第弐刻 〈電柱の影にセーラー服〉
街を橙に染め上げる陽光に紛れ、この世のモノとあの世のモノが行き交う時間がある。
陽の沈む時刻。
――いわゆる、逢魔ヶ時。誰そ彼とも呼ばれる。
そんな時間。迫りくる夕闇に二つの世界が入り混じるのだ。
人が、人ならざるモノを見つけたとき。それは噂となり、拡散される。初めはひとつだった怪異が同時に多数の場所へ現れ、種々の様相を呈す多様な怪物と化す。
そして、都市伝説は生まれる……――。
買い物袋を提げた女は、焦りから早足になった。買い物に手間取っているうちに、太陽が山の向こうに隠れてしまったのだ。
東の空は濃紺、西の空は燃えるような赤に染まっている。住宅地には次々と明かりが灯り、煮物や焼き魚、カレーといった料理の香りが鼻腔をくすぐった。
きゅるる、と腹の虫が小さな鳴き声を上げて自己主張する。
腕時計で時間を確認すると、午後六時を回っていた。少し前まではもっと陽も長かったのに、秋はもうすぐそこまで近づいているらしい。
あと三十分もすれば夫が帰宅するだろう。その前に夕飯の支度を終えなければと、女はさらに歩調を速めた。
「ママ、あそこ。いる!」
女に手を引かれて歩いていた三歳の娘が、数メートル先の電柱の陰を指さして言った。たどたどしくも言葉達者になり始めた娘だが、主語が欠けている。
あらかた、この辺りに住む子供がかくれんぼでもしているのだろう。
近所の子供だとして、じきに陽も完全に暮れてしまう。
もし見つけてしまったら、早く帰るように注意した方がいいのだろうか。しかし、変なトラブルになったら面倒だ……。
思考を巡らせつつ、女は電柱の陰を覗いた。
「……誰もいないじゃない」
どうしたものかと案じていた女は、拍子抜けしてしまった。娘も「あれ?」というふうに首をかしげた。
どんなに目を凝らしてみても、やはり、何もいない。誰かが去っていく様子もなかった。夕闇のせいで何かを見間違えたのだろうか。
女は電柱の周りをぐるぐると回り始めた娘を捕まえ、しゃがみ込んで視線の高さを合わせた。
「見間違いかもしれないね。パパが帰って来ちゃうからおうち行こうか?」
優しく言い聞かせると、娘は頷いて自宅の方向に目を向けた。
大きな目がひときわ大きく見開かれ、満面の笑みが浮かぶ。
「こっち!」
娘が嬌声を上げた。娘の視線の先にあるのは、次の電柱だ。
女は気味悪そうにその電柱をちらりと見た。やはり誰の姿もない。それなのに娘の視線は相変わらず電柱の陰に注がれていた。
「きょ……、今日は別の道で帰ろっか」
子供にしか視えないモノがあるという噂は聞き知っている。それも、自分が体験するとなれば話は別だ。
薄気味悪さに耐え切れず、女の歩く速度が早くなる。
帰り道を変えても、娘は電柱を見かけるたびに「おねーちゃん、いる!」と言い続けた。
娘が「おねーちゃん」と呼ぶということは、視えているのは幼稚園の年長か、小学生くらいの子供なのだろう。
女の子の幽霊。
怪談では鉄板のような話だが、巻き込まれるのは御免だ。
――このまま女の子が家まで付いてきてしまったら。
嫌な想像が頭をよぎった。
その途端、恐怖は別のものへと変容する。
「いい加減にしなさい! そんなに何人も電柱の陰に隠れて居るはずがないでしょ?」
業を煮やした女が、足を止めた。娘の前にしゃがみ込むと説教を始めた。
娘は、いやいやと言うように首を大きく横に振った。
「ちがう! おねーちゃん、ひとり!」
女の顔が、更に険しくなる。
どこを探しても、娘の言う「おねーちゃん」の姿はどこにも見当たらない。
目的が不明な上に、年齢もわからない。小学生なのか、中学生なのか、あるいはそれよりも上なのか。
未知の世界に足を踏み入れてしまった女は、とうに思考から夕飯の支度のことなど排除していた。荷物の重みだけがおぼろげな現実味を放ち、彼女を引き留めている。
「お姉ちゃんはそこで何をしているの?」
女の問いに、娘はうーんと首をひねった。
「ないてる」
「えっ?」
「おねーちゃん、おかおにおてて、ぎゅって……」
娘のそぶりを見た女は、余計に混乱してしまった。
鼻と口を両手で包み込むように隠し、目を伏せている。きっと「おねーちゃん」の真似をしているのだ。
顔を手で覆うというしぐさなら、娘と「いないいないばあ」をして遊ぶ時に何度もしている。しかし、今の泣き真似の姿はそれとはかけ離れていた。
少なくとも、幼稚園やそこらの子供がするしぐさではない。
本当に泣いているのだとして、何の理由があって先回りなどするのだろうか。
声をかけて欲しいならば、次々に先回りするなどというまどろっこしい方法を取る必要もないだろうに。
「何かあったの? おばさんでよかったら話聞くよ?」
娘が気にし続けている方向に向けて声をかけた。それに反応するかのように、電柱の陰で高い位置で結ばれた髪の毛がかすかに揺れるのが見えた。
その高さから察するに、中学生か高校生くらいのようだ。
視えるはずがないモノが視えてしまった。
その現実を女の脳味噌は否定した。
恥ずかしがって電柱の陰に隠れてしまったのだろう。中途半端にシャイな子もいたものだ。そう、認識した。
やれやれと肩をすくめながら、女は電柱の裏手に回る。
――しかし、そこには誰もいなかった。
電柱の周りをぐるりと見まわしたが、人影はおろか髪の毛と見間違えるようなものもない。とっさに隠れられるような空間もなく、あまりに不可解な状況だった。
そんなことはありえない、と女は再び娘の手を引いて歩き始めた。その後も周囲へ気を配り続けたが、先程見たような髪型の女子学生の姿はついに見つけることができなかった。
「嘘はついちゃダメでしょ」
娘は八つ当たり気味に叱られて、口を尖らせて不満顔をする。
「いたもん」
文句を言いながら、小石を蹴り飛ばす。
怒られて嫌になったのか、娘は電柱の陰に視線を向けることこそあれど人影を見たとは言わなくなった。