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追われるような日常にわき目も振らず無我夢中な里沙がふと最近雨に日が多いと部活中に未佐子に呟いた。梅雨入りし連日雨なのだと教えられ、初めてその事実を知った。気がつけば期末テストも終わっていて、本格的に体育祭に向けて学校全体も動き出す。午後からは授業もなく各団のミーティングや練習にあてられ、体育祭委員は基本的に団の方にはほとんど参加せず運営にまわる。つまり午後からは常に仕事に追われる日々になっていった。
久しぶりに天気の良い日の昼休み。里沙は校庭で今度は本来の担当である用具係の仕事をしていた。放課後では外で活動する部活の邪魔になるということで、それまでに終わるようわざわざ昼休みに借り出されていたのは用具係だけではなかったが、里沙はその中でも特にほこりっぽいことをしていた。
グランドの端にある用具倉庫の中のものを全部取り出して修理が必要なものを集めて会議室に運ぶ。
ある程度会議室に集まってきたところで里沙と多岐とで運搬組みから離れて、会議室に運び込まれた物をデータに起こす作業に移った。
その隣の生徒会室では数名の生徒会役員が違う仕事をしていたり、どちらの部屋にも委員が出入りして慌しい雰囲気だったが、二人はそれに煽られることも乱されることもなく自分の仕事をマイペースに坦々とこなしていた。
里沙は持ち込まれた物に張られている修理箇所が書かれた紙と実物を検めて分類し、多岐はその内容をパソコンに打ち込んでいる。最初は二人とも集中して黙々とやっていたが、慣れてきた頃ふと多岐が里沙に声を掛けた。
「高峰先輩、僕のことタッキーとあだ名で呼ばないんですね」
没頭している里沙は作業の手は止めずに声だけで返事をした。
「あだ名ねー、中学の時にねー、ちょっとねー」
多岐もまたパソコンから目は離さず、手元も動いたまま会話を続けた。
「何かあったんですか?」
「友達に諏訪さんって子がいてさー、諏訪っちから派生してシュワッチって呼ばれてたんだ。その子をデパートで偶然見かけて呼んじゃったんだよねー」
「あー、あだ名でですか」
「もちろん。あれって初代の変身だか登場だかで言う台詞なんでしょ、呼ばれた諏訪さんも恥ずかしかったと思うけど、言ったあたしもかなりさー。思いっきり叫んだからめっちゃ見られたよー」
「それはイタイ思い出ですね」
「そっ、だからさー、思わずってのは直しようがないから変化球のあだ名で呼ぶ方を基本禁止にしてるんですよ」
「納得しました」
そこで会話は途切れたが、先にひと段落した里沙が多岐が座る席に近づいて尋ねた。
「あだ名で呼んで欲しい?」
「いえ、自分ではあまり気に入ってないので今のままでいいです」
里沙はそのまま横のイスに座り、自分がメモした内容をあとで多岐が作ったデータに書き加えやすいようにまとめ始めた。そしてまた変わらず二人で作業しつつ会話が続く。
「気に入ってないんだ、別に変じゃないのに」
「嫌だってほどでもないので」
「……タッキー?」
「……やめて下さい」
「別に嫌じゃなんでしょ?」
「他の人はいいですが、高峰先輩はダメです」
「なぜに! そんなこと言われると天邪鬼だからなーあたし」
「嫌な性格ですね」
「そうなんですよ、タッキー」
「……そっちがそうなら、僕も高峰先輩に変なあだ名付けますよ」
「え、どんな?」
「そうですね、ではジャックにします」
「……天邪鬼だからジャック?」
「そうです」
「センスないなー」
「ジャックに言われたくありません」
「……そんなに嫌じゃないのがまた」
「嫌じゃなんですか、やっぱり変な人ですね」
「変人発言のが傷つくわ!」
「ジャックは変な人確定です」
「くっそー、タッキーめ! 悔しいから休憩してくる。自販機行ってくるけど何かほしいものは?」
理沙はぐーっと伸びをして、多岐の方を向く。
多岐も手を止めて、少し目を丸くした。
「買ってきてくれるんですか?」
「ジュースぐらい奢ってやろう、あたしは常識人だからな」
「ありがたく頂きますが僕も行きますよ。ついでにあとどれくらい修理品が出てくるかグランドの方の確認もしてきましょう」
「はーい」
二人で会議室を出て先に校庭に向かった。用具倉庫の状況を確認し、まだ細々としたものがあって里沙と多岐の仕事は終わらないことが分かった。
