和解
組長会議の結果は散々だった。しかし、慎伍はなぜか手ごたえを感じている。
組長会議から一週間、各クラスの組長がやってきた。果たして組長会議の結果はいかに。
驚いたことに慎伍の予想は早くも的中した。
週明けの放課後のことである。
「誰だ? あの親父?」
「なんかキモクね。学ラン着てんぞ」
クラスの数人が声を潜めて話しているのが聞こえた。同時に言いようのない寒気を感じ振り向くと、窓から平野がじっとこちらを見ている。相変わらず死んだ魚のような目をしている。
槌田や豚也なら、危険人物として皆注意を払っているが、平野の場合、極端に存在感が薄い。そのため、知っている生徒は少ない。僕もジャンボで会ってなかったら、気付かなかっただろう。しかし、その存在が一旦脳裏に刻まれると、拭っても拭っても決して消すことができない悪夢のような男である。
慎伍は既に帰宅している。先日の件かもしれないので、仕方なく僕が要件を聞く。
「どのようなご用件でしょうか?」
学生服を着ていても、保護者としか見えないその風貌に不覚にも敬語が出てしまった。平野は無表情のまま聞き取れないぐらいの小さな声で、
「先日の件、了承した」
と言った。言い終わったあと、平野は鼻から下だけで小さく笑った。そのまま聞き返す間もなく姿を消した。
豚也がやって来たのは、翌々日の昼休みである。
他のクラスとの仲が悪いのは周知のとおりであるが、中学が一緒だったりする連中とは仲がいいということもある。であるからして、他のクラスの連中が休み時間に来ることもある。そんなとき、窓際に座っている僕に声がかけられることは当然多くなる。
「ねえ、慎伍は?」
背後から声をかけられた。今日で三度目だ。少し面倒くさかったこともあり、受け答えも乱暴になる。
「何の用だ?」
振り返ると窓の外に立っていたのは豚也である。
「アレ? 君、誰だっけ? なんか見たことある」
豚也はこっちを向いて笑っている。相変わらずの半袖姿だ。つい先日のことにも拘わらず、ありがたいことに僕のことは覚えていないようだ。面と向かって豚也と呼んでしまった僕としては、気づかれるわけにはいかない。そっとほほを膨らまし、別人を装った。
「何それ? 僕をバカにしてんの?」
豚也はすごい形相でこちらをにらんでいる。どうやら自分のマネをしてると勘違いしたようだ。やめときゃよかった。
「ちょっと待ってろ」
と言うと、豚也はズカズカと教室に入ってきた。反射的にベランダ側に逃げる。こんなときに限って、慎伍は購買に行っていたりする。いつもは弁当のクセに。
机をなぎ倒しながら、追いかけてくる豚也はさながら巨大な猪のようだ。猪のような豚也に追いかけられながら、そう言えば中国では猪年ではなく豚年であったな、なんて無益なことが頭に浮かんだが、そんな悠長なことを考えている場合ではない。
先日の組長会議に出ていなければ、この時間にトイレにでも行っていれば、慎伍がいつものように教室で弁当を食べていれば。追いかけられながら、僕は自分の運のなさを嘆いた。神も仏もあったもんじゃない。しかし、自分だけが運が悪いと思ったら大間違いである。
「あ、豚也」
前野の声だ。手にはパンと牛乳を持っている。おそらく教室に来たら、豚也がいたので驚いて、つい口がすべったのだろう。
「てめえ、今なんつった?」
「いや、失敬。じゃ」
前野は右手を上げてそう言うと、そそくさと教室を出て行った。一瞬、ポカンとしていた豚也だったが、ハッと我に返って前野の後を追いかけ始めた。
慎伍がパンを手に教室に入ってきたのはそのときである。入口でばったりと豚也と鉢合わせた。
「おう、琢也。この間はサンキューな」
「お、おう」
出て行こうとする豚也に慎伍が続けた。
「俺に何か用じゃないのか?」
慎伍が言うと、豚也は
「よ、用?」
と言って立ち止った。ほんの数分走っただけで肩で呼吸している。ワイシャツは汗だらけで豊満な肉体がところどころ透けている。
豚也は丸太のような腕を組むと考え事を始めた。目をつむって考えているが、一分たっても二分たっても何も出てこない。そのうち顔はゆで蛸のようになってきた。
