エルメス Ερμης
「おーい、だーいじょーぶかー? 息は落ち着いてるから大丈夫だとは思うんだが……」
聞いた事の無い男の大声があたしの目を醒ささせていく。頭の中がぼんやりしていたので何を言われているのかは判断できなかった。
「今瞼がピクっと動いたよな。おい、大丈夫か?」
あたしの何かが男の声に反応したのだろう。男の声は普通の大きさになった。
何故か急にあたりが暗くなる。あたしの瞼は微かに震えていたが、ちょっとだけ力を込めて瞼を薄く開く。ぼんやりとした顔の様なものがあたしの目の前にあった。
「おー。気が付いたか? こんな所で行き倒れて、どうしたんだ?」
あたしは、急に意識がはっきりしてきた。目の前の男が心配そうにあたしを見詰めているのを認識すると、慌てて身体を起そうとした。しかし、目の前の男はあたしの両肩を押えてて、身動きがとれなかった。
「まてまて。急に動いちゃだめだ。肩から手を離すけど、そのままじっとしてて」
男は、言い含めるようにあたしに言い聞かせると、そっと両肩から手を離していった。あたしは首肯してはいなかったけど、男の言う通り、じっとして、けど男の動きを目で追った。
「君。僕がちゃんと見える? どこか痛いところはない?」
あたしは、最初の問いに首を縦に振り、二つ目の問いには軽く横に振った。
「そっか。良かった。じゃ、ゆうっくりと上体を起して。そうそう、ゆっくりでいいからね」
男の声に促されるまま、あたしは少しづつ上体を起す。まずは両肘を支えにして、次に腹筋に力を込めて、あたしは上体を完全に起した。
「気分は悪くない? 気持ち悪いとかない?」
男の問いに首を横に振る。実際どこにも異常は感じられなかった。
「良かった。あっ、喉は乾いてないか? そう、お腹は空いてない? そう、じゃちょっと立ち入った事を聞いても良いかな?」
ふたつ横に首を振り、最後に縦に振ったあたしに男は、
「どうして、こんな所で行き倒れてたんだい?」
と聞いてきた。あたしは、記憶を辿ろうとした。けれど。あれ!? 思い出せない! えっ! どういう事!
「落ち着いてー。ゆっくりでいいからね。慌てる必要はないからね」
男の声は、あたしを安心させる様な、穏かな響きを持っていた。少しだけ、気を落ち着かせたあたしは、もう一度記憶を探っていった。けれど、そこは空白のままだった。
「あの、あたし、どうしてここに居るのか全く思い出せないみたいです……」
「……そっか。じゃあ、自分の名前は分る?」
一瞬だけ眉を顰めた男は直ぐに元の表情を取り戻し、あたしに重ねて問いかけてきた。
「……テルース。うん、多分テルースです……」
何故かその言葉だけは、心の内から浮びあがってきた。
『君の名前はテルースだ』
と、何時か何処かで誰かに言われたような気がした。けど、それがどんな状況だったのかは全く思いだせなかった。
「そっか。じゃこれからはテルース君と呼ばせてもらうよ。あ、僕はギュゲス。この国の王宮魔術師だ。じゃあ、この犬が君の友達かどうかも思い出せないよね」
と男が視線を向けた先には一匹の赤毛の仔犬が居た。その仔犬は待ての姿勢であたしを見ていた。あたしは、なぜかその仔犬に謂れのない親近感を抱いた。
「うーん。多分、マールス。友達かどうかは分らないけど」
マールスと呼ばれた仔犬は嬉しそうにハッハッと舌を出す。
「そっか。その子が僕をテルース君の所まで連れてきてくれたから、多分君の友達なんだと思ったんだ」
ギュゲスさんは、嬉しそうにしている仔犬に向けた視線をあたしに戻した。
「さて、記憶が無いんじゃ困ったね。落ち着く所が決るまで僕と一緒に行動するかい? どうするか、君に任せるよ」
任せると言われても、あたしにも判断のしようが無い。何も知らないのだから、どうすれば良いかなんて、判る訳がない。マールスもギュゲスさんを非難するような目で見ていた。あたしも恨みがましい目をギュゲスさんに向ける。
「ああ、ごめんごめん。今のは、そういう意味じゃななくてね。ほら、僕も一応男だから、女の子の君には一緒に居るのが嫌じゃないかなって事だったんだけど。でも、そんな事言ってる場合じゃなかったよね」
要は見ず知らずの異性と一緒にいて嫌じゃないか、という事らしかった。が、あたしにとって今頼れるのはギュゲスさんしか居ないのだ。好き嫌いを言ってる場合じゃない。
