11、再会への第一段階
奈緒と少年のお話
幸いなことに、ぼろぼろになった少年を背負って帰ったアパートでは誰とも出会さなかった。さすがに町の往来では怪訝な眼差しを何度も向けられたが、ただの姉弟だと思ってくれることを願うしかない。
「よいしょっと」
少年を、そうっとベッドに寝かせてやる。
「………」
そのまま寝顔に釘付けになってしまいそうな視線を引き剥がし、奈緒は洗面所へ向かう。まだ未使用のタオルを引っ張り出し、水で濡らしてまたベッドへ戻る。
「ちょっと沁みると思うよ」
一応声を掛けながら、乾いてこびりついた口元の血を拭う。無惨に唇の端が切れて真っ赤になっている。両方の瞼も腫れているし、頬や額に大小様々な擦過傷が出来ていた。肋などの骨に異常はないだろうか、とふと思う。
(思うけど……)
怪我の様子見のためとは言え、初対面且つ意識のない年下(…の筈だ)の異性を裸にするのはどうかと躊躇う。シャツの前を開けるだけとはいえ、本人の了承は得るべきだろう。なので、先に眼に見える部分の消毒をすることに決めた。かく言う奈緒自身も、先程の喧嘩で何ヵ所か擦りむくなどしているし、序でに処理してしまうつもりだったのだ。
「ん、」
「!」
しかし、そんな計画も、ベッドの上の少年が小さく呻きながら眼を微かに開いたことで一気に吹き飛んでしまった。
「………僕、は」
まだ声変わりも済んでいないような、細くて高めの声だった。
「起きた?」
「あ……」
奈緒が顔を覗き込むと、少年が慌てて体を起こそうとした。
「あぅっ……!」
少年が小さく悲鳴を上げ、体を硬直させる。
「肋、やられてるんじゃないの?」
陽に瓜二つの顔が苦痛に歪むのを看過できず、奈緒は少年に問い掛ける。
少年が、うっすらと涙を溜めた瞳で奈緒を見る。
「だいたいなら分かるから。見せて御覧」
「で、でも……」
「折れてなくても、痛いならちゃんと湿布貼ったりしないといけないんだから」
少年は、初対面の異性に裸の胸を見せることに対し明らかに怯んでいる(当然の反応だろうけれど)。
「ほら」
「だけど……」
奈緒はだんだんと焦れて苛ついて来た。基本的に気は短いのだ。
「なら警察と救急を呼んであげようか?君がどんな目に遭ってたか警察に言おうか?」
警察という言葉に、少年が激しく狼狽した。顔色が一気に白くなる。
「け、いさつは……嫌だ、」
「何よ、警察に嫌な思い出でもあるわけ?」
止せば良いのに、奈緒は更に少年を追い詰める。少年がベッドの上で、ガタガタと体を震わせる。眼が完全に泳いでいる。
(でも、警察に厄介になるようには見えないんだけど……)
何か、わけありらしい。
「……警察が嫌ならさっさとする。何もしない、ちょっと骨のあたりに触るだけだから」
「………っ」
息を呑み、少年はようやくシャツのボタンに手を伸ばす。のろのろと外すのを、奈緒はどうにか耐えながら見守る。
「お、お願い…します」
羞恥のためか何なのか、少年が顔を真っ赤にしながらそんなことを言う。
「ゆっくり息をしてみて」
「は、はいっ」
「……じゃあ、触っていくからね。あたしの手は冷たいけど、我慢しなよ」
こくこくと、少年が何度か頷く。
「……君、いつもあんな感じにされてるの?」
少年の肌に触れながら、奈緒は訊いてみる。
「……いつも、という訳ではないんです、けど……っ」
「痛い?」
少年が頷く。
「でも、骨はやられてないね。湿布を貼って安静にしてな。……病院も避けたいんでしょ?」
図星らしく、少年が項垂れる。
「ん。良いよ」
「は、はい……」
少年が慌てた手付きで、ボタンを閉じる。
(予想してたけど、かなり痩せてるわね。お腹だってぺちゃんこ…。真っ白で、日焼けなんて知らないのね……)
「あ、あの……あなたは、」
ボタンを止め終えた少年が、上目遣いに奈緒を見上げて来る。その仕草も、陽にそっくりで……。
「あたしは蓮本奈緒。高二。君は?」
今度は頬や額の擦過傷を消毒してやるべく、救急箱を取り出す。
「僕は……っう、」
「あ、まだ喋るの辛いね。無理に喋らなくて良いから」
「す、すみません……」
「あんなにやられてたんだから……。仕方ないよ」
消毒液をガーゼに染み込ませて、少年の怪我にあてていく。
「……どうして」
「ん?」
「たす、助けてくれただけでありがたいのに……どうしてここまでしてくれるんですか?」
少年が、迷子になってしまった幼子のような瞳で奈緒を見上げる。
(そんなの決まってる……君が陽くんに瓜二つだから)
