10、出会い
(九連が、あたしの名前を呼んだ。無意識とは言え、下の名前を……)
日向に他意がなかったことは、理解しているつもりだ。…つもりだが、
(……嬉しいと思ってしまうあたしがいる、)
奈緒は早足で家路を辿りながら、思わず両手で顔を覆う。
(……こんなことで体が熱くなったり、弟相手に嫉妬したり…。何か、あたしがあたしじゃないみたいだ)
自分がまた人を好きになるなど、予想もしていなかった。人を好きになる資格などないと分かっているはずなのに。
(陽君を殺した、あたしには……)
今思えば、不思議だ。
何故、陽は自分のことなど好きになってくれたのかが。愛して、くれたのか。
(あたしなんて、天の邪鬼で適当で、被害妄想激しくて……)
自分ですら、自分が大嫌いなのに。陽は自分なんかのどこに惹かれてくれたのだろうか。
「はぁ、駄目だわ…悪循環……」
ぽつりと溜め息とともに吐き出して、奈緒は物思いを止めることにした。早く帰ってシャワーを浴びて、さっさと寝よう。
そう決めた奈緒の耳に、誰かの喚き声が届いた……気がした。
「?」
何だろう、喧嘩か?
そう怪訝に思いながら首を巡らせた視界の先に、反吐の出るような光景があった。
(あいつら、あんな大勢で……!)
奈緒は思わず走り出した。
「こら、あんたら!何一人を寄って集って苛めてんのよっ」
奈緒が向かったのは、通りから横道にそれた薄暗い高架下だった。
そこで、私服姿の少年三人が踞る制服姿の少年に蹴りを入れたり体を殴りつけたりと暴力行為を働いていたのだ。同学年らしいが、制服姿の少年は三人に比べて明らかにか細かった。今も意識が朦朧としているのか、奈緒の怒声にすら反応しない。
「なんだよ、お前」
私服姿の一人が奈緒に鋭い一瞥をくれ、歯を剥き出しにして言葉を発する。明らかに未成年だが、頬が赤く染まり吐く息が酒臭い。奈緒は思い切り眉と顔を顰める。
「酒臭っ。汚い息で近付かないでよね」
「んだと、このアマ!」
他の二人も、険しい顔で奈緒を睨み付ける。
「ていうかさ、なに寄って集ってこんな細い子を苛めてんの?卑怯だと思わないわけ?」
「てめえには関係ないだろうが!」
「まぁ、そうだけど…」
ほんの一瞬だけ、踞る少年の呼吸音に耳を澄ませる。ひゅうひゅうと、か細いものの確かに息をしている。だが、早くちゃんと手当てをしなければ取り返しのつかないことになるかも、と気を引き締める。
「……言い訳はある?」
「あ!?」
「あぁ、そうか…。あたしには関係ないもんね。なら、あたしがこの子を助けようが助けまいが、それもあたしの勝手ってことよね」
「おい!何ブツブツ言ってやがる!!」
酒臭い少年……体を鍛えているのか、なかなかに引き締まった体をしているし身長も奈緒より高い。しかし、それくらいでビビる……
(蓮本奈緒じゃないのよっ!!)
喧嘩なんか久しぶりだが、きっと体が覚えていて勝手に動いてくれる筈だ。相手は三人だが何とかなるだろう。万が一の場合は、自慢の足で逃げるしかない。
「おいでよ。お姉さんが、お仕置きしてあげる」
自分らしくないな、と思いながら、少年たちの我慢の限界を迎えさせる挑発の言葉を投げ付ける。
「このくそアマッ!」
思った通り、少年たちはあっさり奈緒の思惑に引っ掛かかってくれた。浅慮な奴は何処まで行っても浅慮。
猛然と襲いかかってくる少年たちを、奈緒は酷く覚めた目で見ていた。
……執念深い暴力の嵐が急に止んで、沖永凪砂は朦朧とした意識のまま、ただどうしたんだろうとぼんやりと思っていた。耳鳴りが酷く、周囲の音もあまり聞こえない。でも、今まで散々に凪砂を悪し様に言っていた同級生以外の声が聞こえる。しかも、女性の。
(……だ、れ………?)
どうにかして顔を上げたくても、体が全く言うことを聞いてくれない。体に力が入らない。
同級生の怒声。
(危ない……)
声が出ない。
(僕のことなんて良いから、逃げて……)
耳鳴りが徐々に治まって来る。ドカッ、という物々しい音に、脳が痺れる感覚がする。同級生の怒声がまた聞こえた。
(………っ、)
自分のそばに、誰かが立つ。見下ろされている気配がする。
「……ねぇ、君」
(?)
同級生の声ではない。
明らかに女性の声。少し嗄れた、独特な声だったけれど。
「生きてたら、手ぇ上げてみて」
何処か投げ遣りな口調に、何故か懐かしさを感じた。
凪砂は、奇妙な感覚に囚われつつ、どうにか手ではなく顔を上げることに成功した。
「え?」
上げた先、殴られ過ぎて腫れぼったい目をどうにか開いてみる。
視界の先、凪砂の顔を呆然と見つめているのはやはり女性で、何処かの学校の制服を着ている。
「君……は、」
「……………」
女性が何に驚いているのか分からず、凪砂は困惑する。だけど、窮地から救ってくれた人に無言は失礼だと今さら気付いて、凪砂はどうにか口を開く。口内が切れているから、鉄臭いだろうなと思いながら。
「助けて、くれて……ありが……」
しかし、そこまでで限界だった。既に度重なる暴行のせいで体も意識もギリギリの際だったから。
凪砂は、お礼の言葉の途中で意識を失った。
助けた少年の顔に、奈緒は衝撃を隠せない。
「どう、して………」
少年三人を撃退出来た高揚感は既になく、奈緒は倒れ込んできた被害者の少年の細い体を支えながら……呆然と呟く。
(どうして、陽くんと瓜二つなの………?)
少年の顔は、数年前に確かに命を落とした奈緒最愛の……陽に本当に瓜二つだったのだ。