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翌日。
学校に行くのは気が重かったが、休むのも悔しいと思いちゃんと登校した。
昨日はどんなに頑張っても胸が苦しくて眠ることもできず、食欲もない里沙の体調はあまり良くない。同じクラスに久本がいるというのも今の里沙にとっては頭が痛い理由の一つだ。唯一の救いは二人が付き合っていたことを知っているのはごく僅かだということだけだった。
「里沙ー、おはよー。昨日の模試どうだった?」
教室に入ると里沙の親友である木ノ下翔子がいつも通り声を掛けてきた。おはようとだけ里沙が言うと翔子は驚いた顔をした。
「いつにも増して化粧濃いけど、何かあったの?」
クマや目の腫れなんかを隠すために厚塗りなのは間違いなかったが、翔子の遠慮のない言葉に思わず苦笑していた。
「後で話すよ」
まだ久本は来ていないようだったが、昨日の出来事を教室で話すことはとてもできない。まだまだ自分の中でも消化できてない事を親友以外に聞かせたくはなかった。
その空気を読んだ翔子は素直に了承してくれた。
「じゃあ、お昼外のベンチで食べよっか」
そう言って笑い、肩を軽く叩いて席に戻っていった。
そこへちょうど担任が入ってきて、その後をついてきたかのように遅刻ギリギリで久本も登校してきた。
思わず泣きそうになるのをグッと堪えて、なるべく久本が視界の中に入らないように目を彷徨わせた。
しかし朝のホームルームが終わり、授業が始まるとそれも難しくなった。久本の席が里沙の席より前にあるため、黒板をみると癖のようになっているのか自然と久本の背中が目に付いてしまう。
俯いているしかなくなった里沙は、ふとあのシャーペンが目に入った。朝なんとなくペンケースに入れたそれを手に取ると、試しに書いてみることにした。
しかし何文字も書かないうちに芯が折れる。数回それを繰り返して壊れてるのかとシャーペンを見ると、0.3と書いてある。
「……なんでわざわざ」
思わず小声で呟いていた。
0.5ミリの普通のシャーペンでも筆圧が高い里沙はよく芯を折ってしまうのに、0.3なんて使いこなせる品物ではない。しかも、0.3の芯なんて持ってるわけもない。
「使いやすいなんて嘘じゃん……」
それでも初期装備されている芯がなくなるまで、その日はそのシャーペンを使った。それに気をやることでどうにか授業を受けることができるからだ。そのうえ、芯の細さ以外は本当に使いやすいとわかったからでもあった。強く握らないようにするためなのか長く使っていても手が疲れにくく、ノートの上での滑りもよくて慣れれば確かに使い心地は良さそうだった。
昼休み、里沙は人気の少ない校庭の隅で昨日の事をどうにかこうにか話していた。何とか泣くのだけは堪えようと引きつった表情で、それが聞いている人間にはさらに痛々しく映っていた。
里沙の話し相手は、朝から里沙を心配していた翔子ともう一人、今は別のクラスにいる親友、森本未佐子だ。その二人とは三村と同様、一年の時に同じクラスになったのが初めての出会いの高校から仲良くなった友達だった。未佐子とはクラス替えで別れ、二年になっても同じクラスなのは翔子だけだが依然変わらぬ関係が続いている。
翔子と未佐子は小学生のときからの付き合いらしいが、性格はまったく別だ。
木ノ下翔子という人間は小柄で一見ふわふわとした雰囲気で声も柔らかく、天然のゆるふわウエーブの掛かった髪がよく似合っているのだが、性格は反して力強く熱血なところがあった。
そんな翔子を冷静に制しているのが森本未佐子だ。彼女は高い背とさっぱりとしたショートカットがもたらす大人っぽい外見のままの性格で、常に落ち着いていて里沙にとっても姉のような存在だった。
そんな二人は里沙の話を聞くとそれぞれの言葉で励ました。
「里沙! そういう時はすぐにでも連絡くれれば飛んで駆けつけたのに!」
翔子はなぜだが半泣きで、話終えて沈む里沙に抱きついてきた。
「そうだよ。でもまー、それも出来ないくらい傷ついたってことだよね」
翔子に苦しいほど抱きしめられてる里沙の頭を未佐子が優しく撫でてくれるせいで、里沙はまたも号泣しそうになったが、昨日の二の舞にならないように瞳を潤ませるだけで我慢した。
「……ありがと」
声が震えるのはさすがにどうしようもなかったが、二人が優しく何も言わず慰めてくれたのでまた少し心が穏やかになったような気がした。
それから三日が経った。ようやく例のシャーペンを使いこなせるようになってきていたが、心のジクジクした痛みは未だに続いていた。
久本に好かれるために始めたメイクもやめることができなかった。里沙にとってそれはオシャレという意味だけでなく、弱い自分を守るためのものなってしまっていた。
