満月の夜 その7
項羽軍の進撃が止まらない。
これまでの鬱憤を晴らすかのような快進撃をみせた。
劉邦軍の防御陣を蹴散らし、押し潰して行く。
蒼褪めながらも踏み留まっていた劉邦が身を翻した。
何時ものことだが切り替えが早い。
部下達を見捨て、僅かな供回りだけを従えて後方へ逃げて行く。
間近にまで迫っていた項羽だが、一太刀も浴びせる事が出来なかった。
敵兵の掃討は部下達に任せ、闇に溶けて行く劉邦の背中を見送った。
虞姫が隣に並んだ。
「本当に見事な逃げ足ね」
「追わぬのか」
「奴はいつも伏兵を置くから、無駄足になるのが目に見えるわ」
「そうだな。奴は逃げるのだけは俺の上を行く」
「感心している場合」
「まあ、そうだな」
それでも項羽軍の中には諦めない者達もいた。
幾つかの組が残された劉邦軍を切り裂き、追撃を開始した。
「止めなくていいの」
「もしかすると、劉邦に追い付く可能性もある。
それに部下達のやる気を削ぐのも、どうかと思うしな」
ようやく劉邦軍の大方も大将の逃走に気付いたが、
そういう事態に慣れているようで混乱はない。
小さな組単位、隊単位で退却を開始した。
連携がとれていないのを項羽軍は見逃さない。
すぐに付け込み各所で殲滅した。
まるで図体だけでかい猫を弄ぶ鼠。
それは左翼でも右翼でも同じこと。
月夜の夜討ちで、無勢の項羽軍が多勢の反項羽連合軍を圧倒した。
本陣との連携が断たれ連合軍は同士討ちを恐れ、
苦渋の退却を開始した。
虞姫が安堵したような声を出した。
「これで様子見していた者達も、こちらの味方に戻るわね」
確かにその通り。
反項羽連合軍に名を連ねながら、この戦場に遅参している軍勢もあった。
彼等は、「項羽の勢い衰えず」と読み、わざと遅参した。
あるいは遠巻きしている軍勢もいた。
この夜討ちで劉邦軍が敗走したと知れば、状況が一変するだろう。
感慨に耽っていると、後方がざわつき始めた。
振り返ると、部下達が後方の味方陣地の方を見ていた。
なんと、数多くの篝火の中に一つだけ、一際大きく目立つ炎が。
燃え盛っていた。
火災だ。
幾つもの松明が揺れ動き、慌ただしい様子が手に取るように分かった。
考えられる事はただ一つ。
敵の夜討ちだ。
偶然とはいえ敵も同時に夜討ちを敢行していた。
あの辺りは糧食の集積地になっていた。
項羽軍が反項羽連合軍の混乱を狙うと同時に、
「あわよくば劉邦の首」と一石二鳥を狙ったのに対し、
敵は集積地を狙って来た。
予想せぬ事態に項羽は言葉を失った。
この地に陣を構えるに際して項羽は充分に手配りをした。
劉邦軍の包囲攻撃に備え、地形を利用した方円の陣で、
要所には手堅く柵を組ませた。
闇夜の侵入には備えた。
偽の糧食集積陣地も設けた。
留守中の指揮を任せているのは将軍・季布。
同郷で義理堅く、直言する事も躊躇わない気骨のある男だ。
人物も信頼できるが、用兵も巧み。
そういう季布将軍の目を逃れての夜討ちとは解せない。
これは彼の落ち度というよりは、信じたくはないが、
内部に手引きした者が未だいる、ということだろう。
利に転ぶ者は全てが劉邦軍に身を投じた、と思っていたのに、
なのにこの有様。
項羽は怒りで血が沸騰するのが分かった。
今にも、こめかみがぶち切れそう。
小刻みに震える身体に虞姫が、そっと手を添えてきた。
「大丈夫よ、貴方さえ生きていれば何とかなるわ」
軍師・范僧はすでに亡い。
諸侯が劉邦側の謀略によって離反した事を知った軍議の席で、
まるで重荷を背負わされたかのように崩れた。
それまでは老軍師一人で、
劉邦側の三人の軍師相手に対等に渡り合っていた。
しかし敵の、「離間の計」に老軀は耐えきれなかった。
それを切っ掛けに寝込むようになった。
項羽は寝込んだ范僧を、「無理せずに休むといい」と見舞った。
その老人は一月も持たずに息を引き取った。
軍師を必要としない項羽であったが、それまでの経緯から、
范僧を話し相手として傍に置いた。
そういう項羽に虞姫を引き合わせたのは范僧であった。
「遠縁の娘で、方術家の生まれですが、武芸も得意とします」
だから身内の老人のように大事にした。
今は虞姫が范僧の代わりをしていた。
かつての老軍師のように気が回る。
虞姫の触れる手が、言葉が、彼の心に安心感を与えた。
蹄の音が轟いた。
軍馬に違いない。
音の軽さから、どうやら空馬らしい。
月夜にも関わらず、十数頭の空馬がこちらに駆けて来た。
先頭には一際大きな馬、騅がいた。
項羽の愛馬だ。
おそらく季布将軍が騅を信じ、項羽の足にすべく解き放ったのであろう。
騅は真っ黒い青鹿毛の馬で、如何にも鼻っ柱の強そうな顔をしていた。
項羽に似ていた。
その目が項羽を捉えると、嬉しそうに擦寄って来た。
騅と虞姫がいれば何もいらない、そう思いながら飛び乗った。
虞姫も別の馬に飛び乗った。
「これからどうするの」
「無闇に逃げれば伏兵に遭う。
とりあえずは本陣に戻ろう」
「糧食が焼かれたのよ」
「季布のことだ、全部は焼かれてないだろう」