調理実習
家庭科教師界最強との呼び声高い吉田先生(通称さおりん)の指導(?)の元、今日は朝から調理実習である。すべての家事を男だけでこなさなくてはならないため、茂田市の学校は小中高を問わず、家庭科の授業が多い。男子厨房に入らずなんて言ってたら、茂田市の男は飯が食えないのだ。
今日は朝から調理実習である。茂田市の学校は小中高を問わず、家庭科の授業が多い。と言うのも、家に男しかいないため、すべての家事を男だけでこなさなくてはならないからである。男子厨房に入らずなんて言ってたら、茂田市の男は飯が食えないのだ。
「昨日見たか?」
手慣れた様子で玉ねぎを切りながら、慎伍が言った。
「ミュージックフェスタ? 見たよ」
僕は醤油と酒の入ったボールにチューブのおろし生姜を加えながら答えた。
「最高だな、トリマーズ」
黒いメガネフレームを中指で押し上げ、慎伍は鶏肉を切り始めた。トリマーズとは、今年ブレイクした男性のグループ。キレのあるダンスと澄んだボーカルでトップアーチストの仲間入りを果たした。
「僕は阿修羅伯爵の方が興味深いが」
阿修羅伯爵とは実力派男性ボーカルユニットである。独特の世界観で一部のファンには根強い人気がある。
「曲はいいよね」
さっきから、見てるだけの新次郎が横入りしてきた。
「でも僕は侍ジャンプがいいな」
「出たよ、アイドル好き。どこがいいんだ、奴らの?」
スープのアクをすくいながら泰三が言う。
「何か問題でも?」
新次郎が唇を尖らす。もともと小柄で童顔なこともあってか、小学生のようである。
「お前は誰がいいの?」
慎伍は鶏肉と玉ねぎをバターで炒めながら、目の前で人参を切っているメガネをかけた三起也に話しかけた。
「興味ない」
すげなく答えた。
「三起也、お前さあ、本当につまらない奴になっちゃったな」
泰三は切れ長の目で三起也を見ながら塩コショウで味を整えた。
「そーそー、つまらんぞ、お主」
新次郎がすかさず突っこむ。チャチャを入れるだけで料理は何も作ろうとはしない。
「新次郎、お前は何も作らないの?」
慎伍が言っても新次郎は「僕のことは気にしないで」とまったく意に介していない。
「家ではどうしてるんだ、作ってないのか?」
言いながら慎伍は鶏肉と玉ねぎに小麦粉を加えて、少しずつ牛乳を入れた。手際がいい。
「うちは父さんが作ってくれるからね」
「うらやましい。うちは、きっちり当番制さ」
木ベラでゆっくりとかき混ぜると、とろみがついてきた。ベシャメルソースのでき上がりである。慎伍は何をやっても器用である。
「終わったところから食べ始めていいぞ。試食が終わったら、洗い物をして各自解散だ」
家庭科担当の吉田先生のダミ声。角刈りにサングラス、トレーナーの上からもわかる屈強な体にイチゴのエプロンはどう見てもイカれた中年オヤジである。家庭科教師界最強との呼び声高い吉田先生は、通称さおりんと呼ばれている。
今日のメニューは我が家の自慢料理。五、六人の班に分かれ、一人一品ずつ何でもいいから料理を作る。それがクラッカーにチーズを載せるだけでも構わない。ちなみに新次郎が作ったのもこれである。元々料理を教える自信のないさおりん先生はよくこの手の授業をやる。
メニューが個人任せなこともあって、班によっては、スープが三種類になったり、カレーが重なったりした。我が班はというと、チャーハンと中華スープにマカロニグラタンとクラッカーのチーズ載せ、僕が作った豚の生姜焼きというなかなかのメニューである。
「昨日、ミュージックフェスタでさ、お宝なかった?」
自作のチーズクラッカーをほおばりながら、新次郎が言った。
「えっ、そんなのあった? いつ?」
泰三が食いついてきた。拍子に口からチャーハンの粒が二、三飛び出した。早々に試食を終え、テーブルの下で単語帳を開いていた三起也が露骨に迷惑そうな顔をする。
「タマリがトリマーズを紹介した時の後ろにチラッと見えたような気がするんだ。ほんのちっちゃくだけど」
「誰が?」
慎伍作マカロニグラタンを食べながら聞いた。相変わらずいい味出している。
「六歌仙の……」
「小町か?」
つい声が裏返った。小町と言えば、今をときめく六歌仙の超美人ボーカルである。
「そこ、授業中だぞ!」
さおりんににらまれた。確かに授業中ではあるが、本人は授業らしいことは何もやっていない。でも、さおりんに盾突けるはずもなく、仕方なく口をつぐんだ。
「すまん、つい」
僕が言うと、意味ありげな視線を向けて、
「このドスケベ」
