第肆刻 〈ぷつりと切れたあかい糸〉
室内では何が起きているのだろうか。あまりにも静かな攻防に焦らされた黎は、校舎に添って右へ左へと歩き回ることで気を紛らわしていた。
教室の様子を知るための数少ない手掛かりであった物音も、今はほとんどが遮断されてしまった。
血管男は上気してはち切れそうになった頭で戦い続けているのだろうか。狐耳の少女も反撃の動きを見せたのだから、別の展開が巻き起こっているはずだ。
あれこれと考えながら、再び血管男の体が這う壁面に立ち戻った。
窓から締め出された胴体はうっ血し、青みがかった紫色に変色してきている。
「……ちっ。どうにか……」
対抗手段を探ろうと思考を巡らせる。
そこへふと疑問が湧き上がった。
――なぜ血管男の味方をしようとしている?
狐耳の少女は相手の態度からも明らかな敵であるが、アレとだって意思の疎通ができなかったではないか。
味方のような雰囲気を醸しているだけで、実は黎に危害を加える算段だったかもしれない。
黎が考え込んでいると、ややしばらく遅れて、ようやく血管男の反対側の端が現れた。頭だと思っていた側と同じように端は握りこぶし大の顔になっていた。
しかし、こちらは少し違って女性の顔だ。苦悶の表情のために一見しただけでは性別がわからない。派手に塗りたくられたチークと多足類の生物を思わせるマスカラが、辛うじてソレを女性であると示していた。
女の顔はのたうちながら校舎の壁面を駆け上がり、窓ガラスに思い切り頭を打ち付けた。ほどなくして男の顔も現れ中と外の両方から頭突きを繰り出す。
ゴッという鈍い音が断続的に続いた。
かつて黎も窓を打ち破ろうと挑み、かなわなかった。その時の痛みを覚えているため己の身をもいとわない血管男の熱量をつい応援したくなる。
頭突きを繰り返すうち、男の額が割れて血が溢れ出した。女も同じ状態らしく窓の内側も外側も血の伝った跡で汚れていた。
血まみれの男の顔が徐々にうっ血しはじめ、もともと顔色の優れなかった女の顔はどす黒く変色している。
そして、ついに女の顔が意識を失ったらしい。
突如力を失って落下した頭に気付いた黎が反射的にそれを受け止めた。
「……っ!」
氷のような冷たさに思わず手を引っ込めそうになる。生き物らしい温もりはすでに失われ、拍動もほぼなくなっていた。
男の顔は悲痛な表情を浮かべながら、なおも頭を窓に打ち付けている。もはや脱出を試みているのか自傷に走っているのか判断がつかない激しさだった。
窓に気を取られる男の顔の真後ろで、血管の繭から細い指が現れた。両の手がそれぞれ上と下に動き、呆気なく自身の行動を阻害するものを引きはがす。
さながら繭から孵化する蝶のように少女が姿を現した。
「けひ」
満足げに嗤った少女は繭から抜け出すと窓際に立った。
何を始めるつもりかと思えば、窓に挟まった男の胴体を鷲掴みにしている。――そして、その手を思い切り振り上げた。
「やめろっ!」
黎の悲痛な表情を嘲笑うように、血管男の胴体が千切れた。
押しとどめられていた血液がようやくの解放を喜ぶように勢いよくあふれ出す。
男の顔が絶叫を上げた。窓ガラスで隔てられているとはいえ、先ほどとは比べものにならない声量だ。
黎の腕の中で絶命したと思われていた女の顔も暴れ出した。
こちらは声を出す余力もないと見えて、魚のようにビチビチと跳ねた後ぴたりと動かなくなった。
血の雨を浴びながら、狐耳の少女は嗤っていた。自分の頭より高い位置に上げた血管から血が溢れ出すのを不思議がるように、しげしげと観察していた。
次はない。
彼女の言葉はこんなに残酷な現実を孕んでいたのだろうか。命を奪うにしても、もっとマシなやり方があったはずだ。
怒りに震える黎の目に最後の反撃を繰り出す血管男の姿が映った。
少女の背後に回り込んだ頭部が、窓ガラスに対してしたように頭突きをお見舞いしたのだ。突然の衝撃によろめいた少女は掲げていた血管男の胴体を取り落し、窓にもたれかかった。
窓ガラスに彼女の両の手のひらの跡が赤く残る。涙を押さえる役割を果たしていた手が、今は別のもので汚れていた。
赤く燃えた少女の瞳が床に向けられた。おそらく、そこに男の頭部が横たわっているのだろう。ふわりと跳躍し、確実に男の頭を踏みつぶさんと蹴りを繰り出すのがわかった。
なす術もなく三階を見上げる黎の耳に、血管男が押し潰される瞬間の呻きがこびりつく。
血管男はひときわ大きな血しぶきを上げ、沈黙したようだった。
血管男が生命活動を停止したためか、窓に挟み込まれていた胴体がはらはらと崩れ始めた。血管男だったモノは砂のように風に舞い、月の光に煌めきながら空気に溶けるように消えていった。
「けひ……。まったク、手を掛けさセやがっテ」
乱れた髪を直しつつ狐耳の少女は悪態をついた。その身体を汚していたはずの血管男の体液は、綺麗さっぱり消え去っている。
本体の消失と共に霧消したのだろうか。はたまた何らかの能力を使い彼女自身が消し去ったのか。
いずれにしろ、黎の瞳には残虐な笑みを浮かべる彼女の姿が焼き付いてしまった。
嫌悪感しかもよおさない笑顔で、少女はグラウンドに立つ黎に呼びかけた。
「入り口ハ一階にあル。もっトよく探すンだ」
血管男のことなどなかったかのように告げると窓際から歩き去ってしまう。
狐耳の少女を見失った黎は、再び入口を求めて歩き回る他なくなった。