River
川は流れている。変わることなく。
灰色の空、灰色の景色。全ていつも通りだ。
いつの間にか作られていた、この場所の名が書かれた看板に目をやる。ご丁寧に英語も併記されている。
ここを訪れる非日本語話者への対応として、英語の研修を受けたことを思い出す。まさかこの齢になって、新しいことを始めさせられるとは思いもしなかった。そもそもこの場所の起源も非日本語圏にあるわけで、それを考えると増々複雑な感がある。
「どうかしましたか?」
看板を眺めたまま立ち尽くしていたようだ。隣に立つ妻が私の顔を覗き込んでいる。長年連れ添い、共に働いている妻であるが、広く認知されているのは私よりも彼女のようだ。
「いや、なんでもないよ」
誤魔化すように小さく笑い、川を眺める。客がやって来たようだ。妻が駆け寄る。
「どうもご苦労様でした。では、こちらにお着替えください」
そう言いつつも、実際にはほとんど妻が客の着替えを済ませた。客は呆然と為すがままになっている。ここを訪れる者は大抵がそうだ。
妻の仕事は、川を渡り終えた客から濡れた服を引き取ることだ。以前は引き取ったらそのままだったが、いつからか替えの服まで用意するようになった。苦情があったらしい。
「あなた?」
妻は引き取った服を差し出しながら、訝し気に私を見ている。また考え事に気を取られてしまったようだ。
服の重さを量らねば。私の仕事だ。
妻の差し出す服を受け取り、枯れているようにも見える大きな木に向かう。以前はあの木の枝に引っ掛けて量っていたのだが、私の感覚ではないか、との苦情が入ったらしく、精密な秤が導入された。わざわざ木の根元に置かずともよいだろうに。
手にした服から重さを感じられないことに今更ながら気付いた。最も軽い区分に入ることは疑いないが、手順通りに秤にかける。
秤は全く動かなかった。秤を導入してからそれなりに経っているが、このようなことは初めてだ。所在なさげに立つあの若い客のことが気になった。
「どうぞ、私に付いてきてください」
客のもとに戻った私は、彼に声をかけた。本来であればここからは客が一人で進むのだが、たまにはよいだろう。妻は、仕方ない人、と言うように私を見て笑った。
歩き出した私に、彼が辺りを見回しながら付いてくる。
「あの、ここはやっぱり?」
彼は例の看板を見ると私に尋ねてきた。
「えぇ。まぁ、そうです」
「何と言うか、想像と違いますね」
どこか間の抜けた感想だ。まだこちらに来たことの実感がないのかもしれない。いつも妻に笑われている私に言えたことではないが、いささか呑気な性格の持ち主のように思える。
「ここも随分様変わりしましたから。特に最近の変化は急激でした」
私と彼だけの、静かな岸辺を歩く。以前は子供たちの姿もあったが、ここにもまた、児童労働にあたるのでやめろ、という苦情があったため、今では誰の姿もない。
荒涼たる風が、隣を歩く彼の髪を揺らした。
「僕はこれからどうなるのでしょうか?」
「上の者からお沙汰が下りますが、あなたなら悪いことにはならないでしょう」
「ここから戻ることは出来ないでしょうか?」
私が首を振ると、彼は沈鬱な表情を浮かべた。戻りたがる者は多い。彼ほど若ければ尚更だろう。
「何か気がかりでもあるのですか?」
「妻のことです。僕は何もかももらってばかりで。恥ずかしい話なのですが、彼女には迷惑ばかりかけていました」
彼は気に病んでいるようだが、秤の様子からすると、その妻は迷惑だとは思っていなかったのではないだろうか。
「ようやく妻にも喜んでもらうことが出来そうだったのですが」
「と言うと?」
「僕は絵描き、と言っても全く売れていないのですが、ある方の目に留まり、個展を開いていただけることになったのです」
彼は微笑んだ。世俗を感じさせない、どこか超然とした雰囲気がある。
「ですが、その方とのお話に行く途中、不注意で車にぶつかってしまったのです。どちらにも申し訳ないことをしてしまいました」
彼は目を伏せた。同じ理由でここに来る者は多い。だが、秤の様子からして、彼に落ち度があるとは思えない。