終わらない仕事量に二人ともため息を吐きつつも自販機に向かい、気持ちを保つために手近なベンチに座ってジュースで一服。珍しく二人とも黙ったままボーっと校庭の様子を眺めていた。
「お礼に購買でおやつ買ってあげますよ」
お互い飲み終わった頃多岐が立ち上がりながら言うと、相手が後輩でもそういうところに遠慮ない里沙は素直に喜んだ。
「マジ! やったー」
すぐに購買に行き、お菓子を物色する。
「生徒会室に差し入れも買いましょう」
「なるほど、あたしのはついでってことか」
そんな嫌味を言いつつも、理沙の目線はお菓子の棚から逸らされない。
「勘繰りですよ、何が食べたいですか?」
「うーん、チョコかな」
「蒸し暑くなってきたのにですか?」
眉間に皺を寄せる多岐に、理沙はにこにこだ。
「今日は天気がいいから暑いだけでしょ、雨の日はまだ肌寒い時もある」
「今は暑いって認めてますよ」
「いいの、あたしはチョコね。みんなにはこれとこれとかどう?」
嬉々として指さす理沙を多岐は茶化すことなく頷いた。
「いいですね、先輩の案も取り入れてチョコ系も混ぜときましょう」
「おおー、余ったらあたしが食べる」
大量にお菓子を買い込んだろところに、ある団の団長が多岐を見かけて話しかけてきた。
「多岐ー、さっき生徒会長がグランドで探してだぞ。今はたぶん体育館の倉庫の方にいると思うから行ってやったほうがいいんじゃないか」
「はい、分かりました。すぐ行ってみます」
多岐の返事でその団長はすぐ去っていた。その直後今度は里沙の方が呼ばれた。
「高峰」
「はいっ」
タイミングの良さについ驚く里沙だったが、振り向いて相手を確認しても気が抜けるわけじゃなかった。
「三村君じゃん、何か御用でしょうか?」
嬉しい緊張を悟られないように、普通を装いながら話す。
「……委員のことで、ちょっといいかな」
「はいはーい。多岐君も生徒会長の方行ってきなよ、あたしもちょっと休憩したら会議室でさっきの続きするし」
「はい、データ入力は僕がやるのでそのままでいいですよ。たぶんすぐ戻れると思うので」
「了解」
多岐と別れて、お菓子を抱えた里沙が歩きだそうとするとまた別の声が掛かった。
「りーさー」
廊下の奥から駆けてくる姿が小さく見えた。声から誰だかわかった里沙は反射的に手を振ろうとしてお菓子の落としそうになる。
「あっとっと……」
三村が手を貸してくれたおかげで床に落とさずにすみほっと胸を撫で下ろす。
「半分持つよ」
里沙の腕の落下から救出してもらった分よりさらに数個三村は引き受けてくれた。
「ありがとー」
そこ頃には翔子はすっかり里沙達の前までやってきていた。
「里沙お疲れー、三村っちもこんにちは」
テンションの高い翔子は飛び跳ねんばかりにびしっと手をあげてあいさつした。体育祭の練習が本格的に始まってから熱血の翔子は常にこんな感じだった。
「うちの団の様子はどう?」
里沙は委員会で忙しくて自分の団の状況さえほとんど知らない。
「なかなか良い感じですよー。里沙もちょっとは参加できるようにしてるから手が空いたら今日じゃなくても顔出してね」
「そうなんだ、分かった」
熱心さを言えば翔子の五分の一もない里沙は団の誰かに引っ張っていかれない限り参加しないだろうと自分で思っていたが、頑張っている翔子に水を差すようなことも言えず一回くらいは自主的に参加するかとその熱気に早くも押され始めていた。
「三村っちも体育祭委員なんだぁ、団の方にはあんまり参加できないね」
委員には腕章が配布されているので、それを見て翔子は三村がそうだと分かったようだ。
「俺は最初から分かってて委員になったから、高峰はたまたま代理でなったから参加できない残念感が違うんじゃないか?」
三村もまた自分から委員になった口なので、体育祭への参加意欲はどちらかと言えば翔子よりだ。だからそういう発想になるんだろうと里沙は苦笑した。
「翔ちゃんとかと違って元々やる気満々って感じじゃなし、委員で使われてる方が寧ろ役に立ってる気がする」
里沙はいまさら取り繕っても冷めた感じを誤魔化せるわけもないと正直に思ってることを言った。しかし翔子はそう思ってはいないようで強めに否定してきた。
「そんな事ないよー、里沙がいないと違うの! だからできるだけ団の方にも来て」
情熱の塊のような翔子に里沙は笑いながら、三村にその熱の理由の一つを説明した。
「翔ちゃんは団の幹部なんだよ」
