5、黒と赤の対話
随分お久しぶりです…相変わらず拙い文章ですが、楽しんでいただけたら幸いです。
『はじめまして。如月陽です』
『奈緒ちゃん、て呼んで良いかな?』
『初めて見た時から、君に惹かれてた。…僕と、付き合って下さい』
『大好きだよ、愛してる。奈緒ちゃん』
『……さようなら、どうか幸せに』
思い出したくもないのに、次々と思い出せる。
“あの人”の言葉を。
今は別の想い人がいるのに。
「……もと?」
家族想いで、親友想いの人。今も、弟のことが心配なのだろう…そわそわと時計を見る。何度も何度も。
「おい、蓮本!」
「!!」
急に名前を呼ばれ、奈緒は思わず体を震わせた。
「お前まで具合が悪いのか?」
教師が眉を寄せ、こちらを見ている。クラスメートたちの視線も奈緒に向けられ、何度も名前を呼ばれたのだと分かった。
「あ、いえ……」
「まぁ良い。…この問題、解いて」
「はい」
奈緒は椅子から立ち上がり、視線の波間を抜けながら黒板へ向かった。途中で日向を見たが、彼だけは奈緒を見てはいなかった。
(弟に勝るものはなし、か……)
私は陽君にそんな感情を抱いたことがあるのだろうかと、奈緒は思った。
…最近、自分の“中”に誰かがいるような奇妙な感覚に陥ることが時々あって、落ち着かない日々が続いていた。
兄には心配を掛けたくなくて、言っていない。
「……先生?」
「お、目が覚めたか?」
主治医の穏やかな笑顔に、心が落ち着く。
「……僕は、」
「学校で倒れたんだよ。保健室の先生が車で運んで下さったんだよ」
影は彼に支えられながらゆっくりと上体を起こし、見慣れた病室にぼんやりと視線を巡らせる。
「過呼吸の発作が出たんだね。…気分はどう?」
少し体がだるいが、辛い程ではない。
「大丈夫、です……」
奇妙な感覚のことを言うか言うまいか、影は惑う。それを体調不良を隠していると判断されたのか、主治医は心配そうに瞳を陰らせている。
「影君、また何か隠してるね?」
「……っ」
「良くも悪くも、今お兄さんはそばにいない……私で良いなら話を聞くが、」
主治医がそこまで言った時、開いたままのドア口からまだ若い看護師が顔を覗かせた。
「あぁ、いたいた!先生、急患が入ったので至急お戻り下さい!」
「すぐ行く!」
看護師が慌ただしく走り去る。
「今は時間がないから無理だけど、あとで話聞くから!とりあえず休んでて」
「あ……はい、」
よし、と影の頭を一撫でして主治医は病室を出て行った。
(………兄さん、)
時間を見ようと腕に眼を遣るが、腕時計がない。横の棚の机になっているところを見れば、その上にベルトを伸ばして置いてあった。
(僕、また倒れちゃったんだ……)
昼休みに兄や奈緒と屋上に走ったことや、その直後のことは覚えている。しかし教室に戻るという流れになる頃に、一気に呼吸が乱れだした。そして、兄が自分を呼ぶ声を何処か遠くで聞きながら、影の意識は真っ白に塗り潰されて行ったのだ。
(……もう、嫌だ)
軟弱なこの体。
軟弱なこの精神。
どれだけ他人に迷惑を掛ければ気が済むのか。
『お前は一生そのままさ』
「!?だ、誰?」
何処からか低い男の声が聞こえた気がして、影はびくりと体を震わせた。怯えた眼で忙しなく周囲を見るけれど、やはり誰もいない。
(……怖い、)
『そうだ。現実は怖いことばかりだろ?』
「っ!!」
『…怖くて辛くて苦しくて痛いことばかりだ。生きにくくて仕方ないな?』
「誰、誰なの……」
頭の中に直接響いて来るような、不思議な声。誰のものなのか、全く分からない。
『お兄ちゃんも近くにいないしな?』
からかうような口調。徐々に見え隠れし始める、悪意。
「だ、誰……」
『俺が誰か、分からないって?ははは!何を戯けたことを!』
「………」