「ひょっとして、手を組むこと考えてくれたのか」
見かねた慎伍が助け舟を出した。大きな体がピクンとなった。眉間によったシワがみるみる緩む。そして歪んだ笑みを浮かべ、
「どうしても手を組みたいのか」
と言った。
「ああ、頼むよ」
慎伍が言うと
「ングウフフフ」
さらに気味の悪い笑みを浮かべた。そして
「仕方ねえな、お前が泣いて頼むんだからな」
とご機嫌で帰っていった。
慎伍が作成した会議録には、組長会議の際に言った通り、慎伍が各組長に泣いて頼んだことになっている。自分一人が恥をかいても修学旅行を成功させようと思っているのだ。
危なかった。前野が来なかったら、あの豊満な肉体で何をされたかわかったものじゃない。そういう意味では前野は怪獣から知的財産を守ったことになる。かつてない大きな働きと言えよう。
「慎伍、さすがの僕も怪獣たちの相手ばかりさせられるのは愉快とは言えんな」
「悪い悪い、購買が混んでたんだよ」
慎伍だって好きなときに購買に行くのは自由である。しかし、今日みたいなことが起こると、そう言わざるを得ない。
考えてみると、今のところ慎伍の予想通りである。僕は改めて慎伍の読みの正確さに感心した。
その槌田がやってきたのは、修学旅行を翌週に控えた金曜日の昼休みだった。腹も満たされ、うつらうつらしていた僕は、突然背後に刺すような視線を感じた。教室の後ろの入口から僕をすごい目でにらんでいる。槌田である。
いつものように不機嫌丸出しで、ズボンに両手を突っ込んでいる。
とりあえず慎伍を探すが、またしてもいない。恐らくトイレかなんかだろう。よくない傾向だ。
そもそも、なぜ僕がそれまでほとんど接触がなかった槌田から親の仇でも見るような視線を送られる羽目になったのか、それは組長会議に同席したからである。あの会議にいなかったら、僕はD組のその他大勢としての確固たる地位を確立し、完全に対岸の火事としてこの状況を遠くから眺めていられたはずである。半ばと言うか完全にだまされて知らぬ間に組長会議に引っ張り出され、挙句の果てがこの有様である。納得できるはずがない。僕が納得しなくても、槌田がそのターゲットを変えてくれるはずもなく、暴力的な視線を容赦なく浴びせ続けてくる。
しかし、僕も男。ここまで遠慮ない視線を送られて大人しくしていられるほど、人間ができあがってはいない。潔く槌田の前に出て、正々堂々と要件を聞こう、と実に男らしい決断をしたときのことである。
「おい、髭男爵。邪魔だ、どけ」
食堂から戻ってきた泰三が槌田の背後に立った。端から喧嘩モードである。ところが槌田はビクともしない。丸無視である。
「耳まで悪くなったのかよ、頭だけじゃなく」
泰三が肩に手をかけた瞬間、
「バカはてめえだろうが」
槌田のパンチが泰三の顔に炸裂した。奇しくも巻き添えを恐れた生徒が机椅子を避難させたことで、それらしいスペースができあがってしまった。教室が泰三バーサス槌田、無制限一本勝負のリングと化したのである。
いつも何かというと揉める二人の実力は伯仲していた。泰三のケリが槌田の腹部を捉えたかと思うと、槌田はその足をつかんで、床に打ち据えた。マウントを取られたかと思いきや、スピードに勝る泰三は素早く入れ替わり、思うさま槌田を叩きのめす。
白熱する技の応酬に、いつのまにか周りに生徒たちが集まって観戦しだした。世界戦のリングサイドよろしく、クリーンヒットが炸裂するたび歓声が沸き、拍手が起こった。
「お前たち何やってる!」
血相を変え飛び込んできたのは慎伍である。二人の間に割り込んであっという間に事態を収めた。極珍空手有段者のなせる業である。二人の戦いが、いかに見ごたえのあるものであったのかは、慎伍が止めに入ったとき、あちこちから舌打ちが聞こえてきたほどである。
「なんでそう喧嘩ばかりするんだ。すぐに修学旅行なんだぞ。少しは考えろ!」
珍しく慎伍が声を荒げた。これだけ激しい喧嘩をしてしまったのだ。もうC組とD組は手を組むことはないだろう。泰三も槌田も酷い顔である。鼻血は出てるし、アザはあちこちにできている。
