第肆刻 〈目の前を横切るは〉 ★
茜の空は、半ば群青に沈み始めた。じきに刻限を迎えるだろう。彼女が消えてしまう前にと急く気持ちを押さえ、つま先で小石を弄んだ。
「ああ……でも、こんなことを言ったら怒るかなぁ……」
伏し目がちにぶつぶつと繰り返すのを聞いて、黎は眉根にしわを寄せた。
付近を漂っていた雑多なモノたちが、潮が引くように姿を消した。かれこれ三十分以上、このありさまが続いている。
彼女が不安がるたびに怒らないからとなだめすかしてきた黎にも、我慢の限界が訪れた。
「僕だって暇じゃないんだ。いいから早く話してくれないかな」
わずかに声を荒げただけで、少女は顔を覆って嗚咽を漏らした。その態度が余計に苛立ちを増長させる。
「泣いてちゃわかんないだろ?」
「……っ、私……」
むせび泣く彼女をどうして良いかもわからず、小さく舌打ちをした。
普段なら力尽くで片づけてしまうところだが、今回に限っては穏便にという通達がある。呼吸を整え、拳に蓄えられた破魔の気をそっと鎮めた。
――こんなことなら、愛理に頼めばよかった。
脳裏をよぎったのは、四つ年上の仲間の顔だった。彼女との年の近さなら、愛里だって負けていない。彼女だって同性の方が話しやすいだろう。
しかし、愛里は大学受験を控えている身だ。周囲が気を遣って任務を回さないようにしていた。
それに反を唱えるわけにはいかない、とうんざりしながらも彼女が落ち着くのを待つ事にした。
「ごめっ……なさ……」
子供のようにしゃくりあげながら、途切れ途切れに話し始めたのは腕時計の針が六時を回ってからだった。
話し終える前に消えてしまうかもしれない。そうなれば面倒だなとぼんやり考えながら、話を聞いた。脈絡なく話がずれるので、途中で何度も彼女を誘導しなければいけなかった。
ようやく聞き出せた涙の理由は、存在に気が付いてくれる人がいない寂しさに起因するものであるようだ。しかし、彼女の存在が多くの者に知られていることは、黎の行った聞き込みの結果からも明らかだった。
たとえ彼女の寂しさを埋められたとして、それだけで上へ行くことは不可能だろう。もっと別な所に、根本的な原因があるはずなのだ。
話し相手になってみても、解決の糸口が見えないのは誤算だった。あとどれほど彼女がここにいてくれるかは不明だが、別の角度から話を切り出すことにした。
「キミ、自分がここにいるべき存在じゃないってことはわかってるよね?」
「はい……」
「キミは都市伝説になりかけているんだ。――これは、喜ぶようなことじゃない」
少女の表情が明るくなりかけたのを察して、即座にくぎを刺す。
再び泣き顔に戻られるのも厄介だが、誤解を与えたままやり過ごしていい話ではない。
「都市伝説になれば、キミのようなモノが日本全国に現れるんだ。意味、わかる?」
「私のような、ですか……?」
「そうだよ。全く関係ない霊体まで、キミのように悲しみながら誰かに気づいてもらうのを待ち続けなきゃいけなくなるんだ」
理解できないというふうに首をかしげたので、黎は首を落としてわざとらしい溜息をついた。
「都市伝説に出会いたいと思う人がいるのはわかるね? そういう人々の思念が、近くに溜まっている霊体に悪影響を及ぼすことがあるんだ。もし影響を受けて、悪霊に変化してしまったら、僕らみたいなのが退治しにいかなきゃいけない」
彼女がうなずくのを確認しながら説明をつないだ。
こうしていると、まるっきり普通の少女と変わらない。それが黎に奇妙な感覚を覚えさせた。
「私、死んだんですよね。……だとしたら、どうしてここにいるんでしょう?」
ふっ、と表情を曇らせた少女が呟いた。
「よく原因として挙げられるのは、死ぬ前に後悔したことがあるとか、何かを強く想っていたとかだけど……」
「心当たりがないんです」
口元へ手を当てながら首をかしげるしぐさが可愛らしい。彼女がこの一帯を震撼させた張本人だとは、想像もつかないくらいだ。
「思い出せないだけで、何かあるはずだ」
よく考え直してみてと促そうとした黎は、己の目を疑った。何かが二人の間を通り抜けたのだ。
驚きで彼女は身をすくめ、面を伏せた。
次の瞬間、先程までの穏やかな雰囲気が嘘のように禍々しい気が満ちた。
慌てて付近を見回すが、通行人の姿は一つも見当たらない。
「……っく、く、くクッ、ククくッ、クくククク……」
嗚咽かと思われたその声は、次第にはっきりとした笑い声に変わった。
顔を上げて少女を見遣れば、彼女はその美しい顔を卑しく歪めてニタニタと嗤っている。
「ホント、下らない餓鬼だネ?」
にいっ、と口角を持ち上げると、黎の顎に指をかけた。そして、まじまじと黎の顔を見つめる。間近に迫った彼女の瞳は細く吊り上がり、妖しげな紅い色に輝いていた。
ふぅ、と吐きつけられた息は、異様に生臭い。
視線を逸らそうとするが、金縛りにあったかのように体が動かなかった。――否、これが噂で聞く金縛りそのものなのかもしれない。
突如豹変した彼女に黎が反応しかねていると、少女はさも可笑しげに嗤いながら黎から離れた。
「けひ。おれに近付いてくるから何奴かと思ったラ、ただの餓鬼じゃないカ」
不思議な嗤い方をするソレは、先ほどまでとは全く以て別の存在になっていた。
不穏な気配をまとってはいるが、この前のランドセルの幼女と違ってあからさまな敵意は感じられなかった。
黎から離れたソレは、ふらふらと歩いて視界から消える。
慌てた黎は、気を集中させて硬直する体を動かそうと試みた。しかし、体は思うように動いてくれなかった。
「無駄無駄。おれには逆らえないヨ」
けひひ、と声を漏らす。
どこまで見通されているのかと思うと、背筋が寒くなった。
そんな黎を他所に、少女のなりをしたモノが背後に回る。
少女のひんやりと冷たく細い指が、黎の首に添えられた。
ピクリ、と一瞬まぶたが震えたが、それ以上は動くことが出来なかった。
「そうそウ、いい子じゃないカ」
甘く囁きながら、ソレは指に少し力を込めた。
少女の綺麗な爪が、黎の首に鋭く突き刺さる。
「明日の晩、ここへおいデ」
妖しく微笑むと、ソレの気配がスッと消えた。それと共に体が解放され、肺に新鮮な空気が流れ込む。
緊張が解けてへたりこむと同時に、冷や汗が全身から噴き出すのがわかった。先程の少女は、影も形もなくなっていた。
――どうやら、一体だと思っていた相手はそうではなかったようだ。かなりの厄介事に首をつっこんでしまったらしい。
度重なる失態に、憂鬱な気分になった。だからといって、このまま座り込んでいるわけにもいかない。
荒い呼吸を整えて額の汗を拭うと、黎は師に報告をするためにすぐさま立ち上がった。