婚約破棄された悪役令嬢は正義の令嬢です〜貴方方は平民を馬鹿にしすぎです〜
「アデール・ミュレー!君との婚約を今この時をもって破棄する!」
目の前で居丈高にそう宣った婚約者に、アデールは呆れる事もしなかった。
「そうですか。理由をお聞きしても?」
理由を聞いたのは自分の子でないのに、貴族として迎えられてしまったアデールを憐れみ、どこに出しても恥ずかしくないようにと侯爵令嬢として育ててくれた義母に報告するため。
まあ、理由は分かりますけれど。
なんせ、目の前の婚約者は一つ年下の美貌の伯爵令嬢を侍らせているのだから。血統も間違いない。
「理由?決まっている。君が自分より立場の弱い令嬢を虐めていたのは知っているんだからな!」
「虐めていた、とは?」
「ふん!貴様は昼食のたびに食堂で令嬢達に嫌味を言っていたではないか!君に怯えて誰も口答え一つできなかった!そんな昼食会を毎日だ!ここにいる誰もがそれを知っているぞ!」
ざわりと会場が唸った。クスクスと蔑む笑いも聞こえる。
アデールは溜め息をついた。あー本当に嫌になる。
元々、誰かが助けてくれるなんて思ってない。目の前の婚約者は公爵家の三男、この会場でこいつと同等以上の貴族はないからだ。
「それに普段から君は令嬢達の礼儀作法に嫌味ばかり言っていただろう!しかもその日の気分で!そんな君を公爵家へ迎え入れるわけにはいかない!」
「だから婚約破棄をすると?」
「ああそうだ!卑しい平民の母親の血は争えんな!半分は貴族の血とはいえ、やはり平民だ。こんな醜い事をするなんて!その醜さは母親が貧乏人であるから出るのだろうな!」
アデールは初めてピクリと反応したが、それを誤魔化すように扇子で口元を隠す。
アデールの母親は確かに平民だった。ミュレー侯爵家のランドリーメイドとして働いていた。そうして前当主のお手付きとなり、アデールが生まれた。
何故こいつに母の事を悪く言われなければならないのか。母の苦しみを何も知らないくせに。
アデールは内心怒り狂っていたが、そんな事は噯にも出さずスッと目を細めて高位貴族令嬢らしく振る舞った。
「婚約破棄は承りました。家に帰り次第、兄に伝えましょう。この場にいる皆様が証人です。よろしいですか?」
会場を見回してアデールは告げる。あとは腹違いの兄に報告するだけだ。そして侯爵家を出て自由に生きよう。正妻の義母はアデールを侯爵令嬢として育ててくれたから、運が良ければ礼儀作法の家庭教師になれるかもしれない。
何故ならここは王立学園。貴族の子弟が通う学校で、小さな社交場でもある。こんな醜聞が広がればアデールに婚約を申し込む貴族などワケアリ以外いなくなるのだから、平民になる事など厭うはずがない。
もっとも、お兄様に嫁げと言われたら何処へでも嫁ぎますけれど。
ミュレー侯爵家の現当主の兄は義母に似てアデールに名実共に優しい兄だ。その兄の役にたてるなら頑張れる。
アデールは誰もが見惚れる美しい淑女の礼をすると、くるりともうすぐ元が付く婚約者に背を向けた。
背筋を伸ばし、スルスルと静かな衣擦れを響かせながら淑やかに出口に向かう。
嘲笑が背中にかけられるが構うものか。
ただ一つ心残りなのは、ここに残していく友人達だ。
友人達の中で一番爵位が高いのがアデールだった。彼女達はけして弱くはないが、爵位の序列は面倒なもので、爵位を笠に着るだけで意味もなく威張り散らす馬鹿どもを追い払うのはアデールの役目だった。
でもきっと大丈夫。彼女達はもう悲嘆に暮れる悲劇のヒロインではない。苦難に立ち向かう強いヒロインになったのだから。
だから大丈夫。
アデールがそう思った時、アデールを遠巻きにしていた卒業生の中から一人が颯爽とアデールの前に飛び出してきた。
それは子爵令嬢であり、友人のフルールだった。
フルールは目を丸くして立ち止まったアデールに優雅な淑女の礼をとった。
「アデール様。アデール様がお帰りになられるのでしたらご一緒させていただきますわ」
「フルール様…」
きっと優しい彼女はアデールを見捨てられなかったのだろう。
でも、今ここで彼女の評判を落とすわけにはいかない。
だからアデールは「供は必要ありませんわ」と冷たくあしらおうとした。
けれどフルールを皮切りに、次々と仲の良い令嬢が人垣を割って優雅に駆けつけてきた。