「あなたの行動には問題はなかったのでは?」
私の質問に、彼は心底驚いたように目を見開いた。
「とんでもない。僕が浮かれていたのでしょう。注意を怠った僕が悪いのです。せめて、相手の方に怪我などなければよいのですが」
客観的に見れば、彼に非はなかったはずだ。自罰が過ぎるようにも思える。
目的の建物が見えてきた。以前は厳めしい装飾の施された外観だったが、今では飾り気のない簡素なものとなっている。例によって、誰彼構わず威圧感を与えるのはいかがなものか、との苦情があったそうだ。
ここまで来たのだ。彼の処遇をどうするのか、直接聞いてみるとしよう。
建物を見上げている彼を促し、私たちは中に入った。内部も外観同様、清潔感はあるが無機質とも言える作りになっている。
入ってすぐの玄関広間には、受付待ちであろう幾人かの客の姿が見える。呆然とどこかを見ていたり、うなだれていたりと、それぞれ多少の違いはあるが、至って静かなものだ。もっとも、騒々しい者は別室に連れていかれるのだが。
「ここはどのような施設なのでしょうか?」
「お客様には、まずこちらで、審理を受けるための手続きを行ってもらいます」
「審理?」
「先程お話した、お沙汰を下すためのものです。審理を終えるまで時間がかかるので、こちらにはそれまで滞在してもらいます」
彼は感心したように何度か頷いた。以前は流れ作業のごとく審理も即座に終わっていたため、ここに滞在する必要も設備もなかったのだが。またしても、重要な審理をそんなに簡単に終えられるものか、という苦情によって、審理を終えるまでの手間と時間は増大した。結果には影響はない。
彼を連れて、幾つか並んだ受付窓口の一つに向かう。以前は窓口などなく、皆慌ただしく走り回っていたものだが、設備投資と人員整理で効率化が果たされたと聞いた。走り回る者こそいないものの、常に忙しそうな彼らの様子を見るに、本当に効率化されたのかは疑わしい。
「番号札を取ってお待ちください」
受付は手元の書類に目を落としたまま、手で発券機を示した。
「少しいいかな」
受付は視線を上げた。見覚えのある顔だ。
「あれ? ここに来るなんて珍しいですね。何かありました?」
「問題は何もないんだけれど、長官は?」
「長官室にいらっしゃいますよ。取り次ぎましょうか?」
「いや、勝手に行くからいいよ。邪魔して悪かったね」
受付は小さく頭を下げると、書類に視線を戻した。
窓口を離れ、長官室に向かう。彼が私の横に並んだ。
「長官というのは?」
「きっと、あなたも話に聞いたことのある方ですよ」
彼はしばらく考える様子を見せると、表情を硬くした。
「そんなに緊張することもありませんよ。厳格ではありますが、寛大な方でもありますから」
彼は硬い表情のまま頷いた。一般に想像されるであろう長官の姿を考えれば、無理もないことだろう。
長官室の前に立ち、扉を叩く。
「入れ」
威厳を感じさせる低い声が響いた。入室する私に彼が続く。彼の全身から緊張している様子が伝わった。
「何かあったか?」
私たちが入室するなり、大きな机を前にして座った長官は顔も上げずに尋ねてきた。
相変わらず書類仕事に忙殺されているようだ。机に山積した書類によって、長官の巨体が隠されている。書類を電子化しようという動きはあるようだが、遅々として進んでいないらしい。
「先ほどいらっしゃった、彼についてです」
長官は一瞬だけ彼を見て頷いた。続けろ、ということだろう。
「重さがありませんでした」
私が単刀直入にそれだけ言うと、長官は手を止めて彼を見つめた。彼は直立したまま身じろぎもしない。
「珍しいこともあったものだな。審理では当然考慮させてもらう」
「それだけですか?」
長官が私を睨む。
「何か言いたいことでもあるのか?」
「彼の行く先は決まっているようなものでしょう? それなのに、審理を終えるまでただ待たせるというのは酷ではありませんか?」
長官は大きく息を吐くと苦笑した。
「まったく、とうとうお前まで苦情を入れてくるとはな。特例を作りたくないのだが」
