四面楚歌 その36
毬子は真夜中に目が覚めた。
このところの熱帯夜のせいではない。
ヒイラギが気になるのだ。
彼は毬子に見られたくないのか、深夜に活動していた。
モデムの薄明かりに、
小さな縫いぐるみ、「耳長のピンク猫」が浮かび上がった。
生意気に机の上を歩いているではないか。
たどたどしい足取りだが、二本足でちゃんと動いていた。
そして、机から落ちた。
落ちても直ぐに立ち上がり、机の上に戻ろうとジャンプした。
両足が浮き上がるが、ほんのちょっとだけのジャンプ、
10センチ程で終わった。
それでも何度か繰り返した。ちょいジャンプ。
生憎、机の上にまでジャンプさせる事は出来ないらしい。
それでも進歩していることに変わりはない。
サクラによると、
ヒイラギが触手を会得するとは驚きだそうだ。
見込んだ上で教えたと思っていたら、遊び半分だったらしい。
触手を会得したお蔭でヒイラギは、毬子の目や耳は用無しになった。
これまでは目や耳の届かないところは気配だけで読み取るようにしていた。
それが会得した触手は思った以上に効率が良かった。
手としての動きだけでなく、同時に目や耳等の五感の働きもすると言う。
そんな様子を見たサクラが、
「私の触手と遜色ないわ。
神の見えざる手に比べると、レベル的にはちょっと落ちるけどね。
でもヒイラギはもともと変なのかも知れないわね。
生きた人間に取り憑くわけでなし。
邪魔にならぬように居候し、今では仲良く同調しているからね」と笑った。
確かにヒイラギは毬子にとっても変な怨霊だ。
なかでも学校の授業には熱心だった。
毬子の目や耳を通して見聞きしているだけだったが、理解が早かった。
本来、聡い人物なのかも知れない。
ただ、テストの最中に鼻で笑う性格でもあった。
採点されて戻されたプリントを見て、その理由を知った。
間違えた箇所を笑ったのだ。
「どうして教えてくれなかったの」と質すと、
「テストは一人で戦うものだ。間違ったくらいでは死なない」と返された。
「でも私達は友達でしょう」
「それとこれとは違う。甘やかすだけの奴は友達とは呼ばない」
正論だけに二の句を継げなかった。
「でもさあアンタ、聞かせて貰うけど、生きていた頃も頭よかったの。
それとも死んだショックで頭が良くなったの」
「そんな風に考えるのか。まったく毬子は暇だよな。
自慢じゃないが、物覚えは良かった。
しかし、その頃に習い覚えたのは兵法だ。
如何にして敵軍を攻め滅ぼすか。
武人の家柄だったからな」
「それじゃあ、今習ってるような教科は初めてなのね」
「そうだ。異国の生まれ育ちだから、この国の言葉も初めてだ。
でも、慣れればどってことはない」
思い出した、ヒイラギが毬子に居候したのは中国であったとか。
だがそれ以上は聞かなかった。
何時、どこで、どのようにして乗り移ったのかは。
ヒイラギも毬子の気持を読んだのか、自分から中国の話しはしない。
榊一家の巻き込まれた事故を気遣っているのだろう。
毬子は目を閉じた。
こういう場合は忘れて眠るのが一番良い。
細く長く吐いて、同じく細く長く吸う。
羊を数えるよりも、丹田を整える呼吸法が得意なのだ。
縫いぐるみの、「耳長のピンク猫」が毬子の方を振り向いた。
彼女の寝姿を注意深く観察した。
ヒイラギは毬子の邪魔をせぬように、触手に軸足を移していたので、
彼女が起きていた事に気付かなかった。
サクラがヒイラギに言う。
「あの娘は起きていたよ」
「やっぱり。毬子から妙に悲しいような気配がしたんだ。
夢でも見ているのかもと思ったが、違ったか」
「家族が巻き込まれた事故の事を思い出したみたいだね」
「・・・。
どうして、こんな夜中に」
「さあ、どうしてなんだかね。
思春期だからかね。
・・・。
でも何時かは話すんだよね」
「何時かは。
目撃した者の努めだろう。
あの娘が大人になって、覚悟をもって聞いてきたら・・・、
見たそのままを話そう」