泰三が言った。先週に続き二度目である。どうも僕という人間を誤解しているらしい。他人からどう思われようが気にする僕ではないが、スケベと思われるのは本意ではない。しかも今度はドスケベである。グレードアップしていることは明らかだ。この分だと変態、ド変態、人でなしとさらなる高みへと登りつめていく日もそう遠くない気がしてならない。奴とは一度膝を交えて話さなくてはなるまい。
「録ったのか?」
気を取り直して、とりあえず新次郎に確認してみる。
「一応ね、でも期待しないでね」
と言いつつ、新次郎はどこか得意げである。
「いいよな、小町。どんな顔してるのかわからんけど。きっとすんげえ美人だろうな」
泰三の顔はだらしなく間延びしている。自分の顔を鏡に映して見てみるがいい。スケベとはこういう顔を言うのである。
「もうビンビンだぜ!」
と言うと腰を前に突き出した。下品な振る舞いだ。この男、悪い男ではない。ただ紳士としての嗜みに著しく欠けるのだ。高校生男子の特権がごとく、品のない行動に終始する。何かと言うとビンビンである。ビンビンすればいいというものではない。
そこへ行くと僕の場合は大人しいものである。身内の話で恐縮だが、カレは常にありやなしやわからぬほどに慎み深く、奥ゆかしさすら感じられる。そよ風にすら抗うことなくゆらゆらと身を任せている。まさに紳士たるにふさわしい振る舞いである。
ただ、慎み深いのも、過ぎると問題視されることがある。度を過ぎた慎み深さは、ときとしてやる気のなさと取られかねない。くたっとへたったその様子を見ていると心配になるほどである。何と言う覇気のなさであろう。
しかし、ときに様変わりすることがある。それは僕が研究に精を出しているときによく見られる。まさに豹変と言っていい。普段は虫も殺さぬ顔をしておいて、突如として鎌首をもたげ、青筋を立てて周りを威嚇し始める。天をも貫けとばかりに僕の体の真ん中で自己主張する様子からはやる気のなさは微塵も感じられない。
その極端な豹変ぶりには身内といえども、ただ驚くばかりである。近所にこんな人物がいれば僕なら迷わず一一○番をするに違いない。かと言ってカレを連行されるわけには行かない。カレはまだ何も知らぬのだ。
「一度でいいから小町を生で見てみたい。顔もそうだけど、声も聞いてみたいしね。天使の声ってどんなだろ」
新次郎が言った。あの朝、慎伍の親父さんは天使の声だと言っていた。誰も聞いたことがないにも拘わらず、妙に腑に落ちた。
「ちなみに編集者は誰なんだ?」
泰三が聞いた。この場合の編集者とは女性の画像のマスキングしたり、女性の声の周波数を変えたりする編集責任者のことである。この作業のため、茂田市に住む人は二、三週間遅れのものを見ているということだ。
「鈴木太郎」
新次郎の答えに賞賛の声が上がった。
鈴木太郎は『抜けの鈴木』の異名をとるポンコツ編集者である。マスキングミスが多く、その作品はお宝となる可能性が高い。これが『鬼の須藤』や『地獄の近藤』になるとお宝映像の率が極端に下がるため、茂田市では視聴率が下がるとまで言われている。
「ところで、ハネムーンはどうするんだ?」
慎伍が思い出したように新次郎に聞いた。
「何のこと?」
「料理だよ。ハネムーンにはさすがに親父さんだって出かけるだろう?」
「そのときは、兄貴がやってくれるから。意外と器用なんだ。あの人」
小食な新次郎は、僕の作った生姜焼きを食べもせず、箸でもてあそんでいる。
器用? うらやましい。迂闊にもそう思ってしまった。僕の上の兄貴も率先して料理をしてくれる。そこまではいい。
彼は良心の塊のような男で、僕ほどの男ですら、彼が兄であることを常々誇りに思っている。ただし、立派な人間がうまい料理を作れるとは限らない。はっきり言えば、彼が作る料理は圧倒的にマズい。およそ人間の食べるものではない。これまで何人もの客が尋ねてきたが、ひと口食べたあと、ふた口目を食べたという猛者はいない。上の兄貴が料理当番の日は、なんの咎があって、かような罰を受けねばならぬのか、日々の行いを振り返る始末である。
「兄貴は結婚していないのか?」
「したよ、去年。二十四で」
新次郎が慎伍の質問に答えた。
「随分遅いな、二十四か」
慎伍の言うとおりである。茂田市の男性の平均結婚年齢は二十歳なのだから。
市内を壁で分け、女性と別々に住まなければならない僕らも、もちろん結婚はできる。十八歳になれば結婚できるというのは他市と変わらない。ただし高校在学中は結婚は禁止されているため、茂田市の高校進学率は他市より下がるとまで言われている。とにかく卒業すれば大手を振って壁の向こうに行く権利が生じるわけである。
