、ウールと呼ばれた少女は先ほどまで戦っていた相手とは思えないほど明るく笑って答えた。
「さっきの戦い、見たよ。その剣、デーモンキラーだな。ということはお前がカイか」
「……そうだ」
まあ有名な魔剣を見られては誤魔化しようもない。カイは首を縦に振った。
「ということは、そこの赤いのが炎のメイラ、黒いのが獣のシノで、あとは盾の……」
「ジュリは、いない」
僕が何か言おうとしたところで、カイが先に答える。
「僕はエリウス。観測の天使だ」
シエルが何か察したのか、馬が悲しい空気になりかける寸前で、僕は言った。きっとこれからの旅、何度も同じ自己紹介をすることになるのだろう。こういった状況には今のうちに慣れておかなければ。
「そうか」
シエルとウールは理解したように互いに目を合わせると、その直後、二人揃って深く頭を下げた。
「まず謝らせてくれ。迷惑をかけた」
「えっ?」
突然の謝罪に、僕たちは驚く。迷惑というのは、先ほどの仕掛け弓や急襲のことだろうか。それについてであれば、魔族残党がいるこの森で当然とも言える武力用意だし、こちらに怪我人も出ていないからまあ許せなくはないだろう。僕は吹き飛ばされたが。
「町に魔族討伐の要請が出ていただろう。あの正体は、俺たちだ」
「……どういうことだ?」
誰よりも先に身を乗り出したのは、この僕だった。役場勤めとして、部隊を何度も返り討ちにしてきた容疑者にはしっかり話を聞いておかなければならない。
「町の近くで暴れていれば、俺たちを倒しにカイが来ると思ったんだ」
「つまり、カイに会うためにこの数ヶ月間?」
「そうだ。ごめん」
話しぶりからして、ただのいかれた勇者ファンとは思えなかったが、まさかここまでとは。実績からして実力が伴っているあたり、相当厄介なファンがいたものだと僕は頭を抱えた。
「あー、だったらどうして町まで来なかったんだ」
町に来たからと言ってカイたちに会えるとは限らないが、少なくともこんな問題を起こす必要はなかったはずだ。僕はそのことも含めて、シエルたちを睨みつけた。
「それは……」
「ボクが、呪われているからだ」
ウールが真剣な面持ちで言った瞬間、空気が変わった。つまり、シエルたちがカイを待っていた本当の理由は……。
「俺たちは、カイが同胞の呪いを持っていると踏んでここに来た。だが街中で堂々と呪い探しをするのは、両方の立場を危険に晒すことになる。だからここで言わせてくれ、カイ。ウールと……」
「駄目だ」
シエルが続きを言う前に、カイははっきりと切り捨てた。
「なぜだ!」
カイは続けようとしない。代わりに僕は確認するように、シノとメイラに目配せする。呪われている相手を断るのに、自分たちのことを話さないのはあまりにも不公平だ。
「ここにいる二人も、呪われている。今カイが結婚したら、二人を見捨てることになる」
誰かを選ぶと言うことは、他の誰かを見捨てると言うこと。ウールには悪いが、その選択を知り合ったばかりの他人に譲ることはできない。
が、ここでカイが兜の下の口を開いた。
「……全員、助ける」
その言葉を聞いて、僕は脳内でぽんと手を打つ。そもそも今回の旅は、シノとメイラの両方を助ける方法を模索するためのもの。もしも複数婚が認められるなら、ウールも同時に助けられるかもしれない。僕もその道を一時も考えなかったわけではないが、それを実行に移そうとするカイの懐の深さには少し胸を打たれた。
「その提案……」
考えるシエルを、僕は期待の眼差しで見た。まだ気心の知れない相手だが、目的が同じと言うなら同行して損はないだろう。それに、何かあった時の戦力としても、先ほどまでの戦いぶりから彼らはとても頼りになる。
「断る」
そう言って、シエルは話を切り上げるようにゆっくりと立ち上がった。
「ウールには、俺たちには、時間がない」
その気配に明らかな敵意を感じ取ったところで、僕たちも荷台から降りて、戦闘態勢に入る。