「アデール様、わたくしもご一緒させていただきますわ」
「わたくしも」
「お待ち下さい。わたくしも共に参りますわ」
「アデール様のいらっしゃらないパーティーなど楽しくありませんもの」
「同感ですわ」
わらわらと、でも優雅に駆けつけてきたのはすべてアデールの友人で、アデールの前には十数人の令嬢が並んでいた。
「皆さん……」
「アデール様をお一人で帰すわけがないじゃありませんか」
にっこり微笑んだのは一緒に頑張ってきた伯爵令嬢のジョルジーヌ。
「ふふ、こんなパーティーではなく、近いうちに我が家でお茶会をいたしましょう。気心の知れた友人だけのお気楽なお茶会ですわ」
素敵な提案をしたのは男爵令嬢のオデット。その仕草は最早高位貴族令嬢にも負けないほど洗練されている。
ここにいる令嬢、全員がわたくしの味方。ああ、わたくしのやってきた事は間違いではなかったのだわ…。
アデールは嬉しくて、ポーカーフェイスを取り外し、心から微笑んだ。
「な!?ど、どういう事だ!?」
そんな嬉しい気持ちに水を差すのは、婚約破棄を叫んだ元婚約者だ。
アデールはまたポーカーフェイスを取り付けて元婚約者を振り返った。
元婚約者はわなわなと唇を震わせて声を荒らげた。
「何故、虐められていた連中がアデールを庇うのだ!?」
アデールは呆れた。会場に素早く視線を巡らすと、そのほとんどが元婚約者と同じ反応をしている。
まあ、ここにいるほとんどがアデールを侮っていたから仕方のない事かもしれないが。
波打ったように静かになった会場に上品な笑い声が響いた。
「ふふ」
強気に笑ったのはオデットだ。
「勘違いされている方が多いようですから、アデール様の名誉のために申し上げますわ。わたくし達は全員、アデール様に虐められてなどいません。貴族令嬢として恥ずかしくないよう礼儀作法を習っていたのです」
「な、何だと!?」
「わたくしの家は父が叙爵されたばかりの新興貴族。元々平民だったので、学園に入ったばかりの時など礼儀作法がなっていないと散々皆様に笑われましたわ。そんな時にアデール様が声をかけてくださったのです。やる気があるのなら礼儀作法を教えると。藁にもすがる思いでしたわ。元々平民の小娘ですもの。突然貴族令嬢として振る舞えと言われても無理なのに、誰も教えてくれない中、アデール様だけが声をかけてくださったのですわ」
「わたくしもですわ」
オデットに続いてフルールが続く。
「わたくしの家は貴族とは名ばかりの貧乏な家です。ドレス一つ買うのにもお金の工面をしなければならないほど。ですから礼儀作法なんて母から教えられた事しか知らず、この学園に入った時はオデット様同様、散々笑われましたわ。でもアデール様だけは違いました。どうしても食事中に大きな音をたててしまうと相談したら、毎日お昼に指導して下さいましたわ。皆様にはそれが虐められているように見えていたようですが」
「わたくしも同じですわ。歩き方がみっともないと笑われるのでアデール様に相談したのです。アデール様は学園の廊下や階段、更には野外でも指導してくださいましたわ。これも皆様には虐められているように見えたようですけれど」
「わたくしも、お茶会の開き方一つ知りませんでしたけれど、アデール様が丁寧に教えて下さいましたわ。学園内で練習もさせていただいて……おかげで恥をかかずに済みました」
わたくしも、わたくしも、と次々と令嬢達が自分の状況を救ってくれたのがアデールだと訴えた。
そう、アデールは誰も虐めてなどいない。友人達に礼儀作法を、貴族としての振る舞い方を教えていただけだ。
アデールは彼女達の見本だった。だから常に感情を面に出さず、唇が弧を描く程度の微笑で彼女達に教えていたので、何も知らない連中にはすました侯爵令嬢が下位貴族を虐めているように見えたのだろう。
「な、何故!?何故アデールが…!?」
驚愕で目を見開く元婚約者を冷ややかに見つめ、アデールは会場全体に伝わるよう言い放った。
「貴方が今おっしゃったではありませんか。“卑しい平民”と。“貧乏人”と」
再び会場が静謐に満たされる。
アデールは淡々と事実を突きつけた。
