秋のソナタ
中学生になって女性への興味がむくむくと頭をもたげてきたころ、僕らのクラスで密かに回されていたのは、テレビドラマ(秋のソナタ)のエキストラの映像であった。マスキングを逃れた初めて見る衝撃のお宝映像とは。
特別ゲストはとんだ茶番に終わったが、僕らは改めて、この問題に真剣に取り組んだ。
驚いたことに僕らが頭を捻って考えつくアイデアは、すべて慎伍は想定していた。相当以前から、この問題と真摯に取り組んでいたのだろう。
話し合いは深夜まで続いた。絶えず襲ってくる眠気にときには頬を叩き、ときには太股をつねった。それもこれもただ生で女の子を見てみたい、その熱い思いだけである。
何時間たったことだろう。知らないうちに、こたつで寝てしまっていたらしい。背中に毛布がかけられている。
「お、起きたな」
ノートに何やら書きこんでいた手を止め、慎伍が言った。
「悪い、寝てしまったようだ」
「構わないよ、ほかの二人もぐっすりだ」
泰三は対面で横になって豪快なイビキをかいている。その隣で新次郎はこたつに突っ伏している。
「慎伍は眠くないのか?」
「眠いさ」
そう言うと残ったジュースを一気に飲み干した。そして空になったコップの縁を親指でなぞりながらつぶやいた。
「でも、悔いは残したくない」
慎伍の中に『漢』が垣間見えた。何となく気詰まりで話しかけられない。時計の音だけがカツカツと規則的なリズムを刻んでいる。
「覚えてるか? 秋のソナタ」
唐突に慎伍が言った。忘れるわけはない。初めて見たお宝映像だ。お宝映像とはマスキングを逃れた貴重な映像のことである。ブルーレイディスクが回ってきた日、あの日のことは今でも生々しく覚えている。
中学一年生の事だった。女性への興味がむくむくと頭をもたげてきたころ、僕らのクラスで密かに回されていたのは、テレビドラマに出たエキストラの女性の映像だった。気にはなっていたものの、いかにも物ほしそうな顔をぶら下げて、ヘラヘラと輪の中に入っていくのは僕のプライドが許さず、まったく興味がない振りを装いながら、その様子をこっそり見ていた。
夏休みも近い、ある日の昼休み。突然慎伍が僕のところへやって来た。素早く辺りを見回すと、僕にノートを押し付けた。
「早く隠せ。お宝映像だ」
ノートにはブルーレイディスクが挟んであった。お宝映像のことは気になっていたが、自分から貸してくれ、と言えなかった僕に気を遣ってくれたのだろう。
「……でも」
すぐに受け取ったりすると、ははぁん、やっぱりコイツすぐ手を出しやがった。そうだと思ったよ、このスケベが、と誤解されるのを恐れた僕はちょっと戸惑った。
「見なきゃ一生後悔するぞ」
慎伍が言った。僕は激しく躊躇した挙句、
「ま、参考にさせてもらうよ」
と言って急いでノートごとカバンにしまった。この場合、『ま』があるのとないのとでは大違いである。『ま』があることで、『別に見ても見なくてもどっちでもいいよ感』がありありと立ち登ってくるのである。我ながら、よく『ま』をつけたものだと感心する。
放課後、お宝映像の入ったカバンを大事に抱え、家への道のりを急いだ。違法薬物を隠し持ってるかのような後ろめたさを感じながら、口から飛び出すんじゃないかと思うほど、心臓が激しい鼓動を打った。途中、知り合いに何度も声をかけられたが、聞こえないふりをして通り過ぎるのが精いっぱいだった。
家に着くとまっすぐに自分の部屋に閉じこもった。でもプレイヤーはリビングにしかない。親父と二人の兄貴もしっかりいる。皆が寝静まった後に見るしかない。でも、こんな日に限って、すぐ上のバカ兄貴はブルーレイをレンタルしてたりする。結局、兄貴が寝たのは午前二時ごろだった。
十分後、僕はブルーレイプレイヤーの前にいた。キズをつけないよう十分に注意して、ディスクを入れた。そして震える手でプレイボタンを押した。
間もなくドラマが始まった。タイトルは『秋のソナタ』。これをなんの修正もなく見ることができたら、どんなに素晴らしいことだろう、なんて無益なことを考えたが、そんなことがあろうはずがない。もちろん、主役の女優は黒く塗りつぶされ、まったく見えなかった。彼の元を走り去っていこうが、ジャンプして抱きつこうが、人混みの中に消えていこうが、映っている画像はことごとく処理されていた。その仕事は完璧だった、と思った。
開始から四十三分五十二秒、それは突然現れた。紅葉で色づく並木道を歩く主人公の二人。その後ろを何人もの人がジョギングで通り過ぎていく。その中の一人に黒いウェアで走っている人の影が見えた。明らかに周りとは違うオーラを放っている。残念ながら人垣が邪魔して肩から上しか見えないものの、間違いない。これは女子だ。映像が小さく、ショートカットだったこともあり、編集者は気づかなかったのかもしれない。市外の人なら見落としてしまう映像だったろう。しかし、茂田市の男は常に目を皿のようにしてお宝映像を探している。見逃すわけはない。