これ以上話を聞いてはいけないと頭の中で警鐘が鳴るのに、身動き一つすら出来ない。体が小刻みに震え、兄の不在から来る不安に心身が侵食される。
『俺が誰か、お前はもう充分に分かっている筈だ』
「いや、止めて……」
『逃げるのか?』
「う、」
『逃げて逃げて逃げ続けて、兄さん兄さんとぴいぴい泣きわめき続けるのか?』
「それは……」
『だがお前、本当は日向のこと、嫌いだろ?』
「!?」
いきなりの言葉に、影の呼吸が激しく乱れた。
「な、何を言って」
『認めれば楽になるぞ?お前は…いや、九連影は双子の兄貴、九連日向が嫌いだと』
「そ、そんなことないっ!勝手なこと言わないで」
影は必死に否定する。
頭の中に直接響く不気味な声にも気丈に反論する。
『勝手なこと?はっ、何言ってやがる!お前が素直になってねぇだけだろ!』
「違う!そんなことないっ。あなたに何が分かるのっ」
声がせせら笑う。
『頑なだな』
「何を……っ」
『俺には分かるぜ、お前のことが…手に取るように』
ぞくりと嫌な寒気が背中を走る。これ以上、この“声”と話してはいけない。意識から閉め出せ。本能がそう叫ぶ。
(兄さん……っ)
兄に助けを求める少年に、“声”の無情な言葉が襲い掛かる。
『だって……俺はお前だからだよ。もう一人の……いや、“本当”の自分だからだ』
(何、この人、何を言ってるの……?)
『本当に分からないのか?』
「ぼ、僕は何も言ってないのに……」
『だからお前の考えてること、思ってることは俺には筒抜けなんだよ』
(そんなわけ、)
『だって……俺はお前だからな』
嘘だ、嘘だと影は耳を塞ぎながら何度も首を左右に振る。
自分は自分だし、兄を嫌ってなどいない。弱虫な自分を守ってくれる、強くて頼りになる双子の兄。
嫌いなんかじゃ…ない。両親よりも身近で欠けたら不安で仕方がない。彼がいないと、満足に生きられない。
『聞き分けのない奴だな。よく考えてみろ。あいつがお前を甘やかすから、お前が自力で何かをするという行為が徐々に減って行っただろ?あいつの過保護のせいで、お前は自分で考えることを止めた…あいつがいなければ何も出来ない“人形”になった。違うか?』
「ち、違う…僕は人形なんかじゃ……」
『本当に?胸を張って、そう言えるか?』
影を追い詰めるように、頭の中の“声”がねちねちとした口調で問い掛ける。
「違う、僕は人形なんかじゃ、」
そうは言いながらも、影は徐々に不安になる。
確かにいつも日向の影に隠れ、彼の言うことが一番正しいのだと思ってきた。自分の意見は言わず、日向の言うとおりにすることも多々あった。
でも、それでも。
『日向の思うがままに生きている・・・違うか?』
「そんなことない、そんなことない・・・」
耳を閉じ、眼を閉じ、影はうわ言のように呟く。それを“声”が嘲笑う。認めない影の心の弱さを見透かしているかのように。
(それでも認めちゃダメだ……)
認めたら最後。
そんなフレーズが脳裏を過るから。
『……少しは頑張るな。そんなに日向が大事か』
そんなの、当たり前だ。
『当たり前、か。まぁ今日のところはこのくらいで勘弁してやろうか』
くくく、と低い笑い声が頭に響く。
『また、その内に、な』
意味深な言葉の後、影の“中”の気配が消えた。綺麗に。
「………っ、」
ぐらりと視界がぶれる。
左手で体を支え、右手で胸元を押さえる。不安と緊張が心身を侵そうと触手を伸ばして来る。
(大丈夫、大丈夫……)
何度もその単語を繰り返す。妙な“気配”と交わした会話から必死に意識を逸らす。
(これ以上、兄さんに心配はかけられない……)
兄の、頭を撫でてくれる優しい手付きを思い出す。
(僕は、大丈夫……)
荒くなる呼吸を、どうにか整えようと深呼吸を繰り返す。
(兄さんがいなくても、大丈夫……)
そうやって暗示でも掛けなければ、自分は本当にダメになる。
その一心で、影は何度も“大丈夫”と繰り返した。