ポセイドーン Ποσειδαων
イーデー山からポセイドーンの居る海岸の街へとわたしたちは向かった。エドミレトと言う名だとギュゲスさんが教えてくれた。麓から東へ、山を越えて行けばトロイという遺跡があるとも教えてくれた。けど、あたしは今迄通り。そんなあたしの応対にギュゲスさんは悲しそうにしていた。
エドミレトに到着する前日の事。ギュゲスさんたちは、魔術便で王都と何度もやり取りをしていたが、あたしに何か伝える事ができたのか、一枚の紙を見せてきた。
「テルース君、これを見て欲しいんだけど」
と言って渡された紙には、以前ギュゲスさんが言っていたと思われる複雑な線画が幾つも並んでいた。
『七月一日。火野菜摘を旧校舎理科室に呼び出す。忠誠心を見せて貰おうとすると、あいつは理科室を飛び出した。追い掛けようとすると、扉付近と窓の下から、突然火の手が上がった。火はあっという間に理科室を包む。それが、神様に合う前の最後の記憶だ』
それを、あたしは何の気なしに読み下していた。
「えっ、テルース君、今なんて言ったんだい?」
何故そんな事を聞かれたのか理由が分からなかった。こんなの誰でも読める筈だから……
ちょっと待って。誰でもとは誰の事? そもそも、これは何。文字なの? でも文字だから読めたんじゃない? だけどギュゲスさんに助けられてから、こんな文字一度も見た事無いんだけど。
あたしは混乱した。
「異言……いや異国の言語か。研究班の推測が正しかったらしい」
ギュゲスさんが茫然と呟いた。
* * *
混乱するあたしを余所に、ギュゲスさんは興奮を抑えられないまま、説明してきた。
「研究班の一人が、最近発表された論文の中にこれと同じ線画があった事を思い出してね。今では誰も住んでいない、極東の不毛の島嶼で発見された、古代の文字かもしれないって言ったんだ。"魔人"達が使っていたのなら、もしかしてテルース君にも……」
そこで急に声のトーンが落ちた。何故なら……
「コットスさんとブリアレーオス統括が君にも読めるんじゃないか、って言い出して」
そう、あたしが"魔人"の仲間であると疑っている人が、間接的にでも確証を得てしまうから。少なくとも黒寄りの灰色だったのが、限り無く黒に近い灰色に評価を変えてしまうから。
「あたしは、気にしない。既に処分を言い渡されている様なものだから。でなきゃ、"勇者"なんて薄っぺらい役目を負わされて監視付きの"魔人"討伐なんてやらされてない」
あたしはなる可く冷たく聞こえるように取り繕った。アーレクトーさんとティーシポネーさんは、鋭い眼光と殺気をあたしに向けるが、メガイラさんが二人を宥めるのが見える。
「テルース、言葉遣いには気を付けろ」
メガイラさんがあたしに忠告してくれた。自分自身の事は棚に上げるのね、とおかしくなってきて、笑いを堪えるのに苦労した。
「メガイラはどの口がそんな事を言うのかな」
と、ギュゲスさんが半畳を入れると、メガイラさんは赤面してしどろもどろになっていて、腹筋と表情筋が痛くなってしまった。
* * *
「さて、愉快な時間はこれ迄にして。事実だけを見よう。テルース君はこれが読める。それだけだ。これを読めるのが"魔人"とテルース君だけだったからと言って、君と"魔人"が仲間だという証拠にはならない。ここまではいいね?」
何万にもの人が同じ言葉を読めるからといって、全員が仲間という訳では無い。当たり前の事だ。精々が同じ国の人、というだけ。けど、たかだか六、七人しか読めないとなったら、事情が変わってくる。それでもギュゲスさんは、それは証拠にはならないと言ってくれたのだ。あたしは嬉し涙が出るのを必死で堪えた。
「その事実を前提にしてテルース君の力を貸して欲しい。ここに書かれている事、教えてくれないだろうか」
あたしはコクリと頷いた。
* * *
翻訳というのがこんなに難しいものだとは知らなかった。特に該当する言葉が無いものを説明するのは大変だ。例えば校舎。この国には学校、学舎というものが無いらしい。基本的に親から子へ、裕福な家庭では家庭教師から教育が行なわれる。そんな処へ、同じ年代の子供達を集めて教育するための建物だ、なんて言っても理解が得られる筈もない。