「どこか、落ち着ける所までで良いので一緒に居させてもらえませんか。ギュゲスさん」
そう言うあたしに、彼はニカっと笑う。
「勿論。王都に行けば何とかなると思うよ。僕も手伝える処は手伝うし。でも、その前にちょっと寄る所があるから、そこに付き合ってもらう事になるけど良いよね」
あたしに否応はない。そもそもあたし一人では何もできないのだから。こうしてあたしは、記憶を失ったまま、ギュゲスさんに同行する事になったのだった。
* * *
道中、ギュゲスさんはこれから向う土地の情報を色々教えてくれた。そこは、嘗ては長閑な村だったという。だが何時の頃からか、一人の悪党の拠点となり、昔からの住人は奴隷となるか追放されてしまったのだそうだ。
エルメスとうい名のその悪党は、何でも取り扱う商いを始めた。そう何でもだった。
食料でも武器でも、
ポーションでも違法な薬でも。
物でも人でも。
言い包めては買い叩き、欲を煽っては高く売り付け。
あらゆる情報を収集し、デマの拡散させ。
エルメスの行為は、金儲けは勿論だが、それよりも社会に混乱を巡らせる事を楽しむ愉快犯のそれだった。そして、その被害は国中に及んでいるとの事だった。
ギュゲスさんはその村へ行く途中だった。その村を調査するためだ。
「こんなになる迄、何もしてこなかったんですか?」
何も知らない余所事として、あたしは気軽に質問してしまった。ギュゲスさんは少し困ったようになた。
「うん。今迄何度か調査の為に人が送られた事はあるんだ。けど、誰一人としてその拠点に辿りつけなかった。拠点に向う途中で事故に遭ったり、そもそも出発できない程の障碍に見舞われたりしてね。ああ、皆生きてるし大怪我もしてないよ。生命の危険は無いから、そこは心配しなくていい」
なにか危険な事があるのか、と心配したあたしの様子を見たギュゲスさんが慌てて言葉を追加した。
「その人たちは、どんな目に遭ったんですか?」
少しホッとしたあたしは気になった事を聞いてみた。
「河の氾濫だったり大風が吹いたりして足止めされて、どうしてもそれ以上先に進めなくなったみたいだ」
「じゃあ、ギュゲスさんもそんな目に遭ったんじゃ……」
そう心配したあたしに、ギュゲスさんは朗らかに笑ってこう答えたのだった。
「うん。だから今回は魔術師の僕が派遣されたんだ。僕ならそういう障碍に対処できるから」
* * *
数日後、あたし達は嘗て村だった、今はエルメスの拠点の近くまで来ていた。
ここに来るまで何度か行く手を阻む河の氾濫や大風が吹いたけど、ギュゲスさんは本当に何とかしてしまった。
氾濫した川には、見えない力場で作った橋を架けて渡河したし、大風もその力場で囲ったのであたし達の周りは無風状態だった。
「ここから、エルメスの拠点に入る事になるんだけど、テルース君はどうする?」
そんな事を聞いたのは、ここから先に進むのをあたしが怖がるからかも、と思ったかららしい。
「あの、ここに残ったからって安全という訳じゃないんですよね。足手纏いじゃなかったら、あたし達もギュゲスさんと一緒に行きたいです」
「まあ、そうなんだけどね。じゃ、行こうか。ここからは隠遁の魔術を使うよ」
と言ってギュゲスさんは何か呟いた。これであたし達は周囲からは見えなくなったらしい。あたしの視界は全然変化がなかったから、最初は実感は無かったんだけれど。
その恩恵は直ぐに解った。拠点に入るところに見張りが数名居たけれど、彼等はあたしとギュゲスさんに全く気付かなかったからだ。あたしは見張りを見た途端、身体が硬ばったけど、ギュゲスさんは唇に人差指を当てて声を出さないように注意した。マールスは雰囲気を察してか大人しくしていた。あたし達は音を立てないようにして、見張りの横をそっと通り過ぎていった。
──凄い魔術ですね
そういう気持ちを込めた視線をギュゲスさんに送ると、彼は得意気な笑みを見せたのだった。
そんなふうにして何人もの人を遣り過し、あたし達は一番大きな屋敷に着いた。元は村長の屋敷だったのか。寄合の為に作りは大きかったが、贅を凝らした、という程のものでは無かった。周りを囲む生垣を巡りながら屋敷の様子を窺う内、ある窓の向こうに一人の小柄な男が立っているのが見えた。