なんと可憐で、はかないんだろう。何人もの人が走っているが、そこだけすうっと浮かんで見えた。
慎伍と神様に感謝せずにはいられなかった。やっぱり親友というものはありがたいし、神様というのは存在するのだ。
妙な背徳感と相まって、その夜のことは口にするのも憚られる。
「慎伍には感謝してる。あれは貴重な研究材料だった」
こんな風に言うと泰三なら、何言ってんだ、このスケベ野郎が、ぐらいなことを言うかもしれない。しかし、慎伍はそんな不毛なことは言わない。少しいたすらっぽい笑みを浮かべるだけである。実におおらかな男である。
それから、いくつものお宝映像を見たが、あの映像は僕の中の永遠のお宝だ。
「俺もあの映像はよく覚えている。これまでの価値観を一変させるインパクトがあったな」
慎伍も修学旅行という一世一代のイベントを前に少し感傷的になっている。
小さな映像ですら、あのインパクトである。生の女の子なんて想像を絶する衝撃を受けることは間違いない。
「……い……よ」
泰三がつぶやいた。寝言である。
「なんだ?」
「どうせ、修学旅行の夢でも見てるんだろ」
同感である。大方間近に迫った修学旅行で生の女の子を目の当たりにするという茂田市ではありえない状況を夢見ているのだろう。その証拠に寝ながらちょっと笑っている。
「でも幸せそうな顔してるな」
慎伍が言った。本当に幸せそうな顔をしている。見てると実に面白い。笑ったかと思うと、急に真顔になり、終いには唇を突き出した。この男にスケベと言われたかと思うと泣けてくる。
「……い、……てるよ」
「まただ、なんて言ってるんだ?」
慎伍が言うので
「よく聞こえん。ちょっと待ってろ」
耳を慎伍の口元に近づけた。そのとき……。
「まいーっ! 愛してるよおおおおおおお!」
突然、泰三が叫んだ。僕はたまらず後ろにのけぞった。あまりのことに、しばし仰向けのまま、固まった。
当の泰三は、
「……てるよ……まい」
と言って再びイビキをかき始めた。
まだ耳がキーンとしている。草木も眠るこの時間に耳元で叫ばれてはたまらない。
「誰だ? まいって?」
「わからん」
僕のような繊細な人間にとって、やはり泰三のやることは理解し難い。おそらく本人は深夜に叫んだことなど覚えてもいまい。どこまでも幸せな男である。
新次郎もいつの間にか横になっている。深夜にわたった話し合いで疲れているのだ。すべては女の子が見てみたい。健全な男子高校生ならだれもが思うであろう極当たり前の情動が、情報を完全にシャットアウトされたことで歪みに歪んで、沸々と滾っている。
慎伍の、泰三の、新次郎の夢が現実のものになりますように。
叶うのであれば僕の研究が成就しますように。そのため飛び切りの研究材料が目の前に舞い降りてきますように。静かに祈った。
気づけば夜が明けていた。またこたつで寝てしまったらしい。僕らを目覚めさせたのは、さわやかな小鳥のさえずり……ではなく、一人の中年オヤジの鼻歌だった。
お前を放さないぃ、いつまでも、どこまでもぉ、愛してる、愛してるぅ、永遠にぃ
決してうまい歌ではないが、歌声から気持ちがあふれ出ている。
「お父さん、ご機嫌だね」
こたつから這い出して新次郎が言った。
「ありゃ、いくら何でも恥ずかしいな。ちょっと止めてくる」
親父さんのあまりのはしゃぎぶりにさすがの慎伍も照れている。
「いいじゃねえか。うらやましいよ」
泰三が仰向けのまま言った。
「しかし、よくがんばったな」
夜通しの話し合いを経て、僕は達成感と背中から覆いかぶさってくるような疲労感を感じながら、身を起こした。
「つ、疲れたぁ」
新次郎が大きく伸びをしたとき、ノックが聞こえた。
「起きてたか。じゃあ、お父さんそろそろ行ってくるぞ」
親父さんがドアを半分開け、顔を覗かせた。
「楽しんできてよ」
慎伍が言うと「何言ってんだよ。親をからかうもんじゃないよ」と顔を赤らめた。
「おじさん、女の声って小鳥みたいなんですか」
体を横たえたまま、泰三が言った。通常、茂田市ではあってはならない質問である。
「おっ、なんだ? いきなり」
「いや、おじさんなら知ってると思って」
「……小鳥か、……ちょっと違うな」
親父さんは、しばらく考え込んでいたが、
「そうだな、強いて言うなら……」
「強いて言うなら?」
「天使だな」
「天使!」
予想もつかない答えに皆ビックリしている。天使の声なんて、聞いたことあるわけない。でも、不思議なぐらい説得力があった。皆妙に納得している。もちろん「女性の実態」にもそのような記載はない。
「おじさん、女っていいですか?」
身を起こして唐突に泰三が言った。
慎伍の親父さんはニッコリ笑うと、親指を立てて「最高だ」と言った。
「やっぱ、最高かぁ」
言いながら泰三は再び横たわった。そしてアハハハと笑った。
長々と笑い続けたあと、「絶対に成功させような、慎伍」と言った。
「もちろんだ」
慎伍が答える。
修学旅行に向け、記念すべき第一回作戦会議はこうして幕を閉じたのである。