満月の夜 その4
『それ』の無駄話が続いた。
いつもに比べて饒舌だ。
何だか満月に思い入れがあるらしい。
そこで毬子は直球勝負。
「好きな人と満月を見上げていた事でもあるみたいね」
途端に『それ』の気配が変わった。
どぎまぎ感が伝わってきた。
毬子は攻め手を緩めない。
「さあ、どうなの」
『それ』が一呼吸置いて答えた。
「毬子が恋をするような年頃になったら話そう」
「もうお年頃よ」
すると『それ』が、
「周りにいるのはジャリみたいなお子さんばかりじゃないか。
本物の男が一人もいない。全くいない」と強調した。
毬子は毎年、何人かに告白されてはいた。
しかし、
「今のところボーイフレンドに興味はないの」それらを悉く断ってきた。
気安く話せる男友達が大勢おり、
特定のボーイフレンドが特に欲しいとは思わなかった。
「居候しているわりには私の気持が分からないのね」
「読もうと思えば読める。
が、それには危険性が伴う」
「どういう・・・」
「読むという事は毬子の領域に入るという事だ。
この身体は毬子のものだから、
深入りした途端に毬子に吸収されるのじゃないかと心配なんだ」
「少しは試したの」
「いや、そんな気がするんだ」
「すると勘で物を言ってるのね」
「直感は大事だ」
毬子のうちに意地悪な心が頭を擡げた。
「私に吸収されるのは嫌なの」
「そうは言ってない」
「言ってるのと同じ」
『それ』の気配が変わった。
「逆に、俺が毬子を乗っ取るかもしれない」
毬子は一瞬、ギクッとした。
「それは嫌。この身体は私の物よ」
『それ』が愉快そうに笑う。
月明かりの下、
連打される太鼓に応えるように項羽軍が鬨の声を上げ、
反項羽連合軍へ向かって進撃を開始した。
敵陣の随所で焚かれている篝火を道標に、
まるで飛んで火に入る夏の虫であるかのように突き進んだ。
項羽軍の動きに反項羽連合軍の夜営地がざわめいた。
各陣所で怒鳴り声が飛び交い、右往左往した。
項羽軍十万のうち、夜討ちに出撃したのは三万余。
月明かりがあるとはいえ同士討ちする危険性がある。
なので少数精鋭とした。
夜討ちをかけるのは、一帯の地形に精通しているからに他ならない。
機会が必ず訪れると思い、この地に陣を構えて敵を呼び込んだのだ。
不満なのは夜なので騎馬が使えない事だけ。
月明かりを浴びているとはいえ、木陰は闇になっていた。
項羽の目がその闇に順応し始めた。
従う楚兵達も同じであろう。
凹凸に足を取られる事もなく、軽やかに前進を続けた。
この戦いは項羽軍対反項羽連合軍というだけではなかった。
様子見している諸侯の軍勢も多数いた。
彼等は戦場を遠巻きにして、勝ち馬に乗ろうとしていた。
この夜討ちで敵勢を打ち破れば、そんな彼等が味方に加わる筈だ。
なかには反項羽連合軍から寝返る者も出るかもしれない。
もっとも、劉邦も含めてだが、
かつては項羽の麾下にいた者ばかりなのだが。
敵最前線が見えてきた。
篝火に軍旗が浮き上がっていた。
項羽の一番の配下であった英布の軍ではないか。
英布は揚州の人で、
罪を犯して刺青を入れられた事から、「鯨布」とも呼ばれた人物。
秦末期に盗賊同然の活動で秦軍を悩ませながら、
じわりじわりと活動領域を広げ、名を売り出した。
それを叔父、項梁が見出し、男気に惚れて反秦の自軍に誘い、
当陽君の称号までも与えた。
項梁の死後は、項梁の縁から項羽の配下となり、
反秦戦争で陰日向のない働きをした。
とにかく戦に強かった。
自ら先頭に立って力攻めをした。
項羽は秦が滅亡するや、それまでの彼の功績に報いる為に九江王とし、
広大な土地を与えた。
なのに今、敵の謀略で離反し、反項羽の一角を担う存在となった。
英布軍がこちらの接近に気付いた。
迎撃の矢を放ってきた。
それでも混乱は隠せない。
矢は無闇矢鱈な方向に飛んでゆく。
項羽の合図で軍勢が一斉に駆け出した。
項羽を先頭に、三万が一塊になって続いた。
項羽方は政治的には劣勢だが、項羽自ら率いる軍は負け知らず。
それを知っているので従う将兵に迷いはない。
ドッと敵陣に襲いかかった。
馬止めの柵を打ち倒し、盾を蹴り倒した。
呼応して、先に侵入していた部隊が各所に火を放って敵陣を掻き乱した。
加えて、反項羽連合軍五十万というが、左右に広く展開しているので、
一直線に突き進めば、思いの外、遭遇する部隊は少ない。
敵陣を断ち割り、項羽が叫んだ。
「項羽である、英布はおらぬか」
英布軍で項羽の顔を知らぬ者はいない。
「あっ、大王様だ」「西楚の覇王様だ」と声が上がった。
大将首を取ろうとする気持よりも、恐れ、怯えが先走った。
一人が後退りすると、それが全体に波及した。
敵勢が四散するのに時間はかからなかった。
残ったのは英布と僅かな手回りの者だけ。
項羽が一睨みすると英布は苦しそうな顔をした。
離反した事を恥じていた。
項羽は、「来るか」と剣を振りかざして挑発した。
しかし、英布は応じない。
深く頭を下げると踵を返して背中を見せた。