6、兄と弟
再び主治医が顔を出したのは、病室の窓から見える外の世界に茜が差しだした頃だった。
影はあれから眠ることも出来ず、かと言って起き上がることもだるく、ベッドの上でただおただおとなしく横になっているしかなかった。
「影君、気分はどうかな?」
「先生・・・」
「・・・どう?何か話してくれる気になったかな?」
そう言って穏やかに微笑む医師は、片手に缶ジュースを二つ持っていた。
「喉、渇かないかい?」
ゆっくりと上体を起こして、彼から一つを受け取る。林檎のジュース。
「ありがとうございます」
そっと眼を伏せる影の頭を、医師が優しく撫でる。もう高校生なのに、とは思いながら、その手をおとなしく受け入れる。
「気分はどう?昼よりは顔色も良くなったようだけど」
「・・・はい、どうにか」
「そうか。お兄さんも安心するだろう」
「・・・・・っ」
お兄さん、と聞いてぴくっと肩が震えたのを、医師は目敏く気づいた。
「せ、先生」
「影君?どうした?」
「ぼ、僕・・・分からないんです」
「分からない?」
医師の眉が寄り、怪訝そうな声が吐き出されても影は先を続けた。誰かに話さないと、気が変になりそうだった。
「僕・・・本当に日向兄さんのことが好きなのかって」
「・・・・・・」
「本当は、僕の“本当”は、兄さんを嫌ってるんじゃないかって、」
「・・・・・・・・」
「僕、こんな弱虫だから、ずっと兄さんに守ってもらって、兄さんの後ろにくっついてばかりで。兄さんのこと、頼りになるし優しいから、すごく好きだって、兄さんがいないと駄目だって、ずっと思っていたのに、」
医師は黙って聞いている。影の内心の吐露を。
「兄さんの重荷になってる、そういう自覚はあったけど、でも・・・僕は兄さんのことが本当は嫌いで、わざと迷惑を掛けて困らせてるんじゃないかって・・・・・、」
話しているうちに、胸が苦しくなった。矢継ぎ早で話したのがいけなかったのか。
「・・・分かった。分かったから、落ち着こう」
また医師の手が頭を撫でてくれる。この手が兄のものなら良いのに、と思ったけれど、口にはしなかった。
「ほら、せっかく買ってきたジュースが温くなってしまう。私も一服するから」
そう言って優しく微笑み、自分は缶コーヒーのプルトップを引き開ける。
「・・・・」
影は泣きそうな顔をしながらも、自分もジュースのプルトップを開けた。林檎の微かな香りを鼻で感じながら、二口ほど飲んだ。
「・・・・でも君のお兄さんは、君をとても大事に思っているよ」
「!」
「きっと、好きとか嫌いとか、お兄さんはそういうことを考えてはいないんじゃないかと思うよ。君が、大切な“家族”だからだ」
「・・・・家族、」
「家族が支え合うのは、全く変なことじゃない。だから、」
「だけど!だけど・・・僕は兄さんが嫌いかも知れないんですよ?僕に優しくしてくれる兄さんを嫌ってる・・・それって酷くないですか?最低じゃないですか?」
「影君……」
「本当は嫌いなのに、都合良く守ってもらって……なんて厚顔無恥なんだろうって思ったら、僕…、」
泣きたくなんてないのに、目頭が熱くなって来る。日向の優しい笑顔が浮かぶと、胸が苦しくなる。
「影君、どうして急にそんな風に思うようになったの?」
「っ」
「君は、日向君のこと、とても慕っているでしょう?私や看護師たちも君ら双子はとても仲良しだって知っているし……なのに、一体どうして?」
「そ、それは……」
「ふむ。まだ隠し事があるようだけど……敢えて訊かない方が良いんだろうね」
医師は穏やかな口調で言う。影は俯いて唇を噛んだ。話してしまおうか、という思いが徐々に芽生え始める。
(でも、本当に気が触れたなんて思われたらどうしよう……)
いきなり変なことを言ってすみません、と笑い飛ばしてしまおうかと考えた瞬間、何処か遠くで金属類の落ちるような音が響いた。
「?何だろうね」
医師が椅子から立ち上がり、病室の外へ様子見に行く。影は彼の注意が自分から逸れた隙を見計らって、そっと溜め息を吐いた。
「あぁ、噂をすれば何とやら、だね……」
「え?」
医師の嘯く声がしたのとほぼ同時、今はあまり聞きたくない声がした。
「せ、先生、影は?!」
(兄さん……っ、)
「影君なら、起きてジュースを飲んでるよ」
「本当ですかっ」
勢い込んで病室に現れたのは、双子の兄・九連日向だった。学校が終わると同時に飛び出して来たんだろうな、と影は思った。はあはあと息をした彼は、髪はボサボサだった。
「か、影…気分は……けほっ、けほっ」
「に、兄さん…とりあえず落ち着いて。これ、」
影がおずおずとジュースの缶を差し出すと、日向はありがとうと笑ってジュースに口を付けた。ごくごく、と喉を鳴らしながら至極美味そうに飲む。
「ん、ありがとう…落ち着いたよ」
それにしても、良かった…と笑顔で微笑まれ、何故か影は罪悪感を感じていた。心配させてばかりだ、と。
「兄さん、あの…」
「先生、影は入院したほうが……?」
「一応今晩だけは様子見のために、とどまってもらおうと思うけど、明日の学校には私が責任を持って送り出すよ。で、明日の放課後にまた寄ってもらって異常がなければ帰宅してもらって構わない」
「分かりました。お願いします……じゃあ俺、売店で替えの下着とか、」
「良い」
日向の言葉を強い口調で遮ったのは、意外にも影だった。日向が虚を突かれたような表情で、影を見返す。影は真正面から視線を受け止めることが出来ず、俯き気味に言葉を続ける。
「子供じゃないし、全く動けない重病人でもないんだから、着替えくらい自分で買いに行ける」
「でも……」
「良いって言ってるじゃない!!」
悲鳴にも似た叫びだった。日向が顔を引きつらせ、医師も驚きを隠せない。
「何度も、何度も言わせないでよっ」
「か……げ、」
「もう大丈夫だから、帰って良いよ」
それは日向にしてみれば、完全なる拒絶だった。日向がどんな顔をしているか、見なくても気配だけで分かる。
「日向君、影君は少しナーバスになってるみたいなんだ。そっとしておこうか」
医師の取り持つ声も、日向の返事も何処か遠くに感じる。今はただ、一人になりたかった。日向の、双子の兄の、姿を見たくなかった。
「影、」
呼び掛けにも応えたくなくて、影はずっと俯き続ける。
「じゃ、じゃあ俺、帰るな」
「……………」
「…先生、影のこと、よろしくお願いします」
「あぁ、任せて」
日向が踵を返し、病室を去る気配がする。日向の視線は犇々と感じるけれど、それを真正面から受け止めることが、今の影には出来そうにはなかった。