12、迫り来る、女の足音
自宅がある高層マンションを見上げて、少年―――――沖永凪砂は、憂いの帯びた溜め息を吐いた。
父は、もう帰宅しているのだろか。
そう考えながら、凪砂はエントランスをくぐり、二機あるうちの片側のエレベーターを一階に呼び出し、十一階のボタンを押す。
(・・・・蓮本、奈緒さんか・・・)
口調はざっくばらんだったが、凪砂の手当てをしてくれる手付きはとても器用で、凪砂を気遣う声はとても優しかった。
久しぶりに、他人にあんなに優しくしてもらった。
奈緒の顔を思い浮かべると、心の中に何か暖かいものが広がっていくのが不思議で、凪砂は思わず自分の胸にそっと手を当てていた。ドキドキと、軽く高鳴っているのが分かる。
(・・・・また、会えると良いな・・)
そんなことを思っていると、エレベーターが目的階の十一階に到着した。
父がいないことを願いながら、自宅1001号室へ足を進める。ドアの前に立ち、中に耳を澄ませる。
が、物音らしきものはしないし、人のいる気配もしない。
ホッとしながら鞄の中から鍵を取り出し、鍵を開けて中へ足を踏み入れる。
すると、
「お帰り、凪砂君」
「わあっ・・!」
父ではなかったが、部屋には人間がいた。
電気も点けず、ソファに座っていたらしい。凪砂に気付き、ひょいっと片手を挙げて挨拶をする。
「び、びっくりした。いらっしゃってたんですね」
先ほどとは別のドキドキを胸に感じながら、凪砂は電気を点けた。
「だって連絡したら、君、警戒するじゃないか。だから、お忍びでね」
「・・・勝手に上がられたら、更に警戒しますよ」
凪砂が精一杯皮肉ると、来客はからからと陽気な笑い声を立てた。
「ははは!違いないね!」
凪砂は鞄をダイニングの椅子に置いて、来客の前に立った。
「あの、すみませんが・・・何度いらっしゃっても僕の気持ちは変わりません。僕は、此処を出て行く気はありませんから・・・」
「ふうん。あんな父親と暮らすこと、耐えられるの?」
「・・・・どんな人でも、父親は父親ですから。それに、見ず知らずのあなたと暮らす程、僕は父から逃れたいとは思っていません」
「そう」
「あの・・・どうして僕をそんなに必要としているんですか?初めてお会いしたとき、すごく驚いた顔をされてましたけど・・・」
来客が、うふふと含むような笑みを漏らす。
「まだ言ってなかったわよね。あたしが君に執着する理由」
「はあ」
来客はスーツの内ポケットから一枚の写真を取り出すと、凪砂の目の前に翳して見せた。
「!」
「そっくりでしょう、君に」
「……こ、この人、誰ですか?」
少年の大きな瞳が、じっと写真に見入っている。
「この人は、あたしの遠い血縁者なのよ……もう亡くなったけれどね」
「亡くなった……、」
写真には、一人の青年が穏やかな笑みを浮かべる姿があった。その青年は凪砂に瓜二つだった―――青年の髪は真っ白で凪砂の髪は真っ黒なことを除いては。
「あたしは…彼の代わりを探していた」
「代わりを?」
「その矢先に、君に出会った。彼にそっくりな君に」
不意に来客の指が自分に伸ばされて来たから、凪砂は思わず身を引いていた。何か、嫌な予感がする。
「僕、は……」
「急にどうした?顔色が悪くなって来たわね…」
来客がソファから立ち上がる。凪砂は一歩後ろに下がる。来客が一歩進む。凪砂は一歩下がる。
「何故、逃げるの?」
「………っ、」
どん、と背中が壁に当たる。逃げられない。
来客が、凪砂の前に立つ。細まった瞳が、凪砂を見下ろす。
「今一度問うよ。あたしと来てくれない?」
凪砂は、来客の威圧感に怯えながらも、どうにか首を左右に振る。
「そう。残念だ」
来客が、諦めたように肩を竦める。それと同時に凪砂を襲っていた威圧感も霧消し、彼は警戒心を少しだけ解いた。
―――だが、それが過ちだった。
「なんてね」
「っ!?」
気が緩んでいたところを、狙われた。両肩を掴まれ、床に押し倒される。
「痛っ…!」
「……君、あたしの知ってる匂いがする」
「なに、を……、ひぁっ!?」
首筋を甘噛みされ、凪砂は意図せず声を上げてしまう。
「やっ、放し、て……っ」
「…この匂いは、奈緒の匂いだ……」
「……!?」
奈緒?
