表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/22

8、接触と恐怖と不安と

影がそっと箸を置いたことに、主治医は軽く眉を上げる。

「もう良いの?」

「ご…めんなさい、もう……お腹一杯です…」

小さな声で謝罪する影の前には、院内の売店で売られている弁当の箱があるが――幕の内のそれの中身はほとんど減っていない。ちゃんと食べないと、と注意しかけた主治医だったが、悲しげに伏せられた影の瞳を見て……何も言えなくなった。医師として、食事はきちんとさせないといけないのだが。

(まぁ、売店の弁当で済ませるという時点で……あれ、かなぁ)

「なら、水分はしっかり摂ってね」

「はい……」

一応頷くが、影の手はお茶に伸びることはなく、掛け布団の中に仕舞ったままだ。

「影君」

「………はい」

「何が君を不安にさせてるのか、私なんかには想像もつかない。ただでさえ君は、昔から自分を抑え込むタイプだから」

「……………」

「話したくなったら、いつでも聞くからね」

主治医はそう言って穏やかに微笑み、影の病室を出て行く。

(………兄さん、)

兄は、もう家に着いただろうか。今、何をしているだろうか。兄さんも、夕食?それとも準備中?まだ帰ってない?宿題してる?

それとも―――

(僕のこと、考えてくれてるの………?)

カタン、と軽い音がして、影はハッと物思いの海から現実に戻って来た。

「……誰?」

何か粘着質な視線を感じ、影は不安に満ちた誰何(すいか)の声を投げた。姿は目視出来ていないが、絶対に出入り口に誰かがいると気配で分かる。

「先生……?」

そんなわけがないことなど、影は分かっている。主治医なら、普通に病室に入って来るはずだから。

「誰っ?」

不安に、声が裏返ってしまう。頭の中、夕方の兄の悲しげな声が再生される。記憶の中の兄にすがり付きたくなる。

(・・・・・・・っ、)

影は出入り口から、眼が離せずにいる。眼を離したら最後、化け物が飛び込んでくる・・・そんな妄想が浮かんで離れない。

「誰!」

もう一度誰何の声を投げると―――――黒いスーツを身に纏った女が姿を見せた。

その瞬間、喉がひゅうと鳴った。

「あ、」

女は、面食らった影の顔をニヤニヤと愉快気に眺めながら、長い足で一歩一歩彼に近づいて行く。

墨のように真っ黒で、腰の半ばくらいまであるストレートの髪がゆらゆらと揺れている。

影は身を捩り、枕元のナースコールに手を伸ばした。

だが、

「ひっ・・・!」

その手首を、ひやりと冷たい手でがっしりと掴まれてしまう。

「こらこら、久々の再会に第三者を介在させるなんて、どういう了見かな?」

「は、な・・・して、」

がくがくと、全身が瘧のように震える。

手足の先が一気に冷え、頭が酸欠に陥りそうになる。

そんな影に、女はズイッと乗り掛かるように上体を倒して来る。

「う、ううっ」

「そんなに震えないでよ。傷付くなぁ」

全く傷付いていそうにない声音で、女―――――芦原遊子(あしわらゆうこ)が影の耳元で囁く。

「本当に久しぶりだね・・・。半年ぶりかな?」

「・・・・っ、」

いまだに残る生々しい記憶を、影は必死に振り払う。

だが、遊子の口撃は止まない。

「会いたかったんだよ、君に」

「やめっ、」

遊子が、影の滑らかな白い頬を、真っ赤な舌で舐め上げる。

影はどうにか遊子の手を振り解こうともがくが、一切彼女の力には敵わない。

「学校で倒れたって訊いて、心配で居ても立ってもいられなくなってね・・こうしてお見舞いに参上仕った次第さ」

「だっ、誰がそんなことを……」

「気になる?」

また遊子が舌を伸ばして来る。やけに動きがゆっくりで、影が怯えるのを楽しんでいるようだ。影は必死に顔を背ける。

「相変わらず可愛い反応をするね…」

「はな、放してくださいっ」

涙混じりに懇願する影を、遊子は至近距離から穴が空くほどに見つめる。

「そんなに怯えないでったら。……今日は別に拐いに来たわけじゃないんだから、さ」

遊子が囁くように言う。影がぶるりと身を震わせる。

「ただのお見舞いとご挨拶だよ……これからもよろしく、と」

「!」

「私は諦めが悪い上に探究心は人一倍でね…我ながら困ったものだよ」

「っ」

「私は……おまえたち双子を諦めてなどいないからね。そのうちにまた、会いに行くよ。おまえたちを手に入れに、ね……」

恍惚とした口調で宣戦布告をし、遊子は影を解放した。

「っ、」

「兄の日向にもくれぐれもよろしく……私が会いに来たとね」

軽くウィンクを影に投げ、遊子は颯爽と病室を出て行く。影は小刻みに震えながら、遊子の後ろ姿を見送るしか出来ない。

(怖い、)

早く完全に見えなくなって欲しい。そう願いながら。

「あぁ、それと」

だが当の本人は、ドアの手前で足を止め、影に振り向いた。

「―――っ」

「……あんたの“恋心”は実らないから、さっさと諦めなさい」

「!」

「それじゃ」

最後の最後に、無邪気な笑みを残して遊子の姿はドアの向こうに消えた。カツン、カツンとヒールの硬質な音が響いて来る。

「……………」

その音が完全に聞こえなくなるまで、影は息を詰めて体を強張らせていた。

「はっ、」

やがて音が聞こえなくなると、詰めていた息を吐き出して影は体を弛緩させた。ダッシュした時のように、呼吸が酷く荒い。

(怖かった……)

さすがにこういう場所で実力行使には出なかったが、彼女の手下には前科がある。

「うっ、」

以前、違う病院の中で拉致されたことを思いだし、激しい嫌悪感に襲われた。

「ふっ、うぅっ……」

どうしようもなく怖くて、心細い。学校で倒れたりしなければ、今ごろは日向と家でゆっくりしていたはずなのに。どうして、自分ばかり……と影は頭を抱える。心細くて、不安で、落ち着かない。

(兄さんの声が聞きたい…)

そう思うのに、夕方のやり取りが尾を引いて、電話をする勇気すら出ない。ベッドを出て、病室を出て、公衆電話の場所まで行く。そして家の電話番号をプッシュして……。

(そしたら、兄さんの優しい声が僕に応えてくれる……!)

もう我慢の限界だった。

影は慌てながら、ベッドから出た。その際に足先がシーツを引っ掛けてバランスを崩すも、転倒は免れる。病院が貸してくれたスリッパを履きもせず、病室を抜け出す。半ば駆け足で廊下を進みながら、ズボンのポケットに小銭入れがあることを確認する。中学時代に買った、兄とお揃いの小銭入れ。影はそれを、毎日肌身離さず所持している。安心、出来るから。

「はぁ、はぁ……っ」

ようやく公衆電話のスペースに辿り着いた影は、もどかしい手付きで小銭入れを取り出し、百円玉を投入、自宅の電話番号を震える指でプッシュした。

「っ、」

立っていることすら、辛い。影は、電話にすがり付く態勢で、兄が電話に出るのを待った。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