「へー、木之下さんは実は熱い人だから、幹部やってるのとか似合うな」
確かにその通りだと里沙も頷き、三村が翔子を熱いと知っている理由を思い当たることがあった。
「そう、そういえば去年もすごかったね!」
去年の体育祭での三村のことは覚えてなかったが、里沙にとっては翔子達との思い出の一つだ。もちろん翔子の方も体育祭のことはしっかり覚えているようだった。
「去年の体育祭で里沙と仲良くなったんだよねー、三村っちとも去年はいろいろ喋ったけど今は体育館以外で会うのは久しぶりだねー」
和太鼓部のリハーサルで体育館のステージを使うときに同じくバレー部で練習している三村と会うことがあるということだった。
三村はそれに頷いたが、それだけじゃないと言う。
「ランニングの外周とかでもすれ違うよ」
「すれ違ってるだけでしょー、三村っち足速いから周回抜かしとかしてくるよね」
「そうだっけ」
すれ違っているのは分かっているくせに、抜かしているという意識が三村には抜けているようで、それで翔子は益々悔しがって里沙に訴えてくる。
「そうなんだよー、里沙からも注意してあげて。ささやかなプライドが傷つくの!」
里沙の肩に縋って泣く真似をする里沙に笑いながら一応慰めた。
「男子と女子だし三村君は運動部だし、それくらいは気にしなくてもいいんじゃない」
「えー、太鼓叩くのだってすっごく体力使うんだよー」
翔子は口を尖らせて抗議の体制だ。
「太鼓は腕だから足の速さとか関係ないと――」
そう三村がフォローのつもりで言ったことに翔子は喰い気味に反応した。
「和太鼓は全身なの! 足腰がしっかりしてないとちゃんと響かせられないんだから」
翔子の和太鼓愛を知っている里沙は三村が翔子の地雷を踏んでしまったと心の中で手を合わせて憐れんだ。
しばらく翔子が和太鼓談義を三村に聞かせているのを眺めていた里沙だったが、さすがに仕事に戻るために止めさせた。
「翔ちゃんに和太鼓語らせたらいくら時間があっても足りないから……」
「そんなことないよー」
「なんとなく感じた。普段と熱気が違う」
「普段から熱い女だよー、私」
それは里沙も三村も苦笑いだった。
「あれ、そう言えば三村君あたしに用があるんじゃないっけ?」
途切れた会話で三村がこの場に居る理由を思い出した里沙が尋ねると三村も時間がないのか言葉を濁した。
「あー、えっと、高峰は……今日の委員会出るよな?」
「うん、定例だし」
毎日なんだかんだと開かれる会議だったが、週に一度は全体が集まる定例会議が行われていた。
「じゃあ、その時でいいよ。ちょっと気になっただけのことだから」
「りょーかいです」
すでに多岐が戻っていたらまた小言だと焦らずとも急いでいる里沙も特に三村の用件は聞かずにそれを受け入れた。
「お菓子落とさないよーにな」
三村が持っていた分を渡され、腕の中はまたお菓子でいっぱいになった。
「まあ、落としても食べるのは生徒会のみなさんだからぁ」
「だったら尚更な、あと下見えないから階段で落ちるなよ」
「どんだけマヌケだと思われてるんだ、あたし」
「念のためだよ、じゃあ後で」
校庭の方へ戻っていった三村を二人で見送って、翔子と二人で歩き出した。
「翔ちゃんはすぐ団の方に戻るんだよね?」
「うん、ちょっと職員室に用があって出てきただけだからそれも済んだし戻るよ」
「じゃあそこの角でホームールームまでバイバイだなー」
「早く委員の方終わらせて団の方に来てよー」
「できるだけ頑張ります」
角で分かれる直前翔子がふと里沙に聞いた。
「ねぇねぇ里沙のことは高峰って呼び捨てなんだね」
三村のことだとすぐに思い当たり、里沙自身は意識していなかったが何かきっかけがあったような記憶を思い出した。
「去年のなんかの時に、さん付けは気持ち悪いから要らないって言ったからじゃないかな」
「ふーん、そうなんだ」
翔子には珍しく思案げな表情になる。
「翔ちゃん?」
「ううん、なんでもない」
里沙が声をかけるとすぐに笑顔に戻り里沙にニコニコと笑いかけた。
このとき翔子のらしくない様子に里沙は僅かな疑いを抱いてしまった。
その後翔子ともすぐ別れて会議室に戻り作業を再開させたが、用事を済ませて多岐が戻ってきてもさっきのように会話を弾ませることなどできなかった。そのあとの委員の定例会議でも笑み一つ見せずにいる里沙に、日ごろを知ってる生徒会役員や用具係の面々は首を傾げていた。