「ここにいる彼女達は、わたくしも含め、貴方方が“卑しい平民”だの“貧乏人”だのというレッテルを貼り付けた令嬢ですわ。貴方方はそうやって蔑むだけで彼女達に手を差し伸べもしない。わたくしは侯爵令嬢として礼儀作法は習得しておりましたから、同じ境遇の令嬢として彼女達に礼儀作法や貴族としての立ち居振る舞いを教えただけですわ」
「なっ……」
「ああ、そうそう。わたくし、ずっと不思議でしたの。何故、貴族というだけで高貴なのでしょうね。平民というだけで卑しいと言われるのでしょうね。オデット様のお父様のように、商売で儲けた莫大なお金を私利私欲に使うのではなく、孤児や貧困層の子供達のために孤児院や学校を建てるために使う事を高貴な精神というのではないでしょうか?身分を笠に着て、逆らえないような身分の女性を手篭めにする貴族の方がよほど卑しいのではないでしょうか?」
アデールはポーカーフェイスのまま、氷のような視線で元婚約者をひたと見つめた。
「わたくしの母は、ミュレー侯爵家で働くランドリーメイドでしたわ。母には婚約者もいました。その母を無理矢理襲い、手篭めにしたのは高貴なミュレー侯爵家の前当主です。笑ってしまいますわ。一人の女性の幸せを身勝手に壊して高貴だと?わたくしの母はその悲劇に心を壊して、自害しましたのに?」
ひゅ、と誰かが息を呑んだ。いや、パーティー会場全体がアデールに注目していた。
「こう言うと、大体の方が『先に色目を使ったのは女の方だろう』と言いますけれど、それが事実であったとして、高い身分の責任ある方が、それも妻子のいる方が獣のように欲望を制御できない方が問題だと思いますわ。世間では何故か男性の欲望は制御できなくて当然だと宣う下品な下等生物がいますけれど、この中に何人の下等生物がいるでしょうね。我が侯爵家には前侯爵夫人の意向で、母のような被害に遭った女性を何人も保護しておりますが、何人かわたくしの知っている名前がありましてよ?」
会場の数カ所で、居心地悪そうに身じろぎした青年達をアデールは心で睥睨した。
「あと…平民だから、貧乏人だからと彼女達を見下し過ぎですわ。彼女達はもはや立派な淑女です。そこには平民も貴族も、もちろん血統も関係ありませんわ。彼女達はどこに嫁がされても、きっと素晴らしい女主人になりますわ」
アデールはそう言い切って友人達を振り返った。
「皆さん、皆さんはもう素晴らしい淑女ですわ。三年間、わたくしの厳しい指導によく耐え抜かれました。ジョルジーヌ様も、わたくしと一緒に指導を手伝ってくださってありがとうございます」
「ふふ、全てはわたくし達のためですわ」
この中で、ジョルジーヌだけはアデールと同じく伯爵令嬢として厳しい教育を受けた女性だった。
ただ、彼女は政略結婚で社交界では好色と有名な二十歳も歳の離れた男に嫁ぐ事が決まっている。
学園で初めて会ったとき、ジョルジーヌは悲嘆に暮れて泣いているだけの弱い令嬢だった。アデールは彼女の悲しい運命を知り、ただ彼女の話に耳を傾けた。そして言葉を尽くして彼女を奮い立たせた。
そして彼女と一緒に、立場の弱い令嬢を助けようと誓ったのだ。
「これからもわたくし達はアデール様に教えていただいた事を胸に、最高の選択はできずとも最良の選択をして幸せを掴みますわ」
「ええ、そうですわね。わたくしも最良の選択をしますわ。ーーーでは皆さん、参りましょう」
「はい、アデール様」
全員がアデールに向かって美しく洗練され、完璧と言って遜色ない淑女の礼をした。
アデールの婚約破棄はあっさり終わった。顛末を聞いて怒り狂った兄が公爵家に直接乗り込み、自ら婚約破棄の書類にサインをしてきたからだ。
お兄様ったら、あんな事をして大丈夫かしら?
一応、相手は公爵家なのだけれど。
まあ、お兄様はやり手ですし、元々、この婚約だってあの男が勝手に結んできたものでしたものね。
アデールは父親を父親とは絶対に呼ばない。必要な時は前侯爵としか呼ばない徹底ぶりだ。
そしてあの男はとことん自分が可愛い男で色んな女に入れ込むため、義母と兄は侯爵家を傾けないためにさっさとあの男を隠居させた。おかげでアデールも、平民としての母の幸せを奪った男と顔を合わせずに済んでいる。
そしてやっとあの男が最後に残した呪縛ーーー婚約を、向こうから破棄してくれてアデールは内心狂喜乱舞していた。
さあ!わたくしもこれで自由!
