第陸刻 〈仮にそれが夢であっても〉
黎はバスに乗っていた。師の家に赴く時に利用する、郊外へ向かう路線だ。
右後方のタイヤの上、少し高くなった座席で窓にもたれるように景色を見ていた。左手には、老婆が相席している。
仕事や部活が終わる時間帯という点を加味しても、今日はやけに人が多い。普段ならせいぜい二、三人が吊革に掴まって立っているほどの込み具合の路線が、息が詰まるほどのすし詰め状態なのだ。
人が多いせいか、車内の放送も聞こえにくい。窓の外を見て、嫌な予感がした。
見たことがない景色だ。
乗り過ごしたか路線を間違えたのだと慌てて降車ボタンを押す。しかし、ボタンは反応しなかった。何度も力を込めて押し続けたが、壊れたボタンは役目を果たそうとしない。
「すみませんっ、降ります!」
大声を張り上げて運転手に呼びかけるが、運転手からの返事はない。
「すみませんっ!」
黎が席を立つが、隣の老婆は通路へ通してくれなかった。それどころか、迷惑そうに横目で見遣るばかりで誰一人場所を譲ろうとしない。
「諦めなよ」
隣の老婆が、ようやく声を発した。その声に黎の動きが止まる。
見た目に似合わぬ幼い声。奇妙な感覚が全身を震わせた。
――あの晩、公園で出会ったランドセルの少女の声だ。
愕然とする黎に、老婆はニィッと笑った。
その口が大きく裂け、鋭い牙がむき出しになる。老婆につられるように、車内の人々の口元も緩んだ。大きく裂けた口元には、やはり不穏な輝きを放つ牙が並んでいる。
しゃきん、しゃきんと嫌な音が響く。口を開閉する音は四方から黎を包み込み、鋭い歯が頬を掠った。
「『末式・煙』」
多勢に無勢と脱出を図ったが、なぜか術が発動しない。
窓をこじ開けようにも、接着剤で貼り付けたようにびくともしなかった。
「きひっ、無駄だよ」
焦燥に駆られる黎を見て、老婆は楽しそうに体を揺らした。
必死に策を練るが、名案というのはそう簡単には振ってきてくれないらしい。
全身を細かく切り裂かれながら、嬲り殺されることを覚悟した。
「『第肆式・斬』!」
せめて一矢報いることが出来ればと、広範囲にかまいたちを巻き起こす。風の刃を纏った呪符は、勢いよく飛び出した。
「本当に馬鹿だねぇ。アタシ、馬鹿は嫌いなんだ」
札を咀嚼した乗客がため息を漏らした。その姿は、いつの間にかランドセルを背負った女の子に変わっている。
隣の老婆も、吊革に掴まっていたサラリーマンも、居眠りをしていた学生も、皆が皆幼女に姿を変えていた。
「……っく、なんでこんなに」
たじろぐ黎を前にした幼女たちは、全身を震わせて笑った。一糸乱れぬ甲高い響きにバスまでも揺さぶられる。
運転手の身に何か起きたのか、車体が大きく横滑りした。けたたましいクラクションと共に、対向車のヘッドライトが網膜を焼いた。
「――バイバイ」
口角を引き上げた幼女たちが一斉に姿を消す。直後に、激しい衝撃がバスを襲った。
「っ、……はぁ、はぁ」
肩で大きく息をしながら、黎は飛び起きた。全身が汗でぐっしょりと濡れている。
陽光に照らされた鮮やかな景色にはそぐわない、最悪の夢見だった。夢だとわかっていても、一度暴れ出した心臓はそう簡単に大人しくなってはくれなかった。
――あんな夢を見たのは、昨夜飛び込んできたニュースのせいだ。
苦々しい気持ちを噛み潰し、置時計に視線を落とした。あと十分もすれば短針が真上を指してしまう。
数時間後には、あの不気味な少女の元へ向かわなければいけない。その事実がさらに気を重くさせた。
現実を遮断するために瞼を閉じる。すると、牙を剥きだしに嗤う幼女が浮かび上がってきた。襲い掛からんと口を開いたのを目の当たりにして、二度寝は断念した。
「……ったく」
部屋着から動きやすい服装に着替える。いつ本当に襲われてもいいように、緊急連絡用の式神も準備した。
しかし、肝心の師匠とは連絡がつかなかった。家も、母屋に隣接した道場も訪ねてみたが外出中だった。
昨日は留守でも、今ならば在宅中だろう。希望を込めて連絡用の式神も飛ばしたが、師匠の居場所は掴めなかったようで情けない表情で戻ってきてしまった。
――八方塞がりだ。
式神でも見つけられないということは、師は遠く離れた土地にいるか結界を張って瞑想をしているかのどちらかだ。可能性としては圧倒的に後者の方が高い。
電話も持たない人であるため、式神を師の家で待たせておくという方法をとるのが最良と思われた。
「頼むぞ」
師匠の前でだけ解ける特殊な術を使って、一つ目の鴉の姿をした式神を作りだした。
鴉は顔の中央に穿たれた巨大な眼球をぎょろりと動かして黎を見る。従順な鴉は、合図と共にくるりと一回転して窓から飛び立った。
鴉が小さくなり見えなくなったのを確認すると、一息ついた。
充電器につながれていた折り畳み式の携帯電話を手に取ると、他の仲間にメールを打つ。
戦力としての見込みは薄いが、師匠が黎の送ったサインに気が付かなかった時の保険にはなるだろう。一番年齢の近い愛理と、師匠の次に年齢が高い俊彦にメールを送った。二人は顔が広いから、万が一の時には他の仲間にも連絡を回してくれるはずだ。
女子高校生の愛理からはすぐに返事があった。
「気をつけて」
ひとことだけの返信を読むと、すぐに削除した。
昼間は会社員である俊彦からは反応がない。この様子だと残業をしているのだろう。携帯をちらりと一瞥すると、ズボンのポケットに押し込んだ。
ポケットの裏地越しに、腿にひんやりとした携帯の感触が伝わる。
少女に指定されたのは、「夜」という大まかな時間だけだ。何時に現地へ向かうかは、黎の裁量に任されているということになる。
目撃情報が多く集まる夕方ではなく、あえて夜を指定してきた。少女ではない方の人格が活動できるのが、その時間だということなのだろうか。
人ならぬモノが一番活発になるのは夜中の二時頃だ。どちらが相手にしろ、丑の刻に退治することだけは避けたい。しかし、相手の力は未知数だ。
……と、携帯電話がメールの着信を知らせる音楽を鳴らした。くぐもった音に眉をひそめながら携帯を取り出す。
一件の新着メールがあったが、差出人の名前はおろかアドレスも表示されていなかった。そんなことがあるはずはないと思いながら、メールを開く。
『逃げるなヨ?』
文面を目にした途端、全身の肌が粟立つのを感じた。
恐怖や怯えに起因する現象ではなく、本能による自然な反応だった。畏怖、とでもいうのだろうか。
メールが送信されたのは今日の二十一時十七分。少し先の未来の時刻を示していた。
相手が待ち合わせの時刻を指定してきたと取るのが妥当だろう。このような形で力を誇示されてしまえば、その挑発に乗るほかない。
準備だけは怠るまいと気を引き締め直した。




