8、接触と恐怖と不安と
影がそっと箸を置いたことに、主治医は軽く眉を上げる。
「もう良いの?」
「ご…めんなさい、もう……お腹一杯です…」
小さな声で謝罪する影の前には、院内の売店で売られている弁当の箱があるが――幕の内のそれの中身はほとんど減っていない。ちゃんと食べないと、と注意しかけた主治医だったが、悲しげに伏せられた影の瞳を見て……何も言えなくなった。医師として、食事はきちんとさせないといけないのだが。
(まぁ、売店の弁当で済ませるという時点で……あれ、かなぁ)
「なら、水分はしっかり摂ってね」
「はい……」
一応頷くが、影の手はお茶に伸びることはなく、掛け布団の中に仕舞ったままだ。
「影君」
「………はい」
「何が君を不安にさせてるのか、私なんかには想像もつかない。ただでさえ君は、昔から自分を抑え込むタイプだから」
「……………」
「話したくなったら、いつでも聞くからね」
主治医はそう言って穏やかに微笑み、影の病室を出て行く。
(………兄さん、)
兄は、もう家に着いただろうか。今、何をしているだろうか。兄さんも、夕食?それとも準備中?まだ帰ってない?宿題してる?
それとも―――
(僕のこと、考えてくれてるの………?)
カタン、と軽い音がして、影はハッと物思いの海から現実に戻って来た。
「……誰?」
何か粘着質な視線を感じ、影は不安に満ちた誰何の声を投げた。姿は目視出来ていないが、絶対に出入り口に誰かがいると気配で分かる。
「先生……?」
そんなわけがないことなど、影は分かっている。主治医なら、普通に病室に入って来るはずだから。
「誰っ?」
不安に、声が裏返ってしまう。頭の中、夕方の兄の悲しげな声が再生される。記憶の中の兄にすがり付きたくなる。
(・・・・・・・っ、)
影は出入り口から、眼が離せずにいる。眼を離したら最後、化け物が飛び込んでくる・・・そんな妄想が浮かんで離れない。
「誰!」
もう一度誰何の声を投げると―――――黒いスーツを身に纏った女が姿を見せた。
その瞬間、喉がひゅうと鳴った。
「あ、」
女は、面食らった影の顔をニヤニヤと愉快気に眺めながら、長い足で一歩一歩彼に近づいて行く。
墨のように真っ黒で、腰の半ばくらいまであるストレートの髪がゆらゆらと揺れている。
影は身を捩り、枕元のナースコールに手を伸ばした。
だが、
「ひっ・・・!」
その手首を、ひやりと冷たい手でがっしりと掴まれてしまう。
「こらこら、久々の再会に第三者を介在させるなんて、どういう了見かな?」
「は、な・・・して、」
がくがくと、全身が瘧のように震える。
手足の先が一気に冷え、頭が酸欠に陥りそうになる。
そんな影に、女はズイッと乗り掛かるように上体を倒して来る。
「う、ううっ」
「そんなに震えないでよ。傷付くなぁ」
全く傷付いていそうにない声音で、女―――――芦原遊子が影の耳元で囁く。
「本当に久しぶりだね・・・。半年ぶりかな?」
「・・・・っ、」
いまだに残る生々しい記憶を、影は必死に振り払う。
だが、遊子の口撃は止まない。
「会いたかったんだよ、君に」
「やめっ、」
遊子が、影の滑らかな白い頬を、真っ赤な舌で舐め上げる。
影はどうにか遊子の手を振り解こうともがくが、一切彼女の力には敵わない。
「学校で倒れたって訊いて、心配で居ても立ってもいられなくなってね・・こうしてお見舞いに参上仕った次第さ」
「だっ、誰がそんなことを……」
「気になる?」
また遊子が舌を伸ばして来る。やけに動きがゆっくりで、影が怯えるのを楽しんでいるようだ。影は必死に顔を背ける。
「相変わらず可愛い反応をするね…」
「はな、放してくださいっ」
涙混じりに懇願する影を、遊子は至近距離から穴が空くほどに見つめる。
「そんなに怯えないでったら。……今日は別に拐いに来たわけじゃないんだから、さ」
遊子が囁くように言う。影がぶるりと身を震わせる。
「ただのお見舞いとご挨拶だよ……これからもよろしく、と」
「!」
「私は諦めが悪い上に探究心は人一倍でね…我ながら困ったものだよ」
「っ」
「私は……おまえたち双子を諦めてなどいないからね。そのうちにまた、会いに行くよ。おまえたちを手に入れに、ね……」
恍惚とした口調で宣戦布告をし、遊子は影を解放した。
「っ、」
「兄の日向にもくれぐれもよろしく……私が会いに来たとね」
軽くウィンクを影に投げ、遊子は颯爽と病室を出て行く。影は小刻みに震えながら、遊子の後ろ姿を見送るしか出来ない。
(怖い、)
早く完全に見えなくなって欲しい。そう願いながら。
「あぁ、それと」
だが当の本人は、ドアの手前で足を止め、影に振り向いた。
「―――っ」
「……あんたの“恋心”は実らないから、さっさと諦めなさい」
「!」
「それじゃ」
最後の最後に、無邪気な笑みを残して遊子の姿はドアの向こうに消えた。カツン、カツンとヒールの硬質な音が響いて来る。
「……………」
その音が完全に聞こえなくなるまで、影は息を詰めて体を強張らせていた。
「はっ、」
やがて音が聞こえなくなると、詰めていた息を吐き出して影は体を弛緩させた。ダッシュした時のように、呼吸が酷く荒い。
(怖かった……)
さすがにこういう場所で実力行使には出なかったが、彼女の手下には前科がある。
「うっ、」
以前、違う病院の中で拉致されたことを思いだし、激しい嫌悪感に襲われた。
「ふっ、うぅっ……」
どうしようもなく怖くて、心細い。学校で倒れたりしなければ、今ごろは日向と家でゆっくりしていたはずなのに。どうして、自分ばかり……と影は頭を抱える。心細くて、不安で、落ち着かない。
(兄さんの声が聞きたい…)
そう思うのに、夕方のやり取りが尾を引いて、電話をする勇気すら出ない。ベッドを出て、病室を出て、公衆電話の場所まで行く。そして家の電話番号をプッシュして……。
(そしたら、兄さんの優しい声が僕に応えてくれる……!)
もう我慢の限界だった。
影は慌てながら、ベッドから出た。その際に足先がシーツを引っ掛けてバランスを崩すも、転倒は免れる。病院が貸してくれたスリッパを履きもせず、病室を抜け出す。半ば駆け足で廊下を進みながら、ズボンのポケットに小銭入れがあることを確認する。中学時代に買った、兄とお揃いの小銭入れ。影はそれを、毎日肌身離さず所持している。安心、出来るから。
「はぁ、はぁ……っ」
ようやく公衆電話のスペースに辿り着いた影は、もどかしい手付きで小銭入れを取り出し、百円玉を投入、自宅の電話番号を震える指でプッシュした。
「っ、」
立っていることすら、辛い。影は、電話にすがり付く態勢で、兄が電話に出るのを待った。