そして驚いた事に神様に相当する言葉もこの国には無かった。一番近いものでおとぎ話にでてくる聖女様、くらいなのだ。
そんな事に頭を悩ませながら、一通りの説明を終えるとギュゲスさんは確認してきた。
「つまり、ヒノナツミという子を建物の一室に呼び出した。呼び出した人達とは"魔人"達の事で、彼等は忠誠心とか言ってヒノナツミに何かを要求した。けどヒノナツミはその部屋から逃げ出し、その直後部屋は火事に見舞われた。多分"魔人"達は焼死して、この世の何処にもない世界で、カミサマに出あった。という事だね」
あたしは肯定した。所々、固有名詞とか変な発音の言葉になるのは仕方が無かった。
「突然火事なんて、放火じゃないか」
メガイラさんがもっともな意見を言う。あたしもそう思うが、じゃあ誰がという話になる。状況的には……
「うん、このヒノナツミという子が状況的には一番怪しいね。この内容からすると、"魔人"達は日常的に何等かの要求をしてたみたいだから、それに耐えかねて、というのは動機として有り得ないものじゃない。金銭的な要求とか考えられるよね。アプロディテの言い方に似てるから」
ギュゲスさんは、今訳した文章をこの国の言葉で書き写し、更に簡単な辞書、文法、文字の区切り方を纏めていた。コットスさんやブリアレーオス統括の他に、研究資料として論文の存在を思いだした人にも直接送るようだ。それらを魔術便で送ったギュゲスさんは、あたしを見た。
「それで、テルース君。何か気になる処はあったかい?」
正直、何箇所か気になる処があったのは事実だ。
「火野菜摘、旧校舎、神様。この三つの言葉を見た時、かすかに頭痛を覚えました」
セイトカイ、多分生徒会の事だ、という言葉を聞いた時も同じ様に頭痛がした事を思いだしていた。他にもある。
ルドウ
アイカワ
ツチヤ
アマタカ
ヒノ
ダイチ
今迄の"魔人"達の会話を思い出せるだけ思い出してみる。
「ルドウはエルメス、アイカワはアプロディテ、ツチヤはクロノス、アマタカはウーラノス、ヒノはこの文書のヒノナツミ、そしてダイチは君、テルース君の事を指してるとみていいね。セイトカイが何か分からないけどツチヤであるクロノスが自分の事を指して言ってたから、"魔人"達がセイトカイと関係ありそうだ」
「多分……」
ギュゲスさんの言葉に頷く事しか出きなかった。ギュゲスさんはあたしを元気付けるように肩をやさしく叩いてくれる。
「心配しないで。あの資料は君と彼等の間には良好な関係なんて無かった証拠になると思ってるから」
そんなの、その場凌ぎにしか過ぎない言葉と分かっていても、今欲しい言葉を呉れるギュゲスさんの気持ちは、あたしの心を温めてくれるのだった。
* * *
エドミレトの街に足を踏み入れたあたしたちは、言い知れぬ不穏な空気を感じていた。街を歩く人びとの目は、あたしたちを監視しているように感じられる。建物の影、二階の窓の奥など、直接人が見えない場所からは敵意さえ感じられた。真上から照らす太陽の光は汗ばむ程なのに、あたしの身体は冷気に包まれているように震えが止まらなかったのだ。
何故直接乗り込むような真似をしてしまったのか。それはギュゲスさんの隠蔽魔術が"魔人"達には効果が無いからだった。かと言って、遠巻きに街を監視した処で、"討伐"という目的を果たせる訳でも無い。それが単なる名目だったとしても、"討伐"の為にあたしたちは結成されたのだ。逃げればその瞬間、あたしは処分される。結局無策であっても街に入るしかないのだ。
取り敢えず、ポセイドーンが居るとされている街の中心にある大きな館を目指して、あたしたちは進んでいた。アプロディテに遭遇したのはその館の門の前だった。
彼女は相変らず婀娜っぽい。その艶かしい容姿は、女のあたしでも唾を飲みそうになる位だった。
「あら、ダイチじゃない。エルメスに聞いたわよ。ツチヤとアマタカを降したんですってね。でもあいつら、脳筋と賢しらぶった気障野郎だから、対した事なかったんじゃない?」