その日、授業後の当番掃除を終え部活に向かう途中でたまたま三村と遭遇した。
「あ、シャーペン本当に貰っちゃったけど良かった?」
少し気にかかっていたのでそう言うと、三村は安いものだから気にするなというようなことを言い、そんなことよりシャーペンの質のほうがよっほど気になっているようだった。
「使い心地はどう? あれさ、俺も使ってるんだけど製図用のシャーペンに近い作りでブレが少ないやつなんだ」
まるで自分が開発したかのような三村の口ぶりに里沙はなんだか純粋に褒めるのは癪に障る気がして感謝とは裏腹についクレームをつけていた。
「それはよく分かんないけど、何で0.3なんて細さなの? 使いやすいどころか、バキバキ折れるから芯の消費量半端ないんだけど」
言われて気が付いた三村は気分を害した様子もなく理由を説明をした。
「そっか、数学とか化学とがさ、あと物理もかなー、計算式とかぎっしり書くから細いほうが何かと都合が良くて、俺当たり前に0.3にしてたから忘れてたわ。ごめんごめん」
全然悪いとは思ってない感じだったが、貰っといてあんまり文句ばかり言うのもどうかと思い里沙は素直に納得してお礼を言った。
「ふーん、とりあえずありがと。確かに手が疲れにくくなったから勉強もはかどるかもだし」
「かも、かよ。……うん、まーちょっとは元気になったみたいだな」
やっぱり慰めるつもりだったのかなとその時の事を思い出して少し恥ずかしくなった里沙は、いまさらだが言い訳しようと口を開きかけた。
「あのさっ――」
「俺いちいち買うの面倒くさくて芯は箱買いしてあるから、変なもんやった責任取って今度いくつか持ってくるわ、それでチャラってことで」
何がどうチャラなのか、またも訊ねる間もなく三村は部活に遅れるからと言って里沙の前を去っていった。
「三村君ってあんな訳分からんキャラだったかなー」
一年の時の記憶を掘り起こしてもどうにもよく分からなかった。あまりしっかりした会話の記憶もなく、精々体育祭や文化祭といったイベントごとで必要なことを話し合ったくらいだった。
それでもその時は普通に話を進められていたはずで、だからこそそれほど印象に残っていないとも思えた。
「未佐ちゃん達に聞いてみるかな」
三村の言動に首をかしげながらも、里沙も部室へ足を向けた。そしてそのまま三村のことを気にすることはなかった。
里沙の所属しているのは家庭部という調理部と手芸部が一緒になったような部活で、正式な活動日は週二回のみというユルさにかけてはどこの部よりも断トツの部だった。正式な活動日なんて言うのも、毎日来る者もいれば気が向いた時だけの者もいるからだ。
さらに目的の物が出来上がりさえすれば、いくらでも話をしていられる。部の特徴から部員のほとんど女子ばかりで常ににぎやかだ。
それでも何名か男子部員もいるが、限りなく女子に近い男子や、作品作りにひたすら没頭している変わり者という感じなので、ガールズトークを繰り広げても特別支障はなかった。
未佐子もこの部に所属しているので里沙が話をするのにはちょうど良かった。
部室にしている被服室のドアを開けると、すぐさま未佐子に見つけられた。
「里沙、平気?」
近づいて潜めた声でそう聞かれるのもすでに日課のようになっていることに苦笑すると素直に現状を報告した。
「平気って言えば平気かなー、あれからまったく連絡とってないし、教室でも目も合わせないし」
昨日、一昨日は、それくらいのことでも考えるのが難しくて『無理』と『ダメ』しか言えなかったのが大きな進歩だった。
「久本と一緒にいた子、今私と同じクラスだしどうなってるのか聞いてみようか?」
「うーん、それはいいよ。向こうは一応知らないって感じだったし、今はまだどう受け止めていいかあたしも混乱中だし」
里沙が未佐子の横のイスにちょこんと座って冴えない声でそういうと、未佐子はまたよしよしと髪を撫でた。
「それでもちょっとは落ち着いたみたいだね、部活来ないかと思ってたけど来たし」
「まーね、やる気はないけどとりあえず来とこうかなと思って」
実際やりかけの作品に手を付ける気はまったくなく、気合で挑んだとしても五分と持たないだろうと簡単に想像できた。
今里沙が作っているものは夏に向けてプライベートで自分が着る用のワンピース。
それと部のノルマのヌイグルミ。まだひと月以上先の夏休みのそのまた後にある文化祭で展示する用の凝ったヌイグルミ達だ。
今年の文化祭では部長が相当入れ込んでいて、教室一つを丸々メルヘンワールドにする計画だ。おかげで早くも家庭部総出でそれぞれ役割分担して作品作りに取り掛かっているのだが、それでもギリギリの予定になっている。実際文化祭間際になれば各々自分のクラスの仕事も出てくるだろうし、当日にはお菓子の販売までも計画されているために、少しでも早く始めてできるだけ終盤に余裕をと皆頑張っている。
