◆7◆ 初恋も失恋もヨーグルトの味
それから、お互いに気まずくなって、少しの沈黙が続いた。
聞きたいことは次から次へと出てくるが、聞いてはいけないことがあると学習した私は、頭の整理をすることに集中した。
あれから目を合わせようとしないお兄さ……お姉さん? いや、お姉さんとは呼べないけど、とにかくずっと視線が右上を向いている。誘導的な合図なのかと私も見るが、やっぱりそっちにはカーテンしかない。誘導的なものではないとすると、さっきからしているこの仕草は癖なのかも。気まずかったり考える時に、必ず同じ方向を見ている気がする。
静かに時が流れていく部屋に、時計のカチカチという音だけが響いている。さっき時計を見てから三十分も経っていない。ずいぶん時間が経っていたと思っていたのに、静かな空気の時って、結構遅く感じるものなんだなと思った。もう授業は二時間目が始まってるくらいだろうか。今から行っても気まずい、ここにいても気まずい……。どうしたらいいの? お兄さ……そちらさんも学校行かないの?
そっか! 同じでなきゃいけないだとか、制服のことに共感してくれてたのって、私と同じでスカートに抵抗があったのかも。うん、それなら納得がいく! あ、納得したら失礼だけど。でも、この綺麗な顔立ちなら、意外と女子の制服も似合うかもしれない。むしろそれはもう、女装なんだか男装なんだか分からないけど、どっちも似合うのならどっちでもいいのでは? 私も人のこと言えないけど、今は急に言われてもこの人が女子の制服を着てる姿は想像できないな。私とは違う意味で、スカートよりもずっとこっちの方が素敵だし!
「私、背が高いしかわいくないし、ものすごく制服にコンプレックスがあったんです、あるんです! でもそういうこと悩んでるのは、私だけじゃないんだって……思っていいんですかね……?」
「……そうだけど、ちょっと違うかな?」
勇気を出して発した私を見て、少し間を置いてから呼吸を整えるように小さくため息をついた。
「ぼくはね、似合うとか似合わないとかじゃなくて、この姿の方が自然体でいられるんだ。こんな話は中学生の子にしちゃいけないんだろうけど……」
「どうしてですか? 私にだって、その恰好の方が似合ってるってことくらい分かりますよ!」
「いや、だからね、こんな風になっちゃいけないなって思ってさ……。女の子に生まれた以上は女の子らしい恰好するのが自然なことなんだからさ、中学生の今からおしゃれをしなくなっちゃうのはもったいないって思うんだよ。どんな人でも、女の子に生まれた以上はかわいい服が似合うと思うから」
「こんな風に? 素敵なんだからそんな言い方しちゃダメですよ! そりゃ、男の人だと思ってたから、女の人だって聞いた時はびっくりしましたけど……。でも、自分に素直に生きてることは大事だと思います!そんなところも素敵だと思います!」
勢いよく大声を出してしまった私に、ちょっと驚いた表情をして、それから……、それから笑った。
「君は強いね……。そんな風に言ってくれる君の方が、ぼくなんかよりずっと素敵だと思うよ?」
「私は素敵なんかじゃ……」
笑顔が眩しすぎて、言葉を詰まらせた。何回も言うけど、素敵って言葉はこんな人の為にあるんだと思うほどに……。
こんな素敵な人、もう男でも女でもどっちでもいいじゃない!
「お名前……、お名前教えてください!」
「蒼だよ、成海蒼」
「蒼さん……? 名前も素敵! 私は……」
「美空藍ちゃんでしょ? バッグに書いてある」
「はい! 藍って呼んでください!」
あの時は幸せだった。気持ちがぽかぽかと暖かくて、身体の深いところから好きって言葉が溢れてくるようだった。これが恋なんだと把握するのに時間は掛からなかったくらい……。
それが失恋に変わるのにも、そう時間は掛からなかったが……。
真面目に登校するようになった私は、下校途中も塾の行き帰りも、いつも蒼さんの姿を探していた。蒼さんに会いたくてアパートを見上げては立ち止まり、今日も会えないのかとため息をつきながら通り過ぎる日々……。まさか引っ越してしまったんじゃないかと、諦めようとしたこともあったけど、そう簡単にはいかなかった。
二ヶ月が経ち、学校が夏休みに入った代わりに始まった夏期講習、朝から塾なんて憂鬱だなと思いながらも、蒼さんのアパートを見上げる習慣は続いていた。いや、その習慣さえ続いていなければ、淡い恋心は自然と綺麗に蒸発していたかもしれない。
八月のある日、蒼さんの部屋の窓が開いているのが見えた! 数か月間会えなかった分、私の心は膨らんでいた。下から叫べばきっと気付いてくれるはず! そう思って窓の下まで来た時、そこから見えたのは蒼さんではなかった。
背中まで伸びた髪の、色白で小柄で美人な……。私とは真逆な女の人が楽しそうに話す横顔、その向こうには嬉しそうに笑う蒼さん。恋人だと直感で分かった。
確信もあった。夏休みの間、しばしば見えるその光景、時にはアパートから手を繋いで出て来ることもあった。困ったような照れたような顔でほどき、また絡められてはほどき、からかわれてるように見えたが幸せそうな二人だった。
私の入る隙間なんてない。私の蒼さんではないんだ。所詮片思い、初恋なんてこんな簡単に終わるのかと失望した。