実の処、アプロディテが一番直接的な戦闘力が低いと思っていたのに、この余裕の態度は何なんだろう。と不思議に思っていると、
「ふふふ、私には攻撃する手段なんて無いと思ってるようだけど、こんな事は出来るのよ?」
と、周囲に響くように特徴のある口笛を吹いた。すると今迄監視に徹していた、あるいは隠れて敵意を向けていた街の人びとが一斉にあたしたちに襲いかかってきたのだ。
銛などの漁具を持つ者。
投石する者。
棒で突いてくる者、打ち掛かる者。
あたしが面喰うより先にギュゲスさんの防護力場があたしたちを囲った。そのお陰で、何とか街の人の攻撃から逃れる事はできた。だけど、この人達にどう対応すれば良いんだろう。この人達に対する怒りは全くない。
ふと、思いだした。違法薬物によって傀儡にされていた人達の事を。苦い思いも一緒に思い出す。あの時はエルメスへの憤りから薬物の中毒症状を解消したのだった。あれをもう一度やってみよう。
あの時の感覚を思いだせ。自我に関係なく操られた人びとを、彼等をそんなふうに仕立たアプロディテを。胸の内から熱の塊りが溢れ、黄金の光となり、奔流となって周囲の人びとを巻き込んでいく。
光が収まった時、目にしたものは。
半数の人は正気に戻り、今迄自分は何をしていたのだろうという疑問を浮べていた。しかし、残る半数の人は、相変らずあたし達への敵意の籠った目で睨み付けていたのだった。正気に戻った人達は、その場の凄惨な殺気に怯え過さま逃げ去っていった。
「彼等の悪意は、彼等自身の物。私はそれを増幅しただけなの。だから、あなたのその能力は通じないわよ」
ご親切にもアプロディテはあたしに解説してくれた。あたしにはどうにも出来ないと思ったのだろう。余裕の笑顔を見せていた。
その余裕ぶった態度が、あたしの怒りの根源に火を付けた。それは白光となってあたしの全身を包む。そして熱した豆が弾けるように、あたしの身体から無数の光弾がアプロディテへ向かって跳んで行った。
アプロディテへ襲いかかる光弾は、彼女の前に居た人びとを次々に打ちつけていく。だが誰も倒れる事無く、皆平然としていたのだった。
何故?
答えは、アプロディテからもたらされた。
「あなたのそれ、不義・不正・不条理を消滅させる物でしょ。どれも私については当て嵌まるけど、彼等には……ねえ。強い者が弱い者を襲うのはこの街の決りよ。ポセイドーンがそう定めたから。だから不義でも不正でも不条理でも無いの。だから彼等を盾に取っている限り私はあなたに負ける事は無いのよ」
あたしの怒りの方が決まりから外れてるって? そんな事ありえてたまるか! 感情の爆発の儘に幾つもの光弾を打ち出すが、どれ一つとして彼等に効いたものは無かった。全て悪意の街の人びとに遮られアプロディテに届いたものは一つも無かった。
彼等は防護魔術の上から、あたしたちに攻撃してくる。幾らギュゲスさんが頑張ったとしても、何時かは破られる時が来るだろう。
光弾を打ち過ぎて、あたしの気力・体力・熱が尽きかけた時。足下から仔犬の鳴き声が聞こえてきた。マールスだった。マールスがあたしを元気付けるように鳴いていたのだった。
不意にウーラノスとの闘いを思い出した。あの時、もう駄目かと思った時、マールスが傍に居た。そしてマールスが踝を舐めてた時、何故かあたしの能力の源泉が溢れだしたのだった。
マールスが何を伝えようとしてるのか、正直分からないけど、あたしはもう一度だけ、光弾を打ち出す準備をした。
先程までとは違った熱が足下から這い上がって来た。あたしの熱とは異質だが、嫌悪を感じるものでは無かった。それを全身に纏わせ、全方向に向けて弾き出す。
その光弾は今迄の白光ではなく青白い光だった。青白い光弾を打ち込まれた人びとは、次々と倒れていく。アプロディテの前に立つ盾役が全て倒れ伏し、彼女へと青白い光弾が届いたのを見た。
光弾が打ち抜いた瞬間、アプロディテは青白い炎に包まれた。その炎は焼き尽すというよりも、身体を蒸発させているようだった。
「くっそぅ! ヒノ……」
なぜここでヒノの名が出てくるのだろう。あたしはマールスを見る。マールスもあたしを見る。まさかね……