しかし、そこはユルイで有名な家庭部であるから部員は文化祭用以外にもあれこれ作る。気分が乗らないからと言って調理室でケーキを作ったり、はたまた一心不乱にコスプレ衣装を作ったりと自分のやりたい事はやる主義な人間ばかりだった。
そのなかで里沙はといえば、然して家庭的でもなんでもない。未佐子に誘われてなんとなく入部し、気ままな雰囲気に流されて今に至るため、それほど熱心ではないし活動日以外は来ない。ましてや家に帰ってまで作業したりもしない。
それでも行事前の追い込みにはそれなりに徹夜なんかして参加するが、それもその妙な緊張感と高揚感が好きだからであってそれがなければ冷めたものだ。
だからミシンに向かったり料理をしたからと言って気分転換になることはない。
そう分かっていながら部活に来たのは単純に未佐子にこれ以上心配かけるのは悪いと思ったからだ。
昼休みに会っては翔子と二人で塞ぐ里沙を慰め、励ましてくれている。どうにも溌剌とは出来ないまでも、少しは立ち直らなくてはと努力する気持ちにさせてもらっていた。
「それにして向こうからも何も言ってこないってのはどういう了見なのかしら」
未佐子は針と糸を操りながら少し憤りの含まれた声で久本を批判した。
「うーん……」
想像できることはあるが、とてもじゃないが言葉になんかできない。どれもこれも自分にとって辛い事しか思いつかない上に、あきらかにそのどれかが事実であると判るからだ。
いまさら里沙の都合のいいようになんて想像でもできない。
でもたった三日でも時間が経過したことで里沙にも久本に対する怒りが湧き上がってきていて、たとえ里沙にとって幸いな理由だったとしてももう久本と復縁するなんてことは決して望むものではなくなっていた。
未佐子は自分の問いかけに考え込むように黙った里沙に返事をせかせるようなことはせず、黙って作業を進めていた。
「未佐ちゃん……」
「ん?」
「一回ちゃんと話したほうがいいのかな」
頼りなげな表情で里沙が問えば未佐子は手を止めて里沙と向かい合った。
「里沙が引きずりそうだっていうんなら、決着つけたほうがいいんじゃない」
「引きずりはしないと思うけど……トラウマにはなるかも」
「それってもう恋愛できないとかって意味?」
整理しきれない感情を里沙自身探りながら今の心情を話した。
「そうじゃないけど、何か……よく分かんないけど、なんかもう怖い……のかな」
今グチャグチャとなっている感情が、これから先綺麗に整理されなんの痛みも感じなくなる時がきても、あの瞬間の出来事を完全な思い出としてしまっておくことはできない。そう漠然と感じている。
それが一体どんな状態なのか里沙は上手く想像ができないが、怖いと言うのが一番近い気がした。
未佐子は机に突っ伏していて目線の合わなくなった里沙を眺めながら、優しく言葉を掛けた。
「私も恋愛の経験なんて語れるほどしてないけどね、怖がってもいいんじゃないかなって思うよ。傷ついたんだから臆病になることは当然だし、だから次は慎重にってくらいに思えばいいのよ」
「慎重かぁ」
里沙の辞書にはあまり登場しない言葉に具体的なシミュレーションができず、それを未佐子も感じ取ったのか忠告も交えて噛み砕いて説明した。
「ここのところの里沙はテンション上がりすぎてた感じあったしさ、でも恋愛って舞い上がるもんだってのは分かってたからあえて言わなかったんだよ。だからさ、今回のことを教訓にしてわざと自分でクールダウンすることを覚えるの」
「浮かれすぎてるように見えてた?」
ほとんど自覚が無かった里沙は思わず顔を上げてそう聞いていた。
「少しね」
そんな里沙のリアクションを見て未佐子は苦笑し、里沙は再びずるずると机に沈んでいった。
「だから痛い目みたのかなー」
「里沙、そんな風に自分責めるのやめな。どうみても向こうが完全に悪いんだからね!」
語尾を強めた未佐子のその険しい表情に、里沙は思わず笑ってしまった。
「ちょっと里沙、笑うのは酷いんじゃないの」
「ごめんー、なんかちょっとさー」
はっきりとあっちが悪いと断定してくれることは、例えそうじゃないかもしれないと里沙自身が思っていてもとても救われる思いだ。
そんな友達がいてくれた事が里沙は本当に嬉しかった。
「ありがと未佐ちゃん」
「翔子にも言ってあげてね。あの子自分の事のように凹んでるから」
「もちろん! 二人にはマジで感謝してるー」
甘えるように里沙は未佐子に抱きついた。
「危ないってばー、針使ってんだから刺さるよ」
「いやぁ、イタイのきらい~」
「もう、里沙~」
キャハキャハと二人がじゃれあっていても特別注目を浴びないのが家庭部なのだった。