義母には申し訳ないけれど、元々アデールは働く事に忌憚はない。
だから義母と兄には挨拶をして侯爵家を出ようとした。兄はもうすぐ結婚するから、いつまでもアデールがいるのは花嫁に悪い。
と、思っていたのに。
「何故、こうなっているのでしょう?」
「うん?嫌だった?」
「嫌ではありませんが…驚き過ぎてついていけませんわ」
何故かアデールの隣りにはこの国の第三王子が立っている。王子は兄より三つ下なので五歳年上だ。
そしてここは、アデールと第三王子の住まいだ。もう結婚して五年になる。
第三王子は蕩けるような微笑みをアデールに向けた。
「だってねぇ、元々ルベンからは散々妹が可愛いって惚気られてて、どんな令嬢なのかとこっそり見に行ったら、卒業パーティーで婚約破棄されて不利な状況のはずなのに、令嬢達引き連れて颯爽と出て行くんだもん。これは惚れるでしょう」
いえさっぱり分かりません。
「だからって婚約破棄された翌日に結婚を申し込まれるなんて思ってもみませんでしたわ」
そう婚約破棄された翌日に、善は急げとアデールが家を出ようとした当日に王家から使者がくるなんて誰が想像できようか。まあ、兄は「あの野郎…!!」とものすごく渋い顔をして婚約を了承していたけれど。
まあ王家からの申込だ。断れるはずもない。
あれよあれよという間に婚約をして、さっさと結婚式を挙げて。
そうして現在にいたる。
「今日は学園時代の友人達とお茶会だっけ?」
「ええ。貴族も平民も混じった気楽なお茶会ですわ」
「いいなぁ。僕もルベンから逃げてお茶会に参加したい」
「無理でしょう。ルベンお兄様は宰相閣下のお目付役ですもの」
「こんな若輩に宰相をやらせるのもどうかと思う」
思わずアデールは笑ってしまった。目の前のこの男はそう言いながらも辣腕の宰相だと知っている。
とくに、アデールの母親のような立場の弱い人間を救うために様々な法整備に手を付けて、今まで泣き寝入りするしかなかった立場の人達は喜んだ。貴族の中にはその法整備に反対する者もいたが、多くの国民が法整備を支持したため、世論に逆らう事もできず、国王はその法整備を認め、結果、宰相の顔など知らない国民は素晴らしい賢王だと今の国王を称賛している。
国王は冷汗が止まらないだろう。第三王子の母親は国王のお手付きになった女官で、彼女は心を病んでしまい、今も離宮で幽閉生活だ。
つまり、法整備を認めた張本人が断罪されるべきなのだが、賢王と賞賛される今、国王は好色に任せて好き勝手など絶対にできなくなったのだ。
「さあ、あなた。お仕事の時間ですよ」
「…仕方ない。行ってくるよ、アデール」
「はい。いってらっしゃいませ」
アデールが夫を送り出そうと手を挙げた所で、夫はくるりと振り向いた。
「ああ、そういえば知ってる?アデールのお茶会、今は若い貴族令嬢の憧れの的らしいよ」
「え?」
「完璧で幸せな淑女になれるって。まあそうだよねぇ、アデールが淑女教育した令嬢方、みんな幸せになってるもんねぇ」
「全員ではありませんけど…まあ、皆さん、最良の選択をされてますから」
アデールは友人達の現状に想いを馳せた。
一番驚いたのはジョルジーヌだ。二十歳も年上の好色な男に嫁いだのに、ジョルジーヌがあまりに完璧な淑女で夫をたてるため、それに心を打たれたらしく全ての女と手を切り、ジョルジーヌを溺愛している。
ジョルジーヌは最初こそ戸惑っていたが、何度も愛を囁かれている間に絆されたらしく、最近は年の差婚でありながらとても仲睦まじい夫婦として社交界で有名だ。
あの時最初に助けてくれたフルールも、家のために成金の商人と結婚したが、どうやら男では気の回らない事に気を回していた事が功を奏したらしく、訪れる女性客から称賛され、貴族の客に馬鹿にされる事もなくなり、結果的に店の利益に繋がっているらしい。夫との間に愛情があるかは微妙だが、ビジネスパートナーとして尊重されている。
オデットはまだ結婚していないが、かつてのアデールのように蔑まれている令嬢達を保護してはアデールと同じく礼儀作法を教えているらしい。おかげでオデットは素晴らしい心根の淑女だと下級貴族の間ではカリスマ的存在になったようだ。
ちなみにオデットを通して礼儀作法を習いたいという令嬢をアデールも指導している。
他の友人達も必ずしも最高の幸せではないが、与えられた環境下で最良の選択をし、それぞれそれなりの幸せを得て過ごしている。
そんな友人達に今日はお茶会で会うのだ。
「さあ、そろそろ行かないと本当に遅れますわよ」
「うう…僕もずっとアデールを愛でていたい……」
「あら、そんな事をおっしゃって。あなたのお母様やわたくしの母のような女性を少しでも減らして下さいな」
「そう言われると弱い……」
今夫は、幽閉されたままの母親を助け出そうとしている。もし助ける事ができたら小さな家を用意してそこでゆっくり暮らしてもらおうと様々な策を巡らせているのだ。
「じゃあ行ってくるよ、アデール」
「はい、いってらっしゃいませ」
アデールは夫に手を振った。
今幸せかと言われればアデールは胸を張って答えるだろう。
わたくしは幸せですわ。最良の選択をしてきましたもの。