「重さがないことが既に特例なのです。さして問題は起こらないでしょう。それどころか、良き前例となって、今後彼のような者が増えれば、私たちの仕事も楽になるというものではありませんか」
長官は私を睨むと、鼻を鳴らした。
「お前の話にも一理ある、としておこう。それで、何が望みだ?」
「それは、本人に尋ねるのがよいでしょう」
私は一歩下がって彼を見た。長官の視線が彼に移る。
「ここから戻ることは出来ないでしょうか」
「それはならん。私の権能を超えている」
長官は大きく首を振ったが、彼もその答えは予想していたのか、落胆した様子は見えない。
「では、妻と会うことは出来ないでしょうか。伝えたいことがあるのです」
「直接会うことは許されん。だが、代理の者が出向いて、その者に会うことは許そう」
長官は私を見ると、口の端を持ち上げた。
「お前の提案だ。最後まで責任を持つのだな」
彼の妻には会ってみたいとも思っていたが、まさかこのようなことになるとは。
「お願いします」
彼が私に向かって深々と頭を下げる。こちらでの仕事に就いてから、あちらに行くなど初めてのことで気は進まないが、引き受けるしかない。
「それでは明日、お前のところに迎えをやる。それまでに準備を済ませておくがよい」
長官は書類に向き直った。話は終わりということだろう。彼と共に頭を下げて部屋を後にする。
部屋を出たところで、彼が頭を下げた。
「あなたも偉い方だったのですね。僕のわがままのために、本当にすみません」
「私はただ長く働いているだけですよ」
実際、私には何の権限もないのだから。私が苦笑すると、彼も釣られたように微笑んだ。
「それより、伝えたいこととは?」
「最後まで迷惑をかけてしまったことを、謝りたかったんです。それと、僕のことで悲しんでいるのなら、そんな必要はないと。僕のことは気にしないでと伝えてください」
私が伝えたところで、相手が聞き入れてくれるだろうか。そもそも面識のない者が会いに行くのだから、不審がられるだけではないだろうか。どう伝えたものか。気が重い。
「他には何かありますか?」
「せめて絵を贈りたいのですが、ここには画材はあるでしょうか?」
「係の者に言えば、ある程度の物は揃うはずです」
審理を待つ間はある程度の自由が許されている。これも苦情対応によるものだが。
丁度良いところに、見覚えのある案内係の姿が見えた。向こうも私に気付いたのか、やや驚いた素振りを見せると、こちらに近付いてきた。
「ご無沙汰してます。珍しいですね」
「受付でも言われたよ」
「やっぱり」
案内係が笑った。確かにここにはそう来ることもないが、そこまで珍しいものだろうか。
「彼を案内してやってくれないかな。区分は最軽量で」
「分かりました。軽量のお客様は大歓迎ですよ。苦情もないし」
案内係は苦笑した。苦情を受ける機会が多いのは彼らと受付係だろう。頭の下がる思いだ。
「ありがとう。お願いするよ」
案内係は頷くと、彼に向き直った。
「それでは、ご案内します」
「よろしくお願いします」
会釈する彼に、案内係が笑顔で礼を返す。私もそろそろ戻るとしよう。
「私はこれで失礼します」
「色々と、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる彼に頷き、私は建物を後にした。
まさか客の願いのためにあちらに行くことになるとは。自分で思っていた以上に、彼が気に掛かったようだ。
いつもの職場に戻った私を、笑顔の妻が迎えた。
「随分と遅かったですね」
「色々あってね。明日、少しだけあちらに行くことになったよ」
妻は目を丸くした。
「驚きました。でも、あなたもたまには冒険なさった方がいいかもしれませんね」
気楽に言ってくれるものだ。思わず笑ってしまう。
「今日に続いてすまないが、ここの仕事は任せるよ」
「もちろんです。あなたもしっかりなさってくださいね。いつもみたいにぼんやりではいけませんよ」
そう言って笑う妻に、私は苦笑しか返せなかった。
翌日、見覚えのない職員が彼と共に訪れた。彼は布に包まれた絵画らしきものを抱えている。
「妻に、これを渡してください」
絵画を受け取る。彼の顔には疲れが見えた。休む間もなかったのだろう。
