辻斬り その3
家の玄関を入ると百合子は当然のように、
祖母、紀子と通いのお手伝いさん、重子を探して挨拶した。
「こんにちは、今晩お世話になります」
百合子はただ単に綺麗な娘というだけではなく、
挨拶も、受け答えも明朗であった。
そういう娘なので初日から二人に可愛がられた。
帰り際、「いつでも泊まりにいらっしゃい」と紀子に言われ、
その言葉に従うかのように度々泊まりに来た。
今では着替えも置いてあった。
百合子は毬子の部屋に入るなり畳の上に寝転んだ。
「落ち着くわぁ」と大の字になった。
百合子は毬子の前だと無防備になる。
「その姿をスマホの待ち受けにしようかな」
「毬子のスマホだけなら良いわよ」
真上から百合子を見下ろし、「みんなに回すの」と笑えば、
百合子は慌てて飛び起き、「止めてよ」と。
毬子の部屋は十二畳の広さで、半分は畳、残り半分には板敷き。
板敷きの右に勉強机と椅子、左にはクローゼット。
真ん中のテーブルは祖父好みの重厚な物。
写真立てが妙に人目を惹いた。
やけに大きな家族写真。
幸せそうに椅子に腰掛けている婦人が母親の鈴。
母親の右に立ってカメラを凝視しているのが長男の浩一。
母親に甘えるように左に立っているのが次男の浩二。
三人を後ろから守るように立っているのが父親の時之。
この時、母親は妊娠八ヶ月。
膨らんだお腹には毬子がいた。
この写真は毬子にとっては只一枚の家族集合写真。
毬子は商社マンの父が中国に駐在中、上海の病院で生まれた。
あの運命の日、一家は生まれて間もない毬子を車に乗せ、
社宅へ戻ろうとしてした。
その途中、信号で停止したところを後方から追突されてしまった。
激しい衝撃で車は大破、遅れて火災が発生。
乗っていた乗用車とトラックが炎に包まれた。
奇跡的に生き残ったのは鈴と毬子の二人。
背中を炎に包まれた鈴が、毬子を抱きかかえて車から脱出した。
後方に離れて止まっていた車に毬子を預けた。
そのまま残れば良かったものを、鈴は残らなかった。
制止する人を振り切って、
家族を助けようと炎に包まれた車に駆け戻った。
誰かの名前を叫びながら炎の中に飛び込んだ。
そして帰らぬ人になった。
飛び起きた百合子は写真立てに軽く目礼をし、クローゼットを開けた。
「何を着る」と毬子に尋ねた。
「着れる物なら何でも」いつもの返事。
「聞いた私が馬鹿だった」
毬子は衣服には無頓着なので、そんなに種類は多くない。
目を惹くのはトレパン、トレシャツの類だ。
色とりどりのサッカーやバスケットのレプリカジャージが中心になっていた。
クラブ活動はしないのだが、
「動き易い」ということで毬子はそれで過ごす事が多かった。
それでも百合子が着替えを置くようになってから、
クローゼットは少しずつバラエティーに富むようになってきた。
百合子がポンポンと投げ渡したのはバスケットのレプリカジャージ。
驚いて毬子は問う。
「どうしたの」
「たまには悪くないかなと思って」
二人してレブリカジャージを着た。
別チームのものだが悪くはない。
百合子は毬子より少し低いが、
着こなしでジャージの丈の問題をクリアした。
二人して向かったのは巣鴨の地蔵通り。
「お婆ちゃんの原宿」と呼ばれるだけの事はあり、実際に高齢者が多い。
地元の毬子にはありふれた光景だが、
余所者の百合子にとっては、いつ来ても新鮮に映った。
店頭に陳列された物を念入りに見て回る。
「これが昭和の物なのね」
「歩いている人達も、たいていが昭和の人達よ」
項羽は明るい日差しの中にいた。
前夜と同じ岩の上だ。
敵の夜討ちで糧食陣地が混乱したものの、今は落ち着いていた。
士気は高く、より堅固な防御陣を敷き、敵の出方を待っていた。
項羽率いる夜討ちで追い払われた劉邦軍が、
少しずつ戻って来始めていた。
自陣だけでなく、包囲陣そのものの再構築を図っている様子。
一見すると当初のままだが、奥行きは違った形にするのだろう。
それを遠目に見抜いた。
木の食器に食べ物を盛った虞姫が姿を現わした。
「食べなさい」
「そうだな」
受け取ると、敵の動きを見定めながら口に運んだ。
挑発するかのように、昨夜の本陣跡に劉邦軍の旗が掲げられた。
鬨の声に続けて銅鑼が乱打された。
弱いけど威勢だけはいい。
虞姫が女兵士の運んできた酒を受け取った。
「酒もあるわ」
「貰おう」
零れるまで酒を注いで、椀を手渡した。
「これからどうするの」
「それは敵の出方次第だ」
「糧食は」
「長引けば不足するが、案じる事はあるまい。早めにケリをつける」
敵陣に目を遣った虞姫の顔が曇る。
「増えてはいない」
「んっ」
ようく目を凝らせば前日までいなかった軍勢の旗が何本か数えられた。
着陣を遅らせ、日和見していた軍勢だ。
項羽軍の糧食を全て焼き払った、とでも言って説いたのであろう。
着陣したからには、今さら項羽軍には加われない。
その事実は大きい。
積極的でないにしろ、着陣の事実が敵勢の士気を高揚させる。
実に小賢しい。