しかし、それには条件がある。結婚である。女性を見たこともない僕らが、どうして結婚を表明できるのか。理由は簡単。表明して、壁の向こうに行ってから、相手を探すのだ。
風の噂では、壁の向こうに行った男性は同様に壁の向こうから来た女性たちと大規模なお見合いをするとかしないとか。人権なんて上品なものはこの街には存在しない。とにかく壁の向こうに行ったからには結婚は絶対条件なのだ。その条件を破ったり、壁の向こうであったことを周りに話したりしようものなら、口に出すのもおぞましいあんな罰やこんな罰が与えられるという専らの噂である。
「結婚か、あと一年半か……長いな」
僕は残り物のクラッカーをほおばりながら、これまでのことを思い出していた。お宝映像を探して数えきれない夜をテレビの前で過ごした。ありったけの想像力を総動員して、マスキングの向こう側の映像を思い描いた。見たあとに軽いめまいが起こるほどに。
「確かに一年半は長い。でも、その前に……」
慎伍がみんなの顔を見回しながら、わざともったい付けて言葉を途中で切った。
「修学旅行だ!」
迂闊にも一緒に叫んでしまった。ラーメンをすする手を止め、さおりんがこっちをジロリとにらんでいる。でもすぐにラーメンに戻っていった。危ない、危ない。
「絶対に最高の旅行にするぞ。このためにあの夜を過ごしたんだからな」
慎伍が言った。
「当然だ」
「楽しみでしょうがねえよ」
「楽しみ過ぎて今から寝不足だよ」
ついつい会話も盛り上がる。
「そううまく行くかな」
ゾワッとした。後ろからすぐ耳元でささやいてきたのは、となりの班の前野進である。前向きな名前とは裏腹に、D組きってのネガティブ人間である。悪い人間ではないが、やることなすこと後ろ向きである。加えて場の雰囲気を慮るという能力に欠けており、思ったことをそのまま口にしてしまうクセがある。
小柄で色黒、痩せた体にメガネの彼は、脂っこい長い髪を頭皮にピッタリとへばりつかせてこちらを向いて笑っている。
「何だよ、お前は。関係ないだろ」
泰三が言うと、前野はアゴまでかかったストレートヘアを頭を振ってなびかせてから、「失敬」と言って自分の班へ戻って行った。いつものことだが、前野がからんでくると気詰まりな独特の空気が漂う。
「そう言えば、すぐにソフトボール大会だね」
雰囲気を変えようとしたのか、新次郎が違う話を振った。
秋のクラス対抗ソフトボール大会はこの学校の一大イベントである。ソフトボール大会とは名ばかりの格闘技大会である。学校で溜まったストレスを思う存分晴らすという野蛮極まりないイベントである。しかしながら、毎年バカバカしいほど盛り上がっている。
「今年はどうするの。全然練習してないけど」
「今年はパスだ、パス。修学旅行前にバカ相手に余計な体力使ってたまるか」
吐き捨てるように泰三が言った。うちの学校はクラス同士の仲が悪い。もめごとはしょっちゅうである。一年から三年までクラス替えをしない、ということもあるだろうが、不倶戴天の敵といった感じすらする。個人的には、男だけの、情緒の欠片もない、潤いを欠いた生活が荒んだ人間関係に少なからず影響しているものと思っている。
「泰三の言うとおりだ。怪我でもしたらシャレにならん。修学旅行だけは成功させなければならない。これは俺たちの使命である」
慎伍が静かに、しかし力強く宣言した。誰も異議があろうはずがない。続けて言う。
「ここでひとつ確認したい」
妙に改まった言い方だ。
「みんな、女の子は見たいな?」
拍子抜けした。言わずもがなである。
「当たり前だろ。何言ってんだ、お前」
泰三が言った。
「そのためにはどんなことでも我慢できるな」
「言うまでもねえ」
泰三が言った。慎伍らしくもない。こんなわかりきったことを言うとは。僕らがそれ以上、何を我慢するというのだ。
「お前ともあろう者がそんなことを言うとは」
「いや、確認できればいいんだ」
慎伍は一人納得している。
「ときに木曜の放課後、空いてるか」
「また作戦会議か?」
言いながら、胸の高まりを感じた。
「ちょっと伝えたいことがあってな」
修学旅行を控えての作戦会議、なんと魅力的な響きであることか。あの夜もじつに楽しかった。これまでも何かと言うと女子の話ばかりしていた。しかし盛り上がれば盛り上がるほど、その後に名状できない虚しさがやってくる。今回は違う。間近に迫った現実を想定しての会議である。僕らの想像はあらゆる桎梏から解放され、高く高く羽ばたくのだ。