「お前らにとって修学旅行とはそんなものなのか? それで後悔しないのか?」
慎伍はこの件に関しては誰よりも成功を願っていた。それゆえ、あんなデタラメな会議録を作ってまで、各組長に手を組むことを促したのだ。
慎伍も肩を落としている。さしもの僕も何と声をかければいいのかわからなかった。
「……痛っ。てめえ、覚えてろよ。この借りは倍にして返すぜ」
槌田が大儀そうに立ち上がった。右目の周りにじんだ血が痛々しい。
「……そりゃ、こっちのセリフだ。なんなら今だっていいんだぜ」
泰三も立ち上がった。鼻は腫れあがり、見るに堪えない。
槌田はよろよろと泰三の元へやって来た。「よし、来いやあ。髭チャビン」
泰三はやる気満々である。第二ラウンドの始まりか、誰もがそう思った。
「バーカ」
槌田はひと言言うと、身構えた泰三の脇を通り過ぎ、慎伍のもとへやって来た。そして、にわかには信じられないことを口にした。
「この間の件、C組は了承した」
「えっ?」
「C組はお前らがどんなお宝を見つけても先生には告げ口はしない。お前の心意気は分かってるつもりだ」
「槌田」
「バカは無視すりゃいいからな」
と言って泰三を思い切りにらみつけると、教室を出ていった。
「なんだ、アイツ。格好つけやがって」
泰三が唇を尖らせるが、すぐに
「アチッ」
唇を押えた。唇が切れているのだ。
「大丈夫か、泰三」
普段、このような場面に不慣れな僕としては、血が出てる時点で大事件である。ましてや泰三のように顔が変形している場合、どの程度ダメージがあるのもか見当がつかない。
「大丈夫、大丈夫。こんなの屁でもねえや」
いつものように泰三は強がってみせる。
「慎伍、これで全クラス制覇だな」
「お前が書記として協力してくれたおかげだ。まだうちのクラスが済んじゃいないけどな」
そうだった。泰三は強固に反対していたのだ。慎伍は座って目を押さえている泰三に向かって言った。
「泰三、この前の話の続きだ」
「ほかのクラスと手を組むって話だろ? なら、いいぜ」
あっけないほど簡単に泰三は了解した。
「どうしたんだ、お前?」
あまりの豹変ぶりに慎伍も驚いている。
「あのときとは状況は違ってるからな」
ポリポリと頭を掻いて、なぜか恥ずかしそうに頬を染めた。
「状況?」
「『まい』にこれ以上さびしい思いをさせるわけにはいかねえ」
拳を握りしめ、キッパリと言った。一瞬何のことを言ってるのかわからなかった。
「まい? ああ、夢に出てきた」
慎伍が言うと、
「いや、俺の運命の女だ」
妙にいい声で言った。
僕は心底感心した。泰三の単細胞ぶりに。まいちゃんの存在を一ミリも疑っていない。
泰三は立ち上がると声を張り上げて、高らかに宣言した。
「俺は誓う。この旅行で絶対に『まい』を見つけてみせる」
「わかった、わかった。わかったから、今日はもう帰って寝ろ。体ボロボロだろ」
慎伍が言うとさも心外だと言う風に
「なんで? こんなの屁でもねえって」
とわざと目をパチクリさせてみた。それにしても怪我の程度を表すのにいちいち『屁』を持ち出さないと気がすまないというのは、どのような精神構造によるものだろう?
「無理するな。ひどい顔だぞ」
「えっ? ウソだろ?」
本人はケロッとしてるものの、慎伍が何気なく言ったこのひと言がいたく胸に刺さったらしい。一目散に手洗い場に行って鏡を見ている。顔を見て相当ショックを受けたのだろう。分かりやすく肩を落として帰ってきた。
「大丈夫だよ、泰三。見たところ、ちゃんと歩けてるし。旅行は行けるよ」
「……大丈夫じゃない……」
消え入りそうな声で泰三がつぶやいた。
「……どうしよう……、こんな顔じゃ『まい』に会えねえよ……」
最後は涙声になっている。慌てて皆で慰めるがどうにもならない。槌田とあれほどのバトルを繰り広げた男と同一人物とは思えない。
大の男がこの短い時間で有頂天になったかと思うと、今度は底の底まで落ち込んでメソメソ泣いている。女というものは、とことん計り知れないものである。