不安そうな瞳ですら、初めて出会った時の陽を彷彿とさせる。
「……一応、ぼろぼろになってる人を放置して立ち去る程、冷血漢ではないつもりなんだけどね」
苦笑しながら言うと、少年が顔を赤くして謝罪の言葉を口にする。
「ご、ごめんなさい。僕、そんなつもりじゃ…」
「気にしてないから、じっとしてな」
「は…はい、」
奈緒は、てきぱきと少年の怪我の処置を進めて行く。昔は、病弱だった陽を寝ずに看病したこともあった。
(本当に…どうしてこんなに陽くんに瓜二つなんだろう。……楓以外に、陽くんに兄弟がいるなんて聞いたことないし。やっぱり、何の関係もないのか…)
最後は、頬骨の近くに出来た切り傷に絆創膏を貼り付けた。
「はい、終わり」
「あ、ありがとうございます」
「別に良いよ。さて……何か飲む?喉、渇いたでしょ?」
「い、いえ…そんな…。助けてもらって、傷の手当てまでして貰ったのに……」
奈緒は少年の言葉の途中で立ち上がり、さっさと台所へ向かう。
「どうせあたしも飲むし。ついでだから」
「は、はあ…」
少年は眼を白黒させながら、奈緒の背中を眺める。
「うちバリエーション少ないから、冷茶か水か、スポーツドリンクくらいしかないけど。何にする?」
「あ……えっと、じゃあ…冷たいお茶で…」
「はいよ」
百円均一で購入したグラスに冷たいお茶を注ぎ、自分用には日常用のマグカップにスポーツドリンクを注いで少年の元へ行く。
「はい」
「あ・・・ありがとうございます」
少し嬉しそうに微笑み、奈緒からグラスを受け取って美味しそうに喉に流す。
「美味しい?」
「は、はい。相当喉が渇いてたみたいです」
へへ、とはにかんだ笑みを見せる。徐々に、奈緒に対して打ち解けて来たのかも知れない。
「……それ飲んだら、早く帰った方が良いね。あんまり遅いと、危ないし。家族も心配するでしょ」
「………」
少年からの返答はない。奈緒は、無意識に伏せていた瞳を上げ、
「……暗い顔」
少年の表情の暗さに気付く。
「…本当に君って、外見からは想像出来ないくらいに訳アリみたいだね」
もしかしたら、とんでもないものを拾ったのかも知れない。だから、他人に関わるのは嫌いなのだ。蓮本奈緒という自分を惑わせ、生活のサイクルを狂わせる危険が高いから。
……自分から他人に近付くなんて、今までの自分からは考えられなかった。
(確かに顔が陽くんに瓜二つだけど……助けた時は顔までは分からなかった訳だし……)
「……訳アリ…、ですか」
「話聞く感じ…ね。良いとこのお坊っちゃん風情なのに、警察は嫌がったりとか…」
「警察が好きな人なんて居ないと思います…」
小さな声で、少年が抗議する。奈緒は確かに、と苦笑する。
「まぁ、他人の内情にずかずかと無遠慮に踏み込む程、厚かましくないから、これ以上は聞かないけどね」
少年から空になったグラスを受け取り、流しに運ぶ。
「君の家って、この辺り?また絡まれたら大変だし、何だったら送るよ」
「い、いえ…そこまでして貰うわけには…。それに、いつも絡まれてる訳じゃないし……」
「それもそっか」
簡単にグラスとマグカップを洗い、奈緒はふと考えた。そして食器棚の引き出しから果物ナイフを取り出す。
(護身用に、と言えば受け取るだろうか……)
だが、彼とナイフという組み合わせが全くそぐわない気がした。
(まぁ、大丈夫か……)
結局ナイフを元の場所に戻した。
「あ…あの、僕そろそろ失礼…します」
「ん、そうだね。じゃあ、そこまで送るよ」
「で、でも」
「ここ、少し奥に入り込んでるから分かりにくいよ。大きな通りまで送るから」
少年の大きな瞳が戸惑いがちに奈緒を見ているが、やがて躊躇いがちに微笑み「じゃあ、お願いします」と言った。
「僕、沖永凪砂と言います」
アパートの階段を降りきった所で、不意に少年が名乗った。
「え?」
「自己紹介がまだ、だったから……そ、その、蓮本さんのお名前は知ってるのに、僕の名前をお伝えしないのは…失礼、かと思って……」
薄暗がりの中でも、少年が顔を真っ赤にしているのが何となく分かる。名乗った訳を言うだけで、そんなに緊張しなくて良いのにと奈緒は思った。
「そう。どういう字を書くの?」
「さんずいの沖に、永遠の永、海が凪ぐの凪に、砂です」
「凪砂くんか…。珍しい表記なのね」
「……僕のお母さんが、海が好きな人だったらしくつ………凪も砂も、そこから連想したんだそうです」
凪砂の言い方が気になった。
(だったらしい……?)