その男がエルメスだと直感したのは何故だろう。窓越しに見える男が不敵な笑いをわたし達に向けていたからどうか。それともマールスが今にも跳びかかりそうだったからか。
あたしは警戒心を強めて男を見詰めた。
「ねえ、それで隠れてる積り? 僕からは丸見えなんだけどさ」
その馴々しい呼び掛けにあたしはぞっとした。生理的嫌悪感というものだったのだろう。そして、何故かギラギラと光るナイフを想い起させたのだった。
「ねえ君。どっかで会った事あるよね。君の雰囲気に覚えがあるんだけど。なんでかな?」
ギュゲスさんを見ると、隠遁の魔術が通用しなかった事に驚いたみたいで、茫然としていた。そんな場合じゃないでしょうと、あたしは彼の脚を蹴る。はっと我に返ったギュゲスさんは、あたしとマールスに、低く小さな声で「退散!」と声を掛けた。
「君達、僕から逃げられると思ってるの? まあ、やってみなよ。無駄だけどね」
太々しい、やや甲高い声のエルメスが嘲笑しながら屋敷から出てきた。と同時にあたし達は猛烈な旋風に取り囲まれてしまった。触れれば切れそうな風の刃が、あたし達の周りをぐるぐると回っていた。
行き場を失なったかに見えるあたし達。けど、気を取り直したギュゲスさんは、慌てる事なく見えない力場を展開する。風の刃は力場に遮られた。
「ふーん、ちょっとはやるじゃん。でもこうしたらどうなるかな?」
ゆっくりとあたし達に近付いていたエルメスは、そう言うやいなや風の勢いを強めると同時にその範囲をギュッと縮めてきた。強まった勢いに、力場は次第に狭められていく。ギュゲスさんは必死に風を押し返すため力場を広げようとしていたが、その努力も虚しく風の刃はあたし達の直ぐ目の前に迄迫ってきた。
絶対絶命に陥ったあたしに、不意に幻聴が聞こえた。
『君がその能力を揮えば不義・不条理は消えて無くなる』
あたしは、咄嗟にエルメスに大声で叫ぶ。
「あなたは、なんで人びとを混乱させる事ばかるするの!」
エルメスは哄笑する。
「何故って? それが楽しいからさ。何にも知らない人が、噂に惑わされて奪い合い、右往左往する様がおかしいからだよ。欲をかいた人を騙して絶望させるのが、清貧をかかげる人を堕落させるが愉快だから。そう、僕の思惑通りに人があたふたするのが心の底から笑えるからさ! 今はお前たちがそうやってあたふたするのを見るのが面白いからだね」
なんてことだ。彼は自分が愉しむためだけに人を不幸に陥れているのだ。こんな奴、絶対に許せない!
そんな怒りが腹の底から湧き上がってきた時。
あたしの身体が熱を帯び。
あたしの身体を中心に白光が放たれる。
この旋風は、エルメスの愉しみの為だけに創られた不条理そのものだ。あたしから放たれた白光はその不条理を即座に打ち消した。
驚いた顔をしたエルメスは、口を開けてあたしを見ていた。そんな彼に対してマールスが威嚇の唸り声を上げる。あたしは彼を睨みつける。
「あなたの様な存在、あたしは存在自体許さない。消えてしまえ!」
ふたたび熱くなる身体。マールスが大きく吠えるのが聞こえる。
「おっと、それを喰らうのは勘弁」
そう言い捨てたエルメスは、自ら旋風を纏い空へと舞い上がる。
「君さ、誰かに似てるって思ってたけど、ダイチだろ。その気の強いところとか正義漢ぶってるところがそっくりだよ。もっと遊びたかったけど、今日はここまでにしとくね。じゃあまたね」
そう言ってエルメスは空高く舞い上がり、消えていったのだった。
* * *
「テルース君、凄い能力を持ってたんだね!」
不意に声をかけられ、吃驚したあたしはギュゲスさんに振り返る。興奮する彼を見て、あたしは必死で言い訳した。
「いや、あたしもこんな事になるなんて全然知らなくって。あいつの言い草に、カーってなったら、ああなっちゃってて!」
「一回、王宮に来てよ。テルース君なら王宮魔術師になれるかも知れない。そうすれば住む所も、お金も心配しなくて良くなるからさ」
それは、心引かれる提案だった。記憶も無く、これからどうやって生きていけば分からないあたしにとて魅力的な言葉だった。
「あの、ちょっと考えさせて下さい」
そう答えるあたしに、
「うん、良く考えて。王都に着くまでまだ時間はあるから」
と、ギュゲスさんは家捜しの為屋敷へ歩きながら、朗らかに笑って答えるのだった。




