4、保健教諭
「あら、いらっしゃい」
日向が影を背負い、慌てて保健室に行くと、保健教諭がのんびりと茶を啜っている場面に出会した。授業直前に保健室へ来た生徒を咎めることもせず、湯飲みを手にしたまま日向にベッドを指し示した。
「はい、弟くんはこちらへどうぞ」
「すみません……」
影をそっと下ろすと、保健教諭は体温計を持ってきて、影の口に含ませた。
「何かあった?」
脈や瞳孔の様子を診ながら、聞いて来る。
「何か…ってことも。ただ、少し走った、けど…」
「そう」
ぴぴぴっという電子音がして、体温計を取り出す。
「8度…か。こりゃ病院に行かせた方が良いかな。確か掛かり付けの病院があるんだよね?」
「あ、はい…」
「じゃあ、主治医の先生の名前と、電話番号教えて。私、車で連れて行くから」
「え、でも……」
「気にしない、気にしない。君だって、大事な弟くんを私みたいななんちゃって保健教諭に任せるより、馴染んだ先生に託す方が安心出来るでしょ」
自虐的な台詞を、実に楽しそうに吐き出す。
頷いてしまうのも憚られ、日向は返答に詰まった。
「ほらほら、早く」
急かされ、日向は差し出されたメモ紙に病院名、担当医、そして直通の電話番号を記す。
「あ、あの…影のこと、よろしくお願いします」
「任せて。だから君は、安心して授業を受けて来なさい」
影が倒れ、苦しんでいるのに安心など出来やしないが、日向は頷く。
「ほら、行った行った。ちゃんと学校に連絡入れるから」
日向は渋々ながら、保健室を後にした。
影は大丈夫だろうか、と先に教室へ到着した奈緒は、気も漫ろで授業に身が入りそうになかった。
机の上に、とりあえずは教科書とノート、筆記具は出したものの、それに手をつけることはない。
そのとき、
「九連、もう授業始まってるぞ」
(え?)
教師の視線の先、教室後部の、開け放たれたドアから九連日向が教室へ入ってきたのである。
「すみません、」
「それと、弟はどうした」
「ちょっと、具合悪くなって。保健の先生が、かかりつけの病院に車で連れて行くって、言ってくれて」
そう教師に説明する日向の顔色は、余り良くない。影のことが心配で仕方ないと、秀麗な顔が不安で染まっている。
「そうか。…とりあえず、お前は席に着きなさい」
教師に頷き、日向は彼らしくない落ち着きのない足取りで自分の席まで歩いた。
「……九連、大丈夫?」
「一応。それに辛いのは、影だから」
自分に言い聞かせるように奈緒に応え、日向は授業の準備を始める。
(そばについていたいんだろうけど……)
恐らくあの変わり者の保健教諭に授業に出ろと背中を押されたのだろう。間違ってはいないが、
(何だろう…この違和感……。あの保健教諭、何かがあるような気がするんだけど…)
今、感じている違和感が何に起因しているのか、奈緒には掴めずにいる。
(少し、調べてみるか)
日向の後ろ姿を見ながら、奈緒は思った。
「はい〜、今から連れて行きますんで〜よろしくお願いします〜」
妙に間延びした声で言い、保健教諭・水沢綾香は電話を終えた。水沢は、前任の寺田優子が出産のために休暇を取っている間の、臨時採用である。
小柄な体格だが、体つきにあっていない大きめの白衣を着ているし、太い黒縁の眼鏡はずり下がり、緩いウェーブのかかった黒髪は方々がはねている。
「さて、と」
水沢はベッドの区画まで歩き、眠る少年に視線を落とす。
「先輩の言ってた通りッスねぇ。女の子みたいに可愛いお顔をしてるッス」
くふふ、といたずらっ子のような笑い声を上げると、少年ー九連影の滑らかな頬に触れた。
(は〜、襲いたいッスよ先輩!でも、今はまだ我慢我慢!信頼を植え付けておく!それが先ッスよ!)
必死に自分に言い聞かせ、彼女は影を抱き上げた。驚く程の軽さに、水沢は眼を見張る。
(軽ッ。ちゃんと食ってるんかね〜)
ぶつぶつと呟きながら、水沢は保健室を後にした。
「兄……さん、」
影の心細そうな呟きは、敢えて無視をした。