私が頷くと、彼は微笑して深く頭を下げた。
「それでは、あちらにお送りします」
「気を付けて行ってらしてね」
わずかに不安を滲ませた妻の笑顔が目に入った瞬間、視界が暗転した。
陽射しが眩しい。草木の鮮やかな緑と、遥か高く広い青空が目に映る。鳥のさえずりや人々の声が聞こえてきた。
穏やかに流れる川の水面が光を反射している。私の職場とは比較にならない色彩や賑やかさではあるが、辛うじて馴染みの感じられる場所で多少は安心できる。
目の前には女性が一人、岸辺の草むらに腰を下ろし、静かに川を眺めている。
数歩近付くと、痛々しい程憔悴しきっているのが見て取れた。彼女で間違いないだろう。
「もし、すみません」
声をかけてみたものの、彼女は動くことなく川を見つめたままだ。もしかしたら、川を見てすらいないのかもしれない。
更に近付く。私の日陰に入ったことで、彼女はようやく私を見上げたが、何を言うこともなく視線を戻した。
「あなたのご主人からの言伝があります」
彼女は再び私を見上げた。だが、その瞳は私ではなくどこか遠くを見ているように感じられた。こんな状態の彼女に、私が言葉を伝えたところで何にもならないのではないだろうか。
腕の中で、彼の絵画が重さを増した気がした。
私は彼女の隣に屈み、絵画を包む布を取り去った。
そこには、私の見慣れた場所が描かれていた。
灰色の空、灰色の景色。
流れる川と、その岸辺に並ぶ二つの影。
寂寥しかないはずのその光景に、何故か暖かさと希望を覚える。
彼女に絵を差し出す。絵を映す彼女の瞳に、光が射した。
「この絵を、どこで?」
彼女は私から絵を受け取ると、それを見つめたまま、小さな、掠れた声を出した。
どう答えたものか考えているうちに、彼女は首を振った。
「いいんです。彼が絵を続けていてくれるのなら」
彼女は絵を抱きながら立ち上がる。
穏やかに吹く風が、彼女の髪をなびかせた。
「私に謝っていたんでしょう? それに、悲しむ必要はないって」
彼女が微笑んだ。その表情は、どこか彼に似ている。
「彼に伝えてください」
彼女を見上げながら、私は頷く。
「私はあなたといられて、本当に、喜びしかなかったと。これからもきっと悲しむけれど、それでも、あなたを想い続けるから、いつかまた会えたら、沢山の絵を見せてと」
川の対岸の、更にその先を見つめるように、彼女は微笑んだ。
彼女に射す陽の光のせいか、それは何か尊いもののように感じられた。
幾らかの時が過ぎた。彼の審理も予想通りの結果に終わった。もっとも、彼は絵の題材を求めて様々な場所に出向いているらしい。彼女の願いも果たされることだろう。
今日も客がやって来た。いつも通り妻は客を着替えさせようとしたが、その客は抵抗を見せた。たまにはこのようなこともある。
当然、妻も慣れたもので、客の抵抗など意に介さず、濡れた服を剥ぎ取った。
その服を受け取ってすぐに、最も重い区分に入るであろうことが分かった。手順通り秤にかけるが、私の感覚に違わない。
「おい! 何だよここは! 事故って散々めんどくせぇ思いして、またすぐ事故るだけでもありえねぇってのに! 意味が分からねぇよ!」
客は暴れだしたが、すぐに職員に連行されていった。あの客には重量に見合った刑罰が与えられることになるだろう。
業務改善は刑罰を担当する部署にも及んでいる。最適な人員配置がなされている、という一点においてだ。苦情など受け付ける余地はない。最重量ともなれば、切られ、打たれ、突かれ、割られ、折られ、潰され、焼かれ、抉られ、吊られ、裂かれ、砕かれ、刺され、絞められ、撃たれ、剥がされ、断たれ、穿たれ、あらゆる苦痛を受けることになる。
客は連行されながらも、騒々しい声を上げ続ける。ここではさして珍しくもない光景だが、他の客が不安げに見ている。近いうちに、苦情によって何かしらの対応がされるかもしれない。
妻が私を見て笑った。苦笑しながら目を逸らす。
いつも通りの灰色の景色が、あちらから戻って以来、少しだけ鮮やかに見える。
川は流れている。変わることなく。けれど留まることなく。