「要するに、他に救う相手がいなければいいんだろ?」
シエルは距離を取ろうとするメイラの方を指差した。その指先に、魔力が集められていく。
「殺す」
直後、小さい爆発音と共に、シエルの指先から赤黒い魔力の塊が撃ち出された。
「フレア」
しかし、明らかな意思を示した上での攻撃は、メイラに防御の余裕を与えるにはじゅうぶんだった。
魔弾がメイラに迫りながら、炎に包まれていく。だがその勢いが減衰することはなく、魔弾は炎を纏ったままメイラに迫っていく。
瞬時に異変を感じ取ったメイラは、次の炎を出さずに横跳びで魔弾を回避した。魔弾はそのまま直進し、彼女の背後の木に小さな穴を開けて止まった。
これが、開戦の合図となった。
続けて、目の前からウールの姿が消える。しかし、観測者たる僕の動体視力は、そう簡単に相手を見逃したりはしない。ウールは近くの木々を壁のようにして飛び跳ね、二刀を抜いてシノに斬りかかった。
「シノ!」
だが、見えたからと言って対応できるわけではない。僕はシノを守ることもできず、ただ警戒を促すよう声をかけることしかできなかった。
「任せて!」
一方でシノは、そんな僕に答える余裕が残っていた。彼女も刀を抜き、風のように迫り来るウールの攻撃を受け止める。そしてさすがは獣の勇者。先ほど吹き飛ばされた僕とは違い、ウールの攻撃を完璧に防御して見せた。
「手分けしよう」
そう言って、カイがシノの背後を守るように剣を構える。
二対四と数では有利を取っているが、おそらく相手の方が土地勘がある。ならば数の有利を生かして戦おう。カイはたった一言でその意図を伝えた。そして彼がシノの方についたと言うことは、僕はメイラのサポートに回ると言うこと。
一瞬の指示で、僕を含めた防御陣形が完成した。と言うか、状況からして僕は明らかにお荷物になっていた。ジュリが欠けたとは言え、勇者たちの総合力がシエルたちのような魔族もどきに劣るはずがない。
そう、思っていた。
異変は、ウールの攻撃が数回続いた後。それらが全く通用しなかったあたりから始まった。
僕、そしてメイラと睨み合いのまま膠着状態だったシエルが、ようやく動いた。
「仕方ない。少し頑張るぞウール」
それを合図に、視界の端を跳び回るウールの動きが変わった。先ほどまでに比べて、明らかに加速している。いや、それも常人の速さではない。何か特別な魔法を使ったかのような速さ。そこから繰り出される連続攻撃に、次第にシノは押され始めた。
魔法を使ったような気配はない。これが彼女本来のスピードなのだろうか。考えていた僕は、気がつけば目の前への注意が疎かになっていた。
「エリウス!」
メイラの声で意識が戻った時には、すでにシエルの魔弾が僕の目の前まで迫っていた。
先ほどのメイラのように回避する余裕はない。避けるに越したことはないが、僕には観測者の制約がある。その防御を信じ、僕は最低限、衝撃を直に受けないよう体を斜めにして受け流す姿勢をとった。
が、その判断が甘かった。
魔弾は、自動的に展開される光の壁を水面のように透過し、僕の頬を掠めた。鋭い痛みが衝撃を伴って僕の顔を弾く。
「……そうか。お前、『観測』だったな」
先ほどメイラの炎が通用しなかった時点で、気づくべきだった。
「俺は『魔弾』だ」
魔弾の天使、シエル。彼の放つ弾は、あらゆる防御を貫通する。そのことに気づいた時、僕は感じたことのない恐怖に襲われた。今まで頼りにしていたはずの、戦いにおいて僕の存在意義だったはずの防御が全く通用しない。つまり、その先にあるのは一方的な蹂躙、敗北。それらの言葉が脳裏をよぎった時にはすでに、僕は翼を震わせ宙に逃げていた。
しかし、シエルの魔弾は僕の取るに足らないスピードを確実に捉えている。そればかりか、彼は開始地点から一歩も動かないまま、メイラをも押し始めていた。
僕の防御とメイラの炎。どちらも通用しないとなっては、もはや打つ手はない。それに僕は制約の性質上、攻撃もできない。要するに、僕たちは炎の勇者を擁しながらシエル一人に対し無力となっていた。