奈緒の怪訝に思う気持ちに気付いたのか、少年は奈緒が疑問を口にする前に自分から種明かしをする。
「お母さん、僕を産んで十日後に亡くなったそうです。……もともと体が弱い人だったらしいんですが、風邪を拗らせて、肺炎になったって……」
少年が鼻を啜る音がした。「…もしかして、お母さんが亡くなったのは自分のせいだと思ってる?」
一瞬の間が二人の間に生まれ―――やおら、凪砂が頷く。
「はい。……父さんにも、そう言われますから…」
「!!」
「…最近の僕は、だんだん母さんに似てくるって。男のくせに……」
少年は息を詰まらせ、苦し気に喘ぎながら―――
「“気持ち悪い”って僕を………」
「もう良い」
「っ」
「街の往来でするような話じゃないし……わざわざ自分で自分の傷を抉る必要はない」
奈緒は、そっと少年の背中を撫でてやる。
「ごめん。あたしが深入りし過ぎたね……初対面にも関わらず…」
「いえ……。あ、あの、蓮本さん」
「ん?」
「あの……蓮本さんと僕って、前にお会いしたことありますか…?」
「……!」
突然何を言い出すのか。
(余計な気を持たせるようなことを言うなよ……)
「……どうして?」
「…きっと気のせいだとは思うんですが、その……蓮本さんとお話しをしてると、懐かしいような感じがするから…。もしかして、前に会ったことがあるんじゃないかって……」
「そう、懐かしい感じ、ね」
何と応えようか。
愛したけれど、今はもうこの世にはいない人に瓜二つではあるけれど、君自身と会ったことはない―――と言えばよいのだろうか。まさか。言える訳がない。
「…気のせいでしょ。あたしは君に会った覚えはないから」
「ですよね」
少年が気弱そうに微笑む。寂しそうに見えるのは、何故なのだろう。
それから二人は無言で歩いき、二分ほどすると、人通りの少なかった裏通りを抜け、デパートやコンビニなどの集客施設、様々なビルの並ぶ通りに出た。
「あ、ここに出るんですね」
百円均一の入っているビルを見上げ、凪砂が呟くように言った。
「知ってるの?」
「はい。僕の家、この近くなんです」
「へぇ……」
「……じゃあ、僕はここで…。蓮本さん、本当に何から何まで、ありがとうございました……」
少年の気恥ずかしそうな表情に、奈緒の胸がズキッと痛む。奈緒が少年の手当てをしてここまで送ったのは、善意からばかりではない。少年が、陽に瓜二つだったから。もしかしたら陽と何らかの関わりがあるのではないか――――そういう疑いを持ったから。
だから、傷の手当てという名目で少年を自宅へ招いた。
少しでも長く一緒に居て、陽がそばに居る感覚を味わいたかった。
「・・・蓮本さん?」
奈緒の動揺に気付いたのか、凪砂が心配そうな眼差しで見つめて来る。
「どうかしたんですか?」
「・・・・いや、なんでもない。それじゃ、気をつけて帰るんだよ」
「はい。蓮本さんも」
もう一度ぺこりと頭を下げて、少年が雑踏へと消えて行く。
(・・・本当にそっくりだった。でも、陽くんと関係がある世界には居そうにないし、もう二度と会うこともないだろうな・・・)
少年の細い背中を見送りながら、奈緒はそんなことを思っていた。
だが、奈緒は予想だにしていなかった。
自分がまた沖永凪砂という少年に会うこと、そして彼と深い関わりを持つことになるなど。