アプロディテが蒸発しきった時、地鳴りがしたかと思うと、立っていられない位の大きな揺れが街を襲った。街の建物は全て倒壊し、無数の地割れが街に走る。あたしは咄嗟に蹲まり頭を護る。
倒壊した建物の下敷になる者。地割れに飲み込まれる者。彼等の叫び声や呻き声、悲鳴が、エドミレトの街の至る所から聞こえてきた。
その声をまるで無いものの様な態度をした白皙の男が、あたしの目の前に現れたのは、揺れが収まった時だった。
* * *
「ダイチに大地震とは似合いだな」
目の前の白皙の男は詰らない言葉遊びをするが、とうてい笑えるものでは無かった。
「あたながポセイドーンね。全然面白くないわ。勉強しなおしたらどう?」
ふん、と鼻を鳴らして近づいてくると、いきなりあたしのお腹を蹴り上げてきた。その衝撃に胃の中の物が込み上げてくる。揺れと能力の使い過ぎで、いまのあたしは立ち上がる事もできず、必死で丸まって腕で頭を護る事しかできなかった。
彼は何度も何度もあたしを蹴り上げ、その度に身体に痛みと衝撃が走る。あたしはそれを必死に耐える事しかできなかった。
あまりの痛みに、意識がとぶ瞬間が何度も訪ずれる。
ああ、まただ。
不意にそういう感覚が訪ずれた。あたしは、これが初めてではない、という不思議な感覚だった。何時の事だろう。何処であった事だろう。
どこかの部屋だ。それは、あたしだけでは無かった。それは、あの女の子の経験でもあった。あの女の子とあたしはそっくり同じ経験をしていた。お腹を蹴られ、背中を蹴られ、腕を、腰を、脚を、服で見えない所は徹底的に蹴られ殴られた。あたしは、それでも持ち前の負けん気で、彼等を睨みつけていた。でもその女の子は。どんどん、どんどん生きる意欲を失くしていった。どんどん、どんどん全てを呪っていった。空虚になっていくその目を見ていたあたしは、それでも女の子に掛ける言葉を見付けられなかった。あたしはその女の子と次第に疎遠になっていった。そうしてはいけないと理解していた筈なのに。あたしは、あたし自身の事で精一杯で、結果的に女の子を見捨てた形になってしまった。
何て酷い事をしてしまったんだろう。その女の子にとって、あたしが唯一の命綱だったかも知れないのに。あたしは、女の子を見放してしまった。
あの日、消防車のサイレンが聞こえていたのも、あの時のあたしは聞こえないふりをしていた。クロノスやウーラノスの、アプロディテの言葉の意味が今なら分かる。あの女の子は、ついにやってしまったのだ。放火によって全ての鎖から解き放たれようとしたのだ。最期に、自分の生命を捨てる事によって。
あたしは、女の子を助けようと河に飛び込んだつもりだった。でも心の奥底では本当は気付いてた。あたしは、女の子と心中したかったのだ、と。女の子に贖罪したかったのだと。
気が付くと、ポセイドーンの暴力は止んでいた。どうしてか、分からない。薄く開けた瞼の向こうに、ポセイドーンと呼ばれた男の姿は跡形もなく消えていた。ただ、あたしの頬を舐めるマールスの存在だけが、現実としてあたしの前にあった。
つい最前まであたしの思考を占めていた想いは、跡形も失く消えさっていた。あたしは消えさったその想いに泪を流す事しかできなかった。
* * *
ギュゲスさん達は、あの暴徒の襲撃も巨大地震も乗り越えて何とか生き延びていた。
けど、皆満身創痍で、良く生きていたと思った。
アーレクトーさんや、ティーシポネーさんは剣技や体術は凄いのかもしれないが、それでも腕や脚を骨折していた。
メガイラさんは得意の風魔術で攻撃も防御もしていたようだが、頬にも腕にも青痣が絶えなかった。
ギュゲスさんは防護魔術を持っているが、あたしの防護に徹していたため、全身打撲状態だった。
エドミレトの街は壊滅状態にあった。住民のほぼ全てが巨大地震によって重症を負い、建物は全てが全壊。そもそも街の地盤が地割れによって段差だらけだ。立て直すより放棄した方が安上り。誰に聞いてもそう言うだろう惨状を呈していた。
あたしたちが街の惨状を茫然と眺めながている処に、魔術便が届く。
「緊急便だ。王都がジーウスに襲われている」




