男だから
修学旅行を前にして今もって三起也に言われた「(女の子に)興味なんかあるわけないだろ。見たことすらないんだから」というひと言が気になっていた僕は、はしゃぎまわる泰三を見て、面白くなかった。しかし、その悩みをたったひと言で解決したのは、誰あろう泰三であった。
いよいよ明日から修学旅行である。
何年も前から楽しみにしてきた修学旅行を翌日に迎え、気分も大いに盛り上がってと言いたいところではあるが、僕は相変わらず三起也のひと言が胸につかえていて、一人悩んでいた。
三起也の一件以来カレの奥ゆかしさにはますます磨きがかかり、日に何回か目視することでようやくその存在を確かめている始末である。
なんとか授業をやり過ごし、修学旅行を翌日に迎えてのホームルームが始まっていた。クラスはいつになく浮かれモードで、皆込み上げてくる喜びを持て余している感じがした。
「いいか、知っての通り、明日から待ちに待った修学旅行だ。と言っても、これは遊びじゃない。わかってるな」
空手着を着たクリクリとした目の若手教師、この男が我が担任塚チンである。塚チンは古文の教師であるが、なぜか学校ではいつも空手着を着ている。なんでも、学生時代から続けている空手は師範級の腕前で、学生時代は世界一強い男になろうと日々精進してたとのことである。
「ならばだ。この修学旅行の目的とはなんぞや? 泰三、どうだ」
泰三が指された。このクラスで一番だらしない顔をぶら下げていたんだろう。容易に想像がつく。数日前の槌田とのバトルでできたアザは薄くなったとはいえ、まだ目立つ。
「旅行の目的?」
泰三は迷った挙句、
「『まい』に会うことであります」
とのたまった。一瞬にして場が凍った。この男、阿呆だとは思っていたが、ここまで阿呆だとは思なかった。
泰造は自分のしでかしたことの重大さにも気づかず、頭をポリポリ掻いて恥ずかしそうにうつむいている。
「しようがない奴だな」
塚チンは苦笑いを浮かべている。どうやら冗談と取ってくれたようだ。脳天気男にはつくづく寿命を縮ませられる。今の泰三の発言は当局に連行されるレベルである。
「気持ちはわかる。先生だって、鬼でもなければ、悪魔でもない。お前たちには楽しんでもらいたい。ただ、さっきも言った通り、これは遊びじゃあない。お前たちにとって初めての市外だ。貴重な人生経験の一環だ。いろんな意味で見聞を広めてほしい」
こんなことを言ったところで、頭の中がピンク一色に染められた男子高校生に響くわけはない。彼らが見聞を広げたいのは極めて限定的な方向に集約されているのだから。
「見聞を広げるんだ。市外に出るってことは、今までなかったチャンスなんだ。例えば、普段は絶対に見られないものとか、な」
ここでなぜか、塚チンはウインクをした。
「じゃあ、明日からの旅行、楽しんでいこう、ただし、羽目は外し過ぎるなよ」
そう言うと、颯爽と教室を出て行った。途端に教室が騒がしくなる。
「オイ、今塚チンなんて言ってた?」
慎伍が振り向いて声をかけてきた。
「見聞広げろとか言ってたな」
「いや、その後だ」
「普段絶対に見られないものを見ろとも言ってたな」
「……普段見られないもの……」
「女だろ」
泰三が入ってきた。
「それに塚チンウインクしてたよ」
新次郎も椅子を寄せてきた。
「女だろ、絶対」
「そうだよね、ウインクまでしてたもんね」
泰三と新次郎は塚チンが暗に女の子を見てこいと言ったと思っている。あんな発言があっちゃそう思うのも仕方がない。
「それでこそ塚チンだ。理想の先生だぜ」
「僕、塚チン大好きだよ」
盛り上がる二人をよそに慎伍は一人眉間にシワを寄せ、
「どういう意味だ?」
とつぶやいた。
「慎伍、人を疑ってばかりいちゃ、立派な大人になれないよ」
新次郎は人差し指を立てチッチッチッと動かした。
「いや、これは俺たちを油断させる作戦かもしれない」
「そんなことばかり言ってると女の子にモテないぞ」
泰三は腰に手を当て、ほほをぷっと膨らませている。明らかに浮かれている。もはや慎伍の忠告など忘れているに違いない。
「いや、泰三。すぐ信じるのはどうかと思うぞ。あの夜も言ったとおり……」
慎伍が話しかけても聞いちゃいない。仕舞いには僕に絡んできた。
「どうしたんだよ、お前まで黙っちゃって。そんな顔して女の子に会うつもりか?」
人生始まって以来の大問題と格闘中の身としては、その無駄な明るさがうっとおしい。
「どうしたんだよ!」
返事を返さずにいると、泰三は僕の肩をつかんで揺らし始めた。いくらうれしさを持て余してるとはいえ、甚だ迷惑である。お前、いい加減にしろよ感を満面に表し、泰三をにらむが、脳天気男はまったく気づかない。こうも揺らされては気持ちも悪くなってくるというものである。父親の手作り弁当をリバースする危険を感じ、仕方なく口を開く。
「お前はいいよ、気が楽で」
「何が?」
ようやく揺れが収まった。危うく父親の愛情を無にするところだった。ちなみに今日のおかずは父親自慢の手作りコロッケである。
「お前、女の子見たことないよな?」
「なんだ? 今さら。あるわけないだろうが」
「それでも好きなのか?」
「当たり前だろ」
「見たこともないのに好きなんて理屈に合わないだろ?」
悪いとは思ったが、人の気も知らず、はしゃぎ回っている泰三が少し腹立たしくもあった僕は、例の大問題を泰三に投げかけてみた。ところが、泰三はこの問題をたったひと言で解決してしまったのである。
「男だからな」
「えっ?」
「それが男ってもんじゃないの?」
泰三は胸を張ってちょっと威張っている。目の前に広かった濃い霧が急に晴れたような気がした。そうだ。僕は男だ。世の中、男がいれば女がいる。男が女を求めるのは自然の道理である。見たことがあろうとなかろうとそれは当たり前の話なのだ。女性研究の大家としては、あるまじき失態である。よりにもよってそれを泰三に教えられるとは。
「泰三! お前すごいな」
うれしくなって出た言葉がこれだった。あの熱い思いがよみがえってきた。体の奥底から無尽蔵にわき出てくる、この喜びはなんだ。
「どうした、急に。ニヤケたりして」
泰三が言った。知らぬ間に気持ちがそのまま顔に出ていたようだ。
「明日から修学旅行だぞ。泰三はうれしくないのか?」
「そりゃ、うれしいけどよぉ……」
僕の異常なはしゃぎ振りにさしもの泰三もちょっと引いている。でも、自分が本当に女性が好きか否かという人生最大の難問から解き放たれた僕はまさに水を得た魚、鬼に金棒状態である。このまま修学旅行に突入していたら、最悪な旅行になるところだった。そう思うといくら泰三に感謝しても、し足りない。
「ありがとう、泰三。ありがとう」
泰三の手を取り、何度も握手を交わした。
「お、おう」
泰三はちょっと困っている。僕とて喜びを爆発させたって構うまい。こういった役回りは何も泰三の専売特許ではない。最高の修学旅行になりそうだ。今日は眠れそうもない。