第捌刻 〈町が明滅するほどに〉 ★
軽やかにステップを踏みながら、体を反転させる。
「……気を抜いタおれが悪かったかナ?」
筋肉が強張るほど濃くたち込めた邪気の奥には、細かく切断されたはずの少女が立っていた。苦々しい面持ちをしているが、身体には傷一つ見当たらなかった。
――そんなはずはない。
黎が苦々しく引きつった顔を見せる。
あの呪符ならば霊体をも鮮やかに切り伏せるはずだ。少なくとも傷くらいは負わせられるはず。
「お前……」
その姿に、黎は言葉を失う。赤く鋭い眼光に射すくめられ、半歩後ずさった。
彼女の頭に不自然な盛り上がりがある。左右の頭頂部の毛が、一部だけ逆立っているようだ。
――と、盛り上がった毛がヒクリと動いた。
ツンと尖ったその形は、まるで獣の耳だった。先ほどまでは見受けられなかったものに、動揺が走る。
それを見て取ったのか、固く結ばれていた少女の口の端がわずかにほころんだ。
「餓鬼メ……。ただデ帰れると思うなヨ」
彼女が吐き捨てると、邪気の塊が爆ぜた。靄のようだった気は実体を伴い、細かな礫となって黎に襲い掛かる。
とっさのことに、反応が遅れた。身を翻しながら防御の式を繰り出そうと気を集中させるが、避けきれなかった破片が突き刺さった。
結晶化した邪気の破片は、疼くような痛みを残して黎の体に吸収されていく。慌てて手で払い落そうとすると、柔らかな膜に溶け込むように滑らかな動きで皮膚の下に潜り込んでしまった。
一瞬にして患部が熱を帯び、熱は激流のように全身を駆け巡った。
「……っ、く……」
心臓が爆発する勢いで大きく脈打ち、視界が純白の光に覆われる。膝の力が抜け、なす術もなく地面に崩れ落ちた。
脳味噌を掻き混ぜられるような眩暈の中、意識を保つことだけに全力を傾けた。気を抜けば、その瞬間に昏倒してしまいそうだ。
目を閉じ荒い呼吸を繰り返しながら、心臓を落ち着けることに意識を集中させる。
「さテ、どんな風に甚振ってやろうカ」
少女の楽しそうな声と共に、至近距離で生臭い息が吐きかけられた。人間のものとは遠くかけ離れた腐臭に、堪え切れず胃の中身がせり上がってきた。
吐瀉物がアスファルトに叩きつけられる音が下品に響く。鼻腔を刺激する酸っぱい匂いに噎せながら、口の中に溢れる唾液を吐き出した。
脂汗が頬を伝い流れ落ちる。呼吸を整えながら瞳を開くと、目と鼻の先に彼女の顔があった。
獣の耳が生えた少女は、いたずらっぽく笑うと大きく口を開いた。四本の犬歯が街灯の明かりを反射する。
「がおぅ」
「ひっ……」
迫力のない威嚇だった。にもかかわらずランドセルの幼女がフラッシュバックし、黎はのけぞるように顔を逸らした。
そこへ、彼女の顔が重なる。
先ほどよりも近く、密着していると言っても差し支えない距離だ。
少女は舌を伸ばすと、黎の口元に付いた吐瀉物を舐めとった。執拗なほどねっとりとした舌の動きに、嫌悪感が込み上げてきた。
舌先が唇に触れようかという瞬間、黎は全身で少女を撥ね退けていた。
「けひひ、つまらナいねェ。本当につまらなイ餓鬼だヨ」
黎をねめつけながら、少女は耳を動かす。己の唇を舐めあげる舌先は、毒々しいほどの真紅だった。
その姿からして、動物霊が同化しているのだろう。
霊体の集合体というのは、同化するものが増えれば姿も混沌とすると相場が決まっている。それに対して、彼女は耳が生えたほかは綺麗なままである。
――つまり、倒すべきはこの獣一匹だ。
手の甲で口元を拭い、立ち上がりざまに少女の顎目がけて頭突きを繰り出した。
ゴッと鈍い衝撃が走り、目の奥に火花が散る。確かな手ごたえがあった。捨て身の攻撃となってしまったが、効果はてきめんだったようだ。
身体能力は普通の女子高校生と変わりないらしく、顎を押さえてうずくまっている。
「くらえ、『第肆式・斬』!」
術式で追い打ちをかけると、少女の瞳が紅く光った。呪符は彼女の瞳と同じ色に染まり、空中に停滞する。
そして、そよ風に流されて少女の後ろの塀に当たり、呆気なく落ちた。
術式による対抗は意味をなさないらしいと知り、小さく舌打ちをする。ならば確実にダメージを与えられる肉弾戦に持ち込むほかない。
汗臭い道場を嫌い、鍛錬を怠ってきたことをわずかに後悔した。
一歩を踏み出そうとして異変に気付く。
少女を中心に、先ほどとは比べ物にならない邪気が渦巻いていた。彼女が立ち上がると、バチバチっと電気がショートする音と共に自販機や街灯が点滅した。
――何だ、何が起こっている?
初めての経験に、黎は戸惑っていた。
多少ならば、電気系統に影響を及ぼす力を持った個体が居ることは知っている。しかし、このように広範囲に力が及ぶというのは聞いたことがなかった。
――神崩れか……?
信仰が薄れ、零落した神ならばあるいは、と考えた時だった。
大きな衝撃と共に、体内に残った邪気の結晶が共鳴を始めた。燃えるような熱さが身体を内側から灼く。
蓄積したダメージのせいで、体がいうことを聞かなくなった。
少女の髪は、重力に逆らって波のようにうねっている。細く頼りない体から溢れる邪気は、空気を完全に飽和させていた。
激しい爆発音と共に、周囲の灯りが一斉に消えた。月を呑みこんだ雲は厚く、一帯が完全な闇に覆われる。
熱は体内に充満し、思考も行動もままならなくなっていた。
「オ前をこのマま殺すのは勿体なイ。チャンスをやロうかネ」
そう言って笑った声を最後に、黎の意識は途切れた。