「けど木曜は美化委員会があるんじゃない?」
新次郎が言った。確かに木曜は美化委員会の話し合いが予定されてるし、このクラスの美化委員は僕である。その上、僕はジャンケンが生まれつき弱い。というわけで美化委員長などという有りがたくもない役を担わせられている。だが元々大した話し合いじゃないかもしれないし、僕がいなくても大きな問題とはならないかもしれない。なるかもしれないが、ならないかもしれないのだ。長年培ってきた友情を優先したからといって、誰が僕を責められよう。
「確かにな、……でも、折角慎伍が提案してくれ……」
「じゃあ、今回はお前は不参加か」
泰三が僕の言葉を遮った。
「忙しいのは確かだが、なんとか調整がつくかも……」
「無理するな。次でいいじゃねえか、次で。なあ、慎伍」
再び泰三に遮られた。何がおかしいのかさっぱりわからないが、大口を開けてゲラゲラ笑っている。この男、悪い男ではないのだが、人の心の襞を斟酌するというような芸当は持ち合わせてはいない。しかし、さすがは慎伍、
「調整つくなら、来ればいいんじゃないか」
と言ってくれた。
「難しいがなんとかなるだろう。いいだろう、そこまで言うなら、僕も参加することに……」
「どこでやるんだ?」
三度泰三が遮った。僕はテーブルの下で密かに中指を立てた。
「そうだな、この教室でどうだ?」
少しがっかりした。しかし、考えてみれば、平日に慎伍のうちに泊まりに行く訳にもいくまい。
「お前も出ろよ。前回来なかったんだから」
泰三が三起也に向かって言った。
「僕はパス」
単語帳から目を上げることなく三起也が答える。
「付き合えよ。協調性ってもんがないのか、お前には」
泰三が声を張り上げた。にらまれたばかりの僕としては気が気じゃないが、さおりんはほかの班の豚丼に夢中になって気づかない。
これが生徒の作った料理を試食する先生の食べ方だろうか。飢えた獣、と言うより何の計画もなく給料をあっという間に使い果たし、久しぶりの食事にありついた中年教師の食べ方である。
「いいよ、俺も突然だったから都合もあるだろう」
慎伍が言うと三起也は「いや、僕は関心ないから」と答えた。
授業の終わりのベルが鳴った。
「じゃ、僕急ぐから」
三起也はそのままさっさと調理実習室を出てしまった。白けた空気が場に漂う。
「三起也は女の子にまったく興味がないみたいだね」
新次郎はまだ僕の生姜焼きを箸でいじくっている。
「お前、それ食うのか食わないのか、はっきりしろ。見ててイライラする」
泰三がキレ気味に言った。
「八つ当たりはやめてよね」
新次郎が言うと、泰三は忌々しげにしながらも、口をつぐんだ。
「もったいない。アイツ、あんなにイケメンなのに」
慎伍が言った。そう言えば、あの夜も同じようなことを言っていた。僕の調べたところによると女の子が好むイケメンとは、目が大きく、しかも二重であることが条件である。このことは「女性の実態 第十三巻 恋愛における傾向編」にもちゃんと記載してあることだ。その原則に照らし合わせると、極端に目が小さい三起也はイケメンとは呼ぶのには無理がある。
「アイツは目が悪過ぎるんだよ。だから相当分厚いメガネをかけてる」
メガネフレームを直しながら慎伍が言った。
「僕は両目二・○だ」
新次郎は両手を丸めて目に当て、双眼鏡の真似をした。
「メガネを外した時の三起也は驚くほどイケメンだよ。……そうだな、侍ジャンプの中村慶悟をさらに格好よくした感じ」
「そんなわけないよ。慶ちゃんよりカッコイイなんてあり得ないよ」
すぐさま新次郎が激しく抗議した。
「本当だって、なぁ泰三」
「知らね」
泰三はふてくされたように言うと、そのまま実習室を出て行った。
「何であんなに三起也に構うんだ? 泰三は」
僕は常日頃思っていた疑問を口にした。確かにさっきの三起也の態度は品性に欠ける感がしたが、泰三は昔から何かっていうと三起也に突っかかっていく。
「アイツらは幼稚園からの幼なじみなんだよ。だから勉強ひと筋みたいになった三起也を見てると寂しいんだろ」
慎伍は何でもお見通しなのだ。
「今度の調理実習は明後日だからな。今日は魚料理が少なかったから、肉料理ばかりじゃなく、魚料理も学ばなきゃいかんぞ。食事は何よりバランスが大事だ」
尤もらしい理由を付けてさおりんが言った。要は今度は魚を食わせろ、ということである。こんな大人には絶対になるまい。心に誓った。