僕は作戦変更を求めるべく、カイとシノの方へ目をやった。その時。
「きゃあっ!」
短い悲鳴。同時に、悲鳴の主であろうシノがメイラの方に飛んでくるのが見えた。
それは一瞬だが、確実に見えた。シノの服や防具には、防御しきれなかったであろう切り傷が無数に付けられている。カイと共に死角を守り合っていたはずなのに。僕は目の前の光景が理解できなかった。
そして、頭上から木の幹を蹴る音。ウールが二人目がけて急降下してきた。シノが飛んできたのとは全くの別方向からだ。つまり、彼女はシノを吹き飛ばしてから次の攻撃を加えるまでの間に、木の上まで移動したことになる。
まるでウールの周りだけ時間が加速しているような、ありえないスピード。シエルの魔弾に感じたものと同じほどの恐怖に襲われた時には、彼女の二刀が二人を捉えようとしていた。
しかし、僕が目の前の死を覚悟しようとしたその時。ウールが空中で姿勢を崩した。
シノは飛ばされた勢いのままメイラに衝突し、二人とも地面に投げ出される。
ウールによって決せられるかと思った勝負は、意外な形で僕らの勝利に終わった。
「……げほっ!」
飛来した勢いを殺すように着地したウールは、その場で激しく咳き込む。口元を押さえるように添えられた手からは、わずかに血が溢れていた。
おそらくこれは好機だ。重装備のカイはこの場まで間に合わない。僕は決定的な隙を見せたウールから、シノとメイラを避難させようとする。
「割り込ませないぞ」
シエルの言葉と同時に、僕は彼に首を掴まれ背後の木に叩きつけられた。体格の差から、僕の足が地面から少し離れる。
「自分には観測者の制約があるから死なない、とでも思ったか。殺すまではしなくとも、こうして骨を折ることくらいはできる」
僕の首元では、シエルの手が先ほどの魔弾と同じ色に光っていた。
「だが、今はこっちが優先だ」
シエルは僕を投げ捨てるようにして手を離すと、少しだけ袖を捲って手首の内側に自ら噛み付いた。鮮やかな血が彼の腕を伝い始める。
そして彼はその手をウールの口元に添え、流れる血液を飲ませ始めた。
「何を、しているんだ……」
天使が人間に血を分け与える、異常な光景。僕は地に這いつくばり首を押さえながらも、それに対する疑問を口にせざるをえなかった。
「見てわからないか。これがウールの呪いだ。こいつは自分の『時間』が短い代わりに、他者の『時間』を奪う」
それを聞いて、僕はナイルから預かった資料を思い出す。
時の呪い。おそらくウールにかけられているのはこれだ。シエルの言う通り、時の呪いは対象者の寿命を加速させるが、他者の血液を得ることでその者の寿命を奪う形で延命できる。
ある意味、ベストコンビだ。僕は心のどこかで冷静に考えてしまった。他者の血を必要とする時の呪いに対して、長寿かつ再生力に長けた天使。これでウールは時の加速を利用した高速戦闘ができるし、シエルはウールを長く支えることができる。
だが、それはいつまで続けられるだろうか。天使は老衰が外見に反映されない。シエルは余裕ぶって戦っていたが、彼がウールにどれだけ自分の寿命を分け与えたか、計り知れない。いつか、シエルが何の予兆もなく時間切れを迎えてしまうともわからない。その時が、すなわちウールの時間切れにもなる。シエルが「時間がない」と言ったのは、このことだったのだろう。
よほど遠くで戦っていたのだろう。カイが僕たちの所まで戻ってくる頃には、シエルがひとしきり血を与え終えていた。カイは戻ってきた勢いのまま剣を振りかざすが、シエルはウールを抱えたままふわりと宙に逃れる。
「俺たちは諦めない。だがまあ、殺し合う必要はなくなった」
気がつけば、声は霧の向こうから聞こえた。
「エリウス、お前たちは自滅するよ。お前の甘さが原因でな。俺たちはその時に、また現れる」
こうして、雨季の森は再びの静寂に包まれた。




