満月の夜 その5
項羽の隣に並ぶ虞姫が不満げに鼻を鳴らした。
「ふん、英布が尻尾を巻いて逃げるとは驚きね」
「そう言うな、あれでも俺に悪いと思っているのだろう」
英布は追い縋る項羽軍の将兵を振り切り、遠ざかって行く。
逃げる彼の大きな背中が縮んで見えた。
一本気な性格の奴だけに、
一時の気の迷いから項羽を裏切った自分が許せないのだろう。
側近の宋文が駆け寄って来た。
「先に侵入していた部隊からの知らせです。
劉邦の本営を捕捉したそうです」
「劉邦は残っているのか」
「そこまでは判明していません」
「そちらに向かおう。誰か案内できるか」
「知らせに戻った者を道案内に待たせています」
「分かった。俺が正面から乗り込もう。
お前は配下を引き連れて逃げ道を塞げ」
「逃げ道・・・」
劉邦のことだから項羽の姿を見れば一目散に逃げるだろう。
しかし、どの道を選んで逃げるかは本人以外には分からない。
宋文にとっては無茶な要求だが、文句は言わない。
戦場においては理性に従う事も必要だが、
時として勘に走らねばならない時もある。
今がその時。
「承知しました」と右に向かった。
項羽の声が辺りに轟いた。
「欲しいのは劉邦の首一つ、他には目もくれるな」
英布の陣地を占領した将兵が雄叫びで応えた。
まるで獣の集団。
楚兵らしいと言えば、らしい。
案内の兵の先導で、劉邦の本営に向かって最短距離を駆けた。
途中にある敵陣を次々に断ち割り、無人の野を行くかのように進撃した。
ほどなくして劉邦の本営を見つけた。
先に侵入していた部隊の一部が紛れ込んでいたので、
敵本営は混乱の極みにあった。
項羽は部隊を率いて攻め込み、中央突破で敵陣を分断した。
そして部隊を反転させ、左右に分かれた敵陣を見比べた。
右の方が立ち直りが早い。
手堅く隊列を組み直し、前面に盾を並べ始めた。
指揮系統が残っているのだろう。
となれば、劉邦本人がいると判断して良いだろう。
項羽自ら先頭に立ち、剣を振りかざして配下を叱咤激励した。
「劉邦は目の前だ。進め」
やはり劉邦が残っていた。
右中段で必死になって味方を鼓舞していた。
馬面で福耳、顔の下半分が白髪混じりの髭に覆われていた。
いつもは温厚そうだが、この時ばかりは眦を決していた。
項羽が劉邦と初めて顔を合せたのは、
叔父の項梁が反秦連合軍を率いていた時。
秦軍に追われるようにして、
項梁の反秦連合軍に加わったのが劉邦軍であった。
兵力は千足らずでも勇猛果敢な将兵が揃っていた。
なかでも燓噲・盧綰・周勃、
三人の腕っ節には楚兵も一目置くほどあった。
何をするにしても、とにかく荒っぽいのだ。
連合軍の別部隊の将兵とはよく揉めていた。
そんな彼等の尻ぬぐいで頭を下げていたのが、指揮官の劉邦であった。
それほど武張っておらず、人当たりが良くて気安い人柄は、
みんなに好かれていた。
それでその当時は、「父親みたいな奴」と劉邦の事は気にもとめなかった。
そんな劉邦を目指して項羽が突き進んで行くと、向こうも気付いたらしい。
身体をこちらに向けてきた。
視線が絡み合った。
月明かりでも、劉邦の顔が青褪めるのが手に取るように分かった。
項羽は剣先を劉邦の方へ向けて吼えた。
「劉邦、待っておれ」
項羽軍が勢いづいたのとは対照的に劉邦軍が静まった。
項羽自ら兵を率いての夜討ちと知ったのだ。