今、奈緒と言ったか?
「君、まさか今まで奈緒と会っていたの…?」
問いかける声は、何処までも楽しそうで。ぞくり、と激しい悪寒が背中を走り抜ける。
「そうか、奈緒とか…。陽に瓜二つな君が、陽の元恋人と既に会っていたとは……なんたる運命の悪戯なのだろうな」
「……え、」
「驚いたか?この写真の男…陽はな、フルネームを蓮本奈緒という女と恋仲だったんだよ。陽に瓜二つな君は、今まで蓮本奈緒に会っていたんだろう?」
「そ……れは、」
・・・・・同姓同名ということも有り得る。
それほどメジャーな名前ではないだろうが、絶対にないとは言い切れないから。
でも。
凪砂の心は感じている。
自分を助けてくれたあの高校生が、この来客の言っている“蓮本奈緒”その人なのだと。
「僕、は」
「どういう経緯で奈緒と知り合った?古い知り合い、という訳でもあるまい?」
にやにやと下卑た笑みを浮かべる来客の瞳が、興味津々という風に凪砂を見下ろしている。
凪砂が白状するまで、彼を解放する気がないことは、火を見るよりも明らかだった。
「・・・・・今日、助けてくれて、」
喉がからからで、何か飲みたい欲求が高まって来る。
「何から?」
「同級生に、絡まれているところを、助けて貰ったんです。・・・その後、あの人の家で手当てをして貰って・・・」
少し、話をした。
凪砂の内情に踏み込んだ話をした。
彼女は、少し悲しそうに笑っていたっけ・・・・・。
「助けてくれた・・・?あの人間嫌いの奈緒が、君を助けた?」
来客が、不思議そうに小首を傾げる。
「人間嫌い・・・?」
そんな風には見えなかった。
「そうさ。あの子はね、小さい頃から人間の汚いところばかり見て育ったのさ。そして・・・恋人までも殺したんだ」
「っ!?」
凪砂は、眼を見開く。
―――――――奈緒が、人を殺した?しかも、恋人だった人を?
「その辺の経緯、知りたくない?」
悪魔の言葉と笑みが、凪砂を喰らい尽くさんかのように降って来る。
「・・・・・っ、」
「私と来れば、奈緒の話をもっとたくさんしてあげるよ。・・・私は、あの子の光も闇も知っているから」
「僕は、」
「・・・・私はね、奈緒を救いたいんだよ。闇ばかり見ているあの子を、助けてやりたいのさ」
悪魔が、少年の耳元で甘言を囁く。
「陽に瓜二つな君にも、ぜひその手伝いをして欲しいんだよ」
「僕が、あの人を助ける手伝いを・・・・・・?」
「本当は誰よりも弱虫で泣き虫なあの子を、死んだ陽の代わりに、私たちが救ってあげるんだよ」
奈緒に惹かれ始めている君には、願ってもいない役どころだろう?
来客の文言が、凪砂の脳と心にじわじわと浸透して行く。
・・・・つい数時間前に初めて出会った人。
見ず知らずの僕を助けてくれて、手当てまでしてくれた人。
僕を、久しぶりに気遣ってくれた、優しい人。
その人は、僕と瓜二つの顔だった恋人を殺してしまったと言う。
彼女は、闇ばかり見ていて。
亡くなった恋人と瓜二つの顔している僕なら、彼女を助けられるかも知れない。
闇ではなく、光の中を生きて行けるように。
―――――――今度は、僕があの人を助けるべきなのではないだろうか。
「深入りはするな。いくら助けて貰ったと言え、そこまでする義理は無い筈だ。まだ間に合う。首を横に振るんだ」
自分の中の用心深い部分が、頻りにそう叫ぶ。
止めろ、妙なことを考えるな。
あの女を救ったところで、お前の得るものなど何もないだろう。
(そうかも知れない。・・・・・でも、僕は)
蓮本奈緒――――――どんな形であれ、彼女と繋がりを持っていたいんだ。
今日一日で、終わらせたくないんだ・・・。
だから、僕は。
「もう一度訊くよ。・・・・・私と、来る気はない?」
その問いに少年は―――――――意志のこもった強い瞳で質問の主を見上げ、力強く頷いて見せた。
来客が悪魔の笑みを浮かべ、言う。
「交渉成立、だな」
来客の名前は、芦原遊子と言った